十九.さて、どうしようかと思う。
さて、どうしようかと思う。
ユウザとの話を終え、何処となくふわふわした気分でその日の仕事を終えたアリスは、港に寄って船の値段を見て帰って来た。ブリョウ本島までの船賃はそれなりに高く、きょうだいで行けるかもと思っていたアリスもやや鼻白んだ。
夕飯の時間になって、膳を前にしながらもどことなくそわそわしている姉を見て、干し鰯を咥えたムツキが眉をひそめた。
「おねぇ、どしたの。なんか落ち着きないよ」
「えっと……」
アリスは口をもごもごさせたが、やがて決心したように口を開いた。
「その……今日ヒイラギさんから手紙が来ててね」
仕事を手伝ってほしいとトゲツに招かれている事や、それに伴ってナルミとムツキを連れて行くのも構わないと叔父が言っていた事など、話すにつれてムツキの目が輝いた。それが却ってアリスには心苦しかった。
「行けるの? 本島に」
「いや……行ってもいいとは言われたけど、その……」
「船賃が高いんじゃないの」
とさして興味もなさそうに聞いていたナルミが言った。アリスは頭を掻いた。
「……出せないわけじゃないけど、結構な出費になっちゃいそうで……」
「じゃあやめるの?」
「いや、わたしの分は、その、仕事だから経費として出してもらえそうだけど」
「俺たちの分は無理って事ね。まあ、そりゃそうでしょ」
ナルミはあっけらかんとしている。汁を飲み干し、「ごちそうさま」と手を合わせて、膳を持って行ってしまった。
アリスは嘆息した。
「……やっぱり、断ろうかな」
「いいよ、おねぇ。お仕事だもん」
とムツキが言った。アリスは苦笑しながら首を振った。
「仕事はここでもできるよ。それに、一人で行ってもむっちゃんとナルミの事が気になって集中できないよ、きっと」
「でもトゲツに行ったら勉強になるよ。ミサねぇもそう言ってた」
それはそうなのだが、とアリスが煮え切らない気持ちでいると、茶の盆を持ったナルミが戻って来て、何やら巾着袋を畳の上に放り出した。がちゃがちゃと金属の触れ合う音がする。
アリスは驚いて顔を上げた。
「え、なに……?」
「旅費。姉さんの分は出るんでしょ? 俺とムツキの分くらいはあるよ」
ムツキが手を伸ばして巾着を拾い、中身を畳の上に空けた。じゃらじゃらと硬貨が零れ落ちる。銅貨ばかりで、時折銀貨が見える程度だが、それでも結構な額だ。
「おにぃ、お金持ち」
「ちょ、ナルミ、これどうしたの?」
「前に言っただろ。符を作って冒険者ギルドとかで売ろうかなって」
ナルミはそう言いながら、火鉢にかかった薬缶から急須に湯を注いでいる。
「そ、それで稼いだの?」
「そうだよ。後は読まなくなった本を売ったりして……まあ、こつこつ貯めてたって感じ」
どんどん売れるもんでもないからこんなもんだけど、とナルミは茶を淹れている。
最近は冒険者としての仕事はほとんどしていなかったから、弟がギルドでそんな事をしていたとは、アリスは露ほども知らなかった。
硬貨を綺麗に並べながら、ムツキが嬉しそうに言った。
「これならみんなで行ける?」
「行ける、けど……でもいいのナルミ? 大事な貯金なんでしょ?」
「また稼げばいいだけだよ。それに、折角トゲツに行くチャンスなんだし、こんな時に使わなきゃ意味ないだろ」
アリスは首を傾げる。
「でも、あんた鍛冶には興味ないんでしょう? どうしてトゲツに行きたいの?」
ナルミは呆れたようにアリスを見た。
「あのさ、トゲツは鍛冶の町として有名だけど、同時に金属細工とか魔道具の加工も盛んな町なんだぜ? エンチャントの需要があるから魔法使いも結構いるらしいし、海外とも貿易してるから外国の珍しい魔導書とかも来るだろうし、魔法に関してもイスルギより知見を得られる可能性があるじゃんか」
「え……そ、そうなの?」
「……姉さんって、ホントに脳筋だよね」
とナルミは小馬鹿にしたように呟いて、茶をすすった。ムツキがその頭をよしよしと撫でた。
「おにぃ、偉い」
「なんだよ、やめろ」
とナルミはムツキの手を払ったが、ムツキはそのままナルミの肩に手を置いて揉むようにぐいぐいと動かした。ナルミはうめいた。
一度はあきらめかけていた事が、急に現実味を帯びて来た。
頭が追いついていなかったアリスだが、実感が湧いて来るとどんどん嬉しくなった。喜びのままに弟と妹をまとめて抱きしめる。
「ナルミありがとう!」
「うわっ」
「うぎゅ」
弟と妹はアリスの腕の中で身をよじった。
○
島と島とを結ぶ大型船は、その島で最も大きな港を出入りする。大きな島は島内にいくつも集落が点在している場合があるが、イスルギの集落は港周辺に固まっており、島民たちはほとんどそこで暮らしている。
だから大型船を見る事は珍しくないのだが、乗るとなると珍しい。
島民たちはハブカやアカバネといった近隣の島には小舟で行き来する事はあるものの、大型客船や貨物船が行くような遠方の島に出向く事はほとんどないからだ。
勿論、アリス達きょうだいも初めてである。
順風で帆をいっぱいに膨らました船は、ぐんぐんと海原を進んで行く。
まだまだ海風は冷たく、吐く息も白くなるが、日差しが暖かいから凍えるような感じではない。
甲板の手すりに乗り出すような格好で、ムツキが目をきらめかしている。アリスははらはらした心持でそのすぐ後ろに立ち、よしんばムツキが前にのめるような事があれば、すぐに抱き上げようと構えていた。
「おねぇ、船でっかいね。速いね」
「そうだね……あ、あんまり乗り出さないで、むっちゃん……」
無鉄砲な妹にはらはらしながらも、アリスはどこかウキウキとした気分でいた。近場の島より遠くに出かけるのが初めての経験であったし、何よりも家族が一緒なのが嬉しい。
「おねぇ、魚が空飛んでる」
「飛び魚だね。わ、この船より速いや。凄いね」
「あの島、アカバネ?」
「ううん、アカバネはさっき通り過ぎたから……クナギかな?」
ムツキを気にかけながら、ちらりとナルミの方を見た。ナルミは手すりに寄りかかるようにしながら、帆げたの辺りを熱心に眺めていた。メインマストの辺りに長髪をなびかせた魔法使いらしいのが立っていて、まるで楽隊でも指揮するかのように両腕を上げたり振ったりしている。風の司らしい。
前に衛士隊の船に乗ってキオウに行った時、風の司のような事をしていたナルミは、自分がやった事もあって気になっているらしかった。
弟が貯金を出してくれたからこそ成り立った今回の旅行は、何だか特別なものになりそうだった。
それがどう特別なのか、そもそも遠出の旅自体が特別なのだが、それとは別の、自分の、あるいはきょうだい三人の人生そのものに関わって来そうな気がした。
大げさかもしれないが、アリスには確かにそんな気がしたのである。
イスルギという小さな島と、その周辺だけで完結していた生活から飛び出すのだ。アリスの鍛冶にしても、ナルミの魔法にしても、得るものがあるに違いない。その結果、価値観や未来の展望にいくらかの変化があってもおかしくはあるまい。
だから嬉しさと一緒に不思議な寂しさと不安とが入り混じっているのだが、目の前ではしゃぐ妹なんかを見ると、楽しみの方が遥かに大きくなる。仕事をしに行くのだとはいえ、非日常に飛び込むのだ。心が沸き立つのも当然だろう。
何だかウキウキして来て、アリスは手すりに乗り上げるようにして足をばたつかしているムツキを、後ろから抱きかかえるようにして捕まえた。
さらさらした黒髪に口元をうずめるようにして頬ずりする。
ムツキはくすぐったそうに体をよじらした。
「はなして、おねぇ」
「だめー。姉さん、今むっちゃんを抱きしめたい発作が起きましたー」
アリスはじたばたするムツキを意に介さず、抱き上げたままくるくる回った。首から下げたペンダントがきらりと光った。観念して脱力したらしいムツキは遠心力のまま手足をぶらぶらさせた。
「うぎゅぎゅ、目ぇ回る」
「あー、楽しいなあ。あははは」
人目憚らずはしゃぎ回る姉と妹を、ナルミが呆れた目で見ていた。
アリスは嬉しさが極まると他人に抱き着きたがる癖がある。なまじ力がある分、思い切り抱きしめられると結構苦しい。
外面は品行方正で通っているから誰でも彼でもというわけではないが、きょうだいや親しい友人など、気の置けない相手はまず確実にアリスの膂力に締め付けられた経験を持っていた。
イスルギからブリョウ本島までは、距離的にはまっすぐに向かえば四日ばかりで着く。といってもそんな船は稀で、多くの船は中途で様々な島に立ち寄り、客や荷物を載せたり降ろしたりするから、実際はもっと時間がかかる。
加えて今回は船賃を安く上げようと、客船というよりも貨物船のような船を選んだ。
まっすぐに本島を目指すのではなく、各地で荷の積み降ろしを行いながらぐねぐねとした航路を辿って行くから、本島に着くのは十日ばかり先だろうと思われた。
船は順調に波をかき分けて進み、いくつかの島に寄りながら次第にイスルギの近海から離れて、夕方になる頃にはアキツノという知らぬ島まで来た。切り立った崖が港にかぶさるように突っ立っていて、その壁面に張り付くように家々の明かりが揺れていた。それらの家々も民家というよりはどれも宿屋とか飲み屋らしい。
甲板に立って、近づくそれらの明かりを眺めていたムツキが目を輝かした。
「すごい。イスルギと全然違う」
「ね。キラキラしてるなあ」
イスルギも港周辺は賑やかだが、ここまでけばけばしい雰囲気はない。
時間も時間だから、風に乗って食べ物のにおいが漂って来る。腹の底が蛙のような音を立てたので、アリスは思わず腹に手をやった。
ムツキがけらけら笑う。
「おねぇ、お腹ぺこぺこ」
「う……だって船のご飯少ないから……」
船には軽食こそ売っていたが、飯屋はない。健啖家であるアリスには当然物足りぬ。そこにナルミがやって来た。
「今夜はここに停泊だってさ。寝るのは船でいいけど、晩飯食べに行こうよ」
「降りれるの?」
とムツキが期待に満ちた目でアリスを見た。アリスは頷いた。
「うん、行ってみよっか。知らない町だし、はぐれないようにしてね」
船は海賊や魔獣を警戒して夜間航行はしないようだ。
アリス達は分厚い板を踏んで港に下りた。
貨物口からは大小の荷物が降ろされて、商人らしいのが集まって帳簿と荷物を交互に見て何やらがやがやと騒がしい。
アリスはムツキの手をしっかと握り、手を握られるのを拒否したナルミはすぐ後ろにぴったりついて来る。
遠目で見るのと、自分たちがその風景の中に入るのとは随分違う。
アキツノは歓楽島のようで、そこいらじゅうに大小、色とりどりの提灯がぶら下がり、色水に輝石のランプを仕込んだネオン看板などが並んでいる。
島の奥にはダンジョンもあるらしく、冒険者のような装いの酔漢が幾人も歩いていた。
店もあるし屋台も並んでいる。
空きっ腹にはどれもうまそうに見え、アリスは目移りしながら歩いた。串焼きもあるし揚げ物もある。どれも焼きたて揚げたてでうまそうである。しかし財布に余裕があるわけではないから、味がよくても量の少ないものは買えない。何より米が欲しい。できれば安く、それでいて量もあれば十分だ。
店先の品書きを見ながら歩き回り、良さそうな所に入り込んだ。
「らっしゃあせぇ!」
威勢のいい声に出迎えられた。賑わっていた。
入ってすぐは土間で、上がり座敷に客が腰を降ろして膳に向っている。
アリス達も上がって、空いたスペースに座り込んだ。人が多いせいか、火鉢にかんかんと炭火が立っているせいか、随分温かい。
座って、もじもじする。
テーブルはない。畳敷きの座敷が広がっているだけで、注文すると一人一つ膳が運ばれて来るようだ。一膳飯屋である。
ナルミとムツキは勿論、アリスもこういう店は初めてである。イスルギでは外食は屋台ばかりだったし、そもそも店売りを買って道端や家で食べる事ばかりだったし、茶屋などは椅子とテーブルのある店ばかりだった。
人の出入りが激しいから注文を取りに来ない。
膳を下げに店員が傍に来たのに慌ててアリスが声をかけた。
「あの、煮込みの定食を三つ! 大盛で!」
「あいよう!」
店員はアリスの方を見もせずに威勢よく返事をし、器用に膳を重ねて行ってしまった。
アリスはどきどきしながらナルミを見た。
「と、通ったかな?」
「大丈夫じゃない? 返事してたし……てか俺大盛嫌だったんだけど……」
「余ったら姉さん食べるから」
はたして膳はすぐに来た。飯はどんぶりに山のように盛られて、それに煮込みの鉢と漬物の小皿が添えられていた。汁は煮込みとの兼用らしい。
一番安い定食の筈が予想外の盛りで、ナルミは目を白黒させていたが、アリスは満面の笑みである。ムツキも張り切っている。
「はー、嬉しい。いただきまぁす!」
煮込みは魚のアラとモツに、大根とネギのぶつ切りを煮込んだものらしく、生姜と醤油を利かした濃い目の味付けである。繊細さは皆無だが、飯が進むので、アリスは夢中になって箸を動かした。どんぶり飯の山が崩れた後には、煮込みを汁ごとかけてすすり込む。があがあと鳴いていた腹の底の蛙もすっかり静かになった。
ナルミはどんぶり飯半分ばかりをやっつけたところで膳をアリスの方に押して寄越し、ムツキも同じくらいのところで諦めた。残った分は勿論アリスが腹に収める。
見計らったかのように運ばれて来た白湯をすすりながら、ナルミが呆れたように言った。
「食いすぎじゃない?」
「何言ってんの。あんただって本当はこれくらい食べた方がいいんだよ?」
「いやいや、あり得ないって……」
「今度は頑張る」
とムツキはふんすと拳を握った。リスのように口いっぱいに飯を頬張って奮闘した妹だったが、流石に相手が悪かったらしい。
腹もくちくなり、満足げな気持ちで港への道を辿る。もう日はすっかり落ちて、そこいらは薄暗いが、往来は街灯や提灯、ネオン看板で彩られて、夜だというのに変に明るい。
イスルギの盛り場も提灯で明るいけれど、ここはそれよりも派手だ。色とりどりの光は宝石がきらめくようにも見える。
知らない国にでも迷い込んだかのように思われ、アリスは少しばかり夢見心地で通りを行く。ここでこれなら、本島のトゲツはもっと絢爛なのだろうか。
「おねぇ、早い」
手をつないでいたムツキが言った。気もそぞろで早足になっていたらしい。
「ごめんごめん」
「姉さん、ただでさえ足長いんだから、こっちに合わせてよ」
後ろからナルミも言う。アリスは頭を掻いた。
船の雑魚寝部屋はお世辞にも綺麗とは言い難かったが、寝るのには支障がない。備え付けの毛布にくるまって、きょうだい三人寄り添った。ムツキを真ん中にアリスとナルミが左右に並ぶ。
ムツキがもそもそと身じろぎしてアリスに体を寄せた。
「お泊り、どきどきする」
と言った。アリスは微笑んでムツキを抱き寄せた。
「おねぇは、お泊りした事あるよね?」
「うん、あるよ」
アリスは冒険者としてハブカあたりのダンジョンに探索に出た際、夜になって船が出なかった時などは冒険者御用達の安宿に寝た事は何度かある。しかしナルミもムツキも外で夜を超すのは、キオウの騒動でカンナを匿い、衛士隊の詰め所に行った時以来だろう。
あの時だって緊急事態で、外泊のわくわくした感じよりも緊張感の方が大きかっただろうから、外泊の楽しみを感じるのは今回が初めてと言ってもいいかも知れない。
そういう気持ちもあってか、何となく寝付けない。
「明日はどこまで行く?」
「そうだねぇ……姉さんもこの辺は全然知らない所だから」
「……たぶん、明日は進路を東の方にずらして、トウレンまで行くと思うよ」
と目を閉じたままナルミが言った。ムツキがごそごそと寝返ってナルミの方を見た。
「おにぃ、物知り」
「どうしてわかるの?」
とアリスが言うと、ナルミは目を開けてアリスの方を見た。
「航海予定が船室に貼ってあったんだよ。まあ、潮の具合とか諸々で多少予定に変更はあるって書いてあったけど……今のところ順調そうだし」
抜け目のない弟に、アリスは肩をすくめるようにしてごそごそと寝相を整えた。
「トウレンってどんな島?」
「さあ? 俺も詳しくないけど……明日の目的地になるくらいだから、貿易拠点みたいな島じゃないかな……ふあ……俺、もう寝るから」
とナルミはアリス達に背を向けるようして、もそもそと丸まった。
大型船が行くような島は、島自体の規模が大きいか、小さくても貿易に有用な特産品があるかだ。
アリスは仰向けになって目を閉じた。瞼の裏でアキツノのネオン看板の光がまだちらついているような気がする。
トウレンの町も同じような絢爛さがあるのか、それともまた別の雰囲気があるのか、想像するだけで面白い。
船だからゆらゆらと揺れている。
波に漂うような心持でいるうちに、三人ともそれぞれに寝息を立てていた。