二十七.生い茂った笹の茂みの中
生い茂った笹の茂みの中を、キータイ服を着たエルフの女が駆けて行く。足元はいいとは言えないが、足取りに危なげはなく、平地を走るかのようだ。
やがて一本の木の根元にまでやって来ると、樹上に向かって大声で呼ばわった。
「おーいアーネ、来たぞー、来た来た!」
枝にかがむようにして、栗色の髪の女が弓を構えている。構えて、視線を逸らさぬままに答えた。
「どれだけだ?」
「でかいのは二、三匹だ」
少しして、エルフの女が駆けて来た方から魔獣がぞろぞろと湧いて来た。形は様々で、グレイハウンドやクロマシラといった獣型のものから、人の形をしたようなのもいる。苔の生えた石の巨人のようなのが何匹かいて、歩く度にずしんずしんと地鳴りがした。
射手の女は素早く矢をつがえて放った。矢は石の巨人の額に突き立ち、炸裂した。
二の矢、三の矢が放たれて、石の巨人が次々に倒れ伏す。それに圧し潰された魔獣の悲鳴や雄叫びが響いた。
だがそれを踏み越えるようにして、魔獣は次々と溢れて来る。
射手の女は木から飛び降りた。
「まったく、切りがないな。焼け石に水だ」
「人手が要るだろ、これ。町まで戻ろうぜ。ギルドも衛士隊も対策はしてるんだろ?」
「だな。この数じゃ結界も押し切られそうだ。早く戻って警告しなきゃ……マリー、道はわかるか?」
「当たり前だろ。おれは森じゃ迷わねーぜ」
射手の女は別の矢をつがえて魔獣の先頭辺りに打ち込んだ。爆発の術式が刻んであったらしく、地面が派手に炸裂して魔獣たちがぎゃあぎゃあと騒ぐ。
二人は身をひるがえして走り出した。
「よし、トゲツまで立ち止まらないからな」
「おう! 戻ったらアンジェとミリィを呼んで……トゲツの冒険者とか衛士隊って、どんくらい強えのかな? 頼りになりゃいいけど」
「さぁな。ま、わたしらの雇い主の貴族……こっちじゃ華族か。オオツキ家だったっけ? そいつらは何か嫌な感じだったけど。アンジェたち、どうしてるかな?」
「なんかうまいモンでも食ってんじゃねーか? お祭りみたいなのやってんだろ? おれらも早く仕事片付けて酒飲み行こーぜ」
「だな」
○
審判が旗を振り下ろし、試合は始まったのだが、両者とも動きはない。
カヤが口をぱくぱくさせて青ざめている。
ナルミは首を傾げた。
「どうしたのさ」
「ど、ど、どうしたのさじゃないわよ! 今出て来たあいつ、物凄く強い……ジャグマより強いと思う……」
「そうなの? 何だかやる気がなさそうだけどな……」
「だからよ! あんな風なのに、どう攻めればいいのか全然わかんないじゃない! あんたそんな事にも気づかないの!?」
「俺、剣士じゃないし……」
「おねぇ、大丈夫かな……」
ムツキが彼女にしては珍しく不安げに言った。
その時、人ごみを押しのけるようにして、何だかもこもこした女がナルミたちの横にやって来た。魔法使い然としたローブを着て鍔の広い三角帽子をかぶり、薄紫の癖毛を三つ編みの二つ結びにしている。髪のボリュームが凄く、服も分厚いので何だか全体的にもこもこと丸っこい。
「あー、やっぱり出てる。アンジェったら、もー」
と大福餅をもぎゅもぎゅ食べながらぼやいていた。カヤがナルミに囁いた。
「あいつの仲間かしら」
「かもね……おい、ムツキ」
女に話しかけようとしていたらしいムツキを、ナルミは慌てて引き戻した。
「話しかけるなよ、姉さんの敵の仲間かもなんだぞ」
「むう……」
ムツキは横の女を見、それからまた舞台の方に目をやった。
舞台袖で冒険者が一人困惑した様子で立ち尽くしており、その横でサキトが焦ったように怒鳴っている。
「おい、あんたの出番はまだだぞ! どうしてそこにいるんだ!」
アンジェリンと名乗った女は面倒くさそうに振り返った。
「わたしは魔獣討伐の契約であなたのところにいる。大会に関してはこっちの自由にやらせてもらう条件で協力してるんだから、文句言わないで」
サキトは悔しそうに歯噛みして黙った。
アンジェリンはふんと鼻を鳴らしてアリスの方に向き直った。
「怪我してない?」
「え? あ、はあ……大丈夫、です」
アリスが困惑気味に首肯すると、アンジェリンは口元だけで小さく笑った。
「よかった」
「は、はあ……」
「んじゃ、やろっか」
そう言って、アンジェリンは無造作に剣を構えた。
アリスは冷や汗を掻きながら剣を構え、必死になってアンジェリンから目を離さぬようにしていた。
アンジェリンからは敵意をまったく感じないが、少しでも目を離せば、その瞬間に目前に来られ、一撃で倒れ伏す。そんなイメージが容易にできた。
逆に自分がどう攻めても簡単に受けられ、カウンターを返される想像しかできない。
アンジェリンの方は剣を片手にアリスを見つめている。膠着状態で、どちらも動く気配がない。
「来ないの?」
急に言われて、アリスはビクッと震えた。
「じゃあこっちから行くよ」
一瞬だった。一歩が十歩はあるのではないかという速度でアンジェリンがたちまち肉薄して来た。
アリスは大慌てで防御態勢を取る。かろうじて一撃目を受け止める事ができた。
アンジェリンは「おお」と言った。
「よく反応できたね」
「くっ……!」
身をよじり、回るようにしてアンジェリンの剣を流す。
そうして距離を取ろうと後ろに下がったが、アンジェリンは涼しい顔で軽々とそれを詰めて来る。何だか遊んでいるような気楽さだ。
しかし気を抜いてはたちまち負けるだろうという確信があるせいで、アリスの方は必死である。
「この……ッ!」
受け身ではいけない。
アリスは勇気を振り絞って反転攻勢に出た。下がろうとしていた足を踏み込み、目の前のアンジェリンに打ちかかる。
アンジェリンは少し驚いたような顔をして、しかしアリスの剣を楽々と受け止めた。
動きを止めるとまずい。止まっちゃいけない。
アリスはぐっと足を踏み込んでアンジェリンを後ろに押し返すと、そのまま滑るように横に回って斬撃を浴びせかけた。しかしアンジェリンは傾いた体勢ながらそれをあっさり受け流す。
アリスは焦ったように次々に斬撃を放つが、アンジェリンは最小限の動きでかわすか受け流すかしてしまう。
そのうちひょいと片手を伸ばし、アリスの頬をむにっとつまんだ。
「うゅっ……!」
「ふふん」
アンジェリンはアリスの顔を覗き込んでいたずら気に笑っている。笑うと妙に子どもっぽい。
アリスはかーっと頬を染めて剣を振る。
それでアンジェリンが身を引いたのを見て地面を蹴り、何とか距離を空けて、剣を構え直した。
激しく動き回ったせいか、ずっとペースを乱されているせいか、それとも緊張感のせいか、心臓がばくばくと鳴っていて、口から飛び出しそうだ。
「……動きが荒いよ。やっぱ疲れてるの?」
とアンジェリンが言った。アリスは肩で息をしながらくっと口を結ぶ。
完全に遊ばれている。
頭は嫌に興奮しているのに、さっきのジャグマとの戦いの疲労が、鉛のように手足にまとわりついて、妙に体が重いように感ぜられた。頭と体がちぐはぐな感じがして、それが何だか気持ちが悪い。
手の中で剣が小さく震えて光った。
――怖がってちゃ駄目。落ち着いて。
「そうだけど……」
ぽつりと呟いた。しかし恐怖は理屈ではない。自分よりも遥かに格上の存在に相対すれば、畏怖というものは勝手に湧いてきてしまう。
「アンジェ、なに遊んでんのー!」
客席から声がした。見ると、魔法使い然とした女が、手を振り振り叫んでいる。口周りに白い粉がついていた。
「そんなからかうような事してちゃ、相手にも失礼だぞー!」
「ミリィ、口の周り真っ白」
「うえっ? マジで?」
「マジで。というか邪魔しないで」
そう言ってアンジェリンはぷいと客席からアリスに視線を戻した。
「それ、もしかして鋼の実の剣?」
「え?」
○
二人が一向に動かないので、観客席も再び騒がしくなり出した。
背伸びするようにして舞台を見ている魔法使いの女のローブを、ムツキが引っ張った。
「ふわもこのおねえさん」
「んー? はいはい、何ですかにゃ?」
魔法使いの女は口元をハンカチで拭いながらムツキを見た。ナルミとカヤがギョッとしたように息を呑んでいるが、ムツキは気にした様子もなく続ける。
「あの人の知り合いなの?」
「あの人ってアンジェ? そうだよー。一緒に冒険者のパーティ組んでるんだ。わたしはミリアムお姉さんだぞー。ミリィちゃんって呼んでもいいよ」
わははー、と言いながら魔法使いの女――ミリアムはおどけたように両手の指をわきわきと動かした。
ムツキはにんまりと笑った。
「ミリィちゃん、アンジェって強い?」
「強いよー。ああ見えてSランク冒険者だからねー」
「Sランクぅ!?」
カヤが素っ頓狂な声を上げた。ナルミも驚きに目を見開いた。前にキオウに行った時、船上でイソナデを一撃で斬り伏せたトラジの斬撃を思い出す。Sランク冒険者というのは格が違うのだ。
「強いわけだ……駄目だな。こりゃ姉さん勝てないや」
「ちょっ! なによ、簡単に諦めるんじゃないわよ!」
「流石にSランク冒険者相手は無理だって。それにジャグマにはやり返せたんだし、十分じゃない?」
「十分じゃない! おねえさ――アリスが負けちゃったらアサクラは負けよ! わたしだって流石にSランク冒険者には勝てないわ! そうなったらオオツキに何されるかわかんないわよ!」
「あ、そうか…………今お姉さまって」
「うるさい黙れ!」
アリスたちきょうだいもサキトとジャグマに対して怒りを抱いていたから、オオツキ家を負かせばサキトの鼻を明かす事にもなるだろうけれど、ひとまずジャグマを倒した事で溜飲はかなり下がっている。アリスが無理をしてまで勝とうという気概はあまりないのだが、シンラとカヤのアサクラ家としては、大会の勝敗を賭けているオオツキ家に勝利しなければ意味がない。
ミリアムがきょとんとした顔で子どもたちを見やった。
「えっとぉ、アンジェの相手の子の……家族なのかな?」
「うん。わたし妹。ムツキ。むっちゃんって呼ばれてる」
「むっちゃん! 可愛いー」
「こっちお兄ちゃん」
「ナルミです」
「じゃナルちゃんだ。そちらは?」
「わたしはアサクラ家のカヤ。こいつらとは親戚ですらないから」
「アサクラ……は、そっちのチームの貴族だったっけ」
「貴族じゃなくて華族っていうんです、こっちは」
とナルミが言った。ミリアムはほうほうと頷いた。
「そうそう、そうだった。なるほど、つまり雇い主の家族と剣士の家族って事ね。でも二人のお姉ちゃん、髪の色が金だよね? ブリョウの人にしては珍しいねー」
「姉さんとは血はつながってないんで……アンジェって人はブリョウ人にしては珍しい名前ですよね?」
「ううん、アンジェは黒髪だけど西のローデシア帝国出身だよ。いやー、西だと黒髪って珍しくてね、アンジェも“黒髪の戦乙女”なんて異名で呼ばれてたんだけど、東に来るにつれて黒髪の人がどんどん増えて来て、ブリョウまで入っちゃったらむしろわたしみたいな方が目立つでしょ? 黒髪が全然特徴じゃなくなってるから、アンジェも異名で呼ばれるの嫌になってるみたい」
「それは……難儀ですね……」
とナルミは苦笑いを浮かべた。
ムツキがミリアムの髪の毛をもふもふと揉みながら言った。
「ミリィちゃんも強いの?」
「強いぞー。AAAランクの魔法使いですからにゃー」
とミリアムはわざとらしく胸を張った。高位ランク冒険者なのに何だか気さくな人だな、とナルミは思った。
ムツキもすっかり心を許しているようだ。勘の鋭い妹が懐く人間は、大抵悪い人間ではない。ミリアムの方もムツキが気に入ったようだ。
しばらくミリアムの髪の毛を揉んだりしていたムツキだが、ふとミリアムを見上げて口を開いた。
「ミリィちゃん」
「なあに、むっちゃん?」
「アンジェに、手加減するように頼んで欲しい……」
「んー? 手加減はしてるよ、すっごく。アンジェが本気だったらとっくに試合終わっちゃってるんじゃないかにゃー?」
「そうじゃないの。負けられないの。おねぇが負けちゃったら、負けなの」
「アサクラ家が、って事?」
「うん」
「おいムツキ。失礼な事頼むなよ。向こうも仕事で雇われてるんだぞ、わざと負けるなんてできる筈ないだろ」
ナルミがはらはらした様子で言った。ミリアムも苦笑いを浮かべている。
「そうだねぇー……そうしてあげたいのはやまやまだけど、冒険者って信用も大事なんだよね。腕一つで生きてるから、雇い主の期待に応えられないと仕事にならないし、次の仕事も来ないんだ。手を抜く奴、って思われちゃうと信用にかかわるんだよねぇー……」
「……そっか」
ムツキは残念そうに俯いた。ミリアムはバツが悪そうに頬を掻いた。
カヤがぐっと拳を握ってぷるぷる震えている。
「でも……だからって……よりにもよってオオツキ家に雇われる事ないじゃない……」
「んー? いやいや、アンジェは元々剣術大会の為に雇われたんじゃないよ。ほら、最近トゲツ周辺で魔獣が活発になってるらしいじゃない? その対策の仕事が回って来たの。オオツキ家って魔獣対策を専門にしてる家なんでしょ? Sランク冒険者のパーティって事で、ギルドからオオツキ家に斡旋されたわけ」
「じゃあなんで大会に?」
とナルミが首を傾げた。
「今ねー、わたしたちのパーティの仲間が二人、山の奥まで魔獣の調査に出かけてるんだ。わたしとアンジェは留守番で、時間があったんだよね。それで契約にはなかったけど、時間はあるから、大会にも出るかーってなって」
「タイミング悪すぎよ!」
とカヤが言った。ミリアムは苦笑して頭を掻く。
「うーん、こればっかりはどうしようもないからにゃあ……というか、さっきから二人とも全然動かないね。何してるんだろ?」
○
アンジェリンは何となく目をきらきらさせながら言った。
「生きてる剣だよね?」
「は、はい。そうですが……」
「いい子だね。持ち主をとっても気遣ってる」
「わ、わかるんですか?」
「うん。どこで手に入れたの?」
「じ……自分で打ちました」
「へえ……」
アンジェリンは面白そうな顔をしてアリスと剣とをじろじろ見た。
「アリスは鍛冶師なの?」
「は、はい」
アンジェリンはにんまりと笑った。
「やっと見つけた……」
「え?」
「ねえ、頼んだらわたしにも鋼の実の剣を打ってくれる?」
「はえ!? そ、それは……ええ、あの、あなたと相性のいい実があれば、ですが……」
「そう……トゲツで?」
「いえ、打つなら……イスルギで」
「イスルギって所に鋼の木があるんだ」
「はい」
「そう……うむ。次の目的地が決まった」
アンジェリンは満足そうにうむうむと頷いている。
何だか妙に緩やかな雰囲気になってしまった。アリスは空気に呑まれて脱力しそうなのを必死にこらえる。
アンジェリンは何だか楽しそうに剣を構え直した。
「そうと決まれば試合を終わらしちゃおう。いい?」
「うっ……」
アリスは剣を握る手に力を込めた。
その時、誰かが人混みを縫うように駆けて来て舞台に飛び乗った。観客席が驚きにざわめく。
エルフの女が銀髪を揺らしてそこに立っていた。
審判が慌てたように叫ぶ。
「ちょっと困るよ! 上がって来られちゃ!」
「あー、悪い悪い。ちょっと緊急事態なんでな」
アンジェリンがそちらを見て顔をしかめる。
「マリー、どうしたの。調査は?」
「もうそんな段階じゃなかったぜ。魔獣が溢れてこっちに向かってらぁ、討伐戦だ」
「二人じゃどうにもならなかったの?」
「強さは大した事ねぇけど、数が多過ぎだ」
「そう」
「魔獣が? 一体何が……エルフ? どうして……」
困惑するアリスを見て、エルフは首を傾げた。
「誰だこいつは。お前何してたんだ、アンジェ?」
「剣術大会。この子はアリス。鍛冶師。アリス、こっちはマルグリット。わたしのパーティメンバー」
「え、あ、アリスです……初めまして」
アリスが頭を下げるとエルフの女――マルグリットはニカッと笑った。
「おう初めまして、マルグリットだ。……剣術大会に鍛冶師? なんだそりゃ? てか何だよ剣術大会って、おれも出たかったぞそんなの!」
アンジェリンはふうと息をついて剣を鞘に収める。
「それももう中止。サキトさん」
アンジェリンが振り返ってサキトに声をかける。
「な、なんだ? どうして彼女が戻っている?」
「もう魔獣が溢れてるって。想定より全然早いよ」
「なんだと! それでどうなっている!? 原因は特定できたのか!?」
「原因に着く前に魔獣と出くわして戦ってたら、そのまま溢れてこっちに進行中ってとこだな」
とマルグリットが肩をすくめた。サキトは慌てたように着物の裾をひるがえした。
「場所は!」
「川の上流だぜ。衛士隊がもう集まってる」
サキトは傍にいた部下に怒鳴った。
「冒険者ギルドに通達! 動ける冒険者を総動員するように! 本家にも使いを出せ! 人員を、特に魔法使いを集めて結界の強化に回す! 市場町、鍛冶場町にも数パーティ回して警戒させろ! 何匹かは確実に結界を抜けて来るぞ!」
そう言いながら走って行ってしまった。
アンジェリンはマルグリットを見た。
「アーネは?」
「衛士隊と合流して待ってるぜ。ミリィは?」
「そこ」
指さした先で、ミリアムが手を振っていた。
「おー、マリー。どういう状況?」
「魔獣狩り大会の開催ってとこだな!」
「あちゃー、そういう事……」
「わたしらも行こ。被害が出る前に何とかしないと」
そう言ってからアンジェリンはアリスを見た。
「後でゆっくりお話しようね、アリス」
それでアンジェリンたちも舞台を降りて行ってしまった。
他に出る予定だったらしい冒険者たちもサキトと一緒に姿を消しており、オオツキ側に誰もいない。
審判が困ったようにあちらを見、こちらを見、そうして旗を振り上げた。
「えー……オオツキ家棄権により、アサクラ家の勝ち!」
歓声を上げていいのか何なのか、よくわからないようで観客の声もイマイチ元気がない。むしろ不満げな声ばかりがそこここから上がっている。
舞台から降りて天幕に引っ込んだアリスは、大きく息をついて腰を降ろした。
シンラが興奮した様子で口を開いた。
「アリスさん、ありがとう! 凄い試合だったよ、近くで応援できなくてごめん!」
「いえ、気にしないでください」
ヒイラギが片付かない顔をしながら持っていたタオルを首にかけてやった。
「大丈夫か。どうして向こうはいなくなった?」
「なんか、魔獣が来てるらしくてその対策に……大会もどうなるんですかね?」
とアリスはちらと大会の運営たちの方を見た。集まって何か協議している。どうする、とか、中止、とか聞こえて来るから、流石に魔獣が大挙して押し寄せている状況で呑気に剣術大会なぞやっている場合ではないという事だろうか。
「魔獣……あ! 僕も行かないとまずいかも!」
とシンラがうろたえている。
そこにナルミたちが駆け込んで来た。
「姉さん、大丈夫?」
「あはは……いやー、くたびれたよ……」
ムツキがアリスに抱き着いた。
「おねぇ、ありがとう。大変だったよね」
「ああ、むっちゃん……へへ、あのままやってもアンジェリンさんにはとても勝てなかっただろうけど……ジャグマはやっつけたぞ。ひゃー!」
アリスは笑いながらムツキの髪の毛をわしゃわしゃと撫でた。
「兄さま、やったやった! これでオオツキとの賭けに勝ったわよ! うひひひ、何要求してやろうかしら!」
とカヤがその場で足を踏み踏み言った。シンラが困ったように笑った。
「いや、向こうは公務で引っ込んだのに、こっちの勝ちを要求するのは流石に大人げないって……これで賭け自体をなかった事にしてもらえればそれでいいんだよ」
「えー! そんなだからうちはずっと貧乏なのよ、兄さまの馬鹿!」
「いや、ははは……」
とシンラは困ったように頭を掻く。アリスはくすくす笑った。
ともかく、これで自分たちの目的もアサクラ家の目的も達する事ができただろう。ジャグマが大将格だと思っていたのが、さらに格上が出て来たのは完全に予想外であったが、またしても予想外の出来事に助けられた。
「……あのサキトって人、仕事はちゃんとできるんだね」
とナルミが言った。シンラが苦笑して頷く。
「素行は悪いけど、仕事に関しては優秀なんだよ。そうでなきゃ防衛の一角の責任者になんかなれないさ」
外が騒がしくなり出した。流石に運営側が中止を判断したらしく、魔獣の襲来を知らされて会場が混乱状態になりつつあるらしい。
役人らしいのが入って来て、シンラに何か言ってまた出て行った。シンラはアリスたちの方を見た。
「……僕は避難の誘導をしなくちゃいけないから、失礼するよ! アリスさん、お礼は改めて伺うからね!」
そう言うとシンラは天幕を出、「走らないで! 落ち着いて!」と喚きながら人混みの中に消えた。
「……俺らも戻るか。魔獣が来てるんじゃ、工房が心配だ」
とヒイラギが言った。アリスは頷く。町の周囲は結界が張られているとはいえ、先日のクロマシラ侵入の一件もあるように万能ではない。
おそらく川の上流部分の結界を意図的に薄くして、そこに魔獣を集めて一網打尽にする計画なのだろう。冒険者も衛士隊も、多くはそちらに向かうに違いない。サキトが町の巡察を指示してはいたが人手は足りないだろう。自分たちの家は自分たちで守らねば。
アリスはぐんと立ち上がった。
「帰りましょう。なるべく急いで」
一同は頷いた。
会場の混乱が町中に広がっているらしく、そこいらが大騒ぎだ。こうなって来ると別の非日常の感が出て、妙に不安になり、気持ちがそわそわして来る。勝利の余韻なぞもうない。次に来た問題に対処しなければなるまい。
一難去ってまた一難。
アリスは大きく息を吸って、人混みの間を縫うように走り出した。