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蒼き剣のアリス  作者: 門司柿家
1章
2/30

一.夢はいつも温かく始まる


 夢はいつも温かく始まる。

 厳しくも尊敬できる父と、いつも優しい母がいる。

 薄暗い鍛冶場と赤く燃えた松炭。台所に立つ母の後姿。庭に干されてひらひらする手ぬぐいと、水場に並んだ大小の砥石。

 そんなものが断片的に見えているうちに、次第に色彩が褪せて来る。


 暗い海岸に、かがり火を持った人々が集まってざわざわしている。

 むしろをかぶせられた死体らしいのが、いくつも並べられていた。船の残骸が波打ち際に散らばっている。怒号にも似た声がそこいらで上がり、泣き叫ぶ声や不安げにささやく声がひっきりなしに聞こえて来る。強い風が断続的に吹いて来て、髪の毛や着物の裾を暴れさせた。

 遠く、沖の方から、背筋の凍る不気味な雄叫びが聞こえて来た。

 すがるように寄り添う弟と妹を強く抱きしめる。


 あの日、あの船。


 それで目が覚める。夢の事はすっかり忘れていた。しかし夢を見たという事だけが残って、それが何とも片付かない気分になった。

 夜明け前だ。障子越しにうっすらと明るくなっているのがわかるが、まだ日は昇っていないだろう。

 天井を見上げながら妙に腹が重いと思っていたら、妹のムツキの顔がにゅっと出て来た。寝ているアリスにまたがって、起きるのを待っていたらしい。


「おはよ、おねぇ」

「……んー、おはよ!」


 とアリスは両腕を出し、ムツキを抱き寄せ、ぐりぐりと頬ずりした。ムツキはむきゅむきゅ言いながらもされるがままになっている。むしろ嬉しそうだ。

 ひとしきり妹を愛でてから体を起こした。ムツキはもう自分の布団を畳み、寝間着から着替えている。

 アリスは寝間着から着替え、布団を畳んだ。


「早起きだね、むっちゃん」


 と言うと、ムツキは頷いた。


「畑に水まいた。卵も採って来た」

「ありがとね。今日はちょっと寝坊気味だな……」


 アリスは肩を回して、愛用の剣を手に取って庭に出た。

 ムツキは縁側に腰かけてアリスを見ている。それを横目にアリスは腰の剣を抜き放つ。庭の隅の鶏小屋で、鶏たちがくっくっと鳴いている。

 薄暗い中で青い刀身がきらめいた。それが幾度も空気を切り裂くように振り抜かれた。漫然と振るのではない。一回一回、体幹と重心を意識する。腕だけで振らず、体全身を使うようにし、しかしのろのろとではなく、速く。


「ふう……あつ」


 まだ早朝だけれども、素振りをすると汗がにじむ。アリスは納刀して深呼吸した。

 夜明け前の素振りは彼女の日課だった。こうしていると、もう夢の事なぞすっかり忘れていた。


 十八になった。

 もう体もすっかりできて、剣の稽古を続けたゆえの力強さと、持って産まれたしなやかで柔らかな女の体躯は、凛として美しかった。


 屋敷は町から少し離れた高台にある。

 木々に囲われていて、海から上がって来る風が直接屋敷に当たらないようになっているが、その防風林も静かだ。今日は凪だな、とアリスは思った。過ごしやすい一日になりそうだ。


「おねぇ、今日は百三十二回」


 とムツキが言った。


「昨日は、どうだったっけ?」

「百四十八回。昨日の方が多い」

「そっか」


 アリスは微笑んでムツキの頭を撫でた。十一になる妹は、父のゲンザに似て寡黙で表情の変化に乏しいが、好奇心旺盛ですばしっこく、アリスによく懐いていた。


「ナルミはまだ寝てるね」

「おにぃ、いつも遅い」

「夜更かしばっかりしてるからなあ……じゃあ、市場に行こっか」

「ん」


 手をつないで庭を出、段々畑を横に見ながらだらだらの坂を下って行く。

 町に入ると急に辺りが陽気になった。

 道の両側に商店や屋台が建ち並び、既に開店している店もある。漁から戻って来た漁師が一膳飯の屋台で肩を寄せるように並んでいるのが見えた。


 船着き場まで降りて行くと、潮風が緩く頬を撫でた。汗ばんだ顔に心地よい。

 雲一つなかった。日が昇る前にはうっすらとかかっていた雲も、いつの間にか溶けるように消えて見えなくなっている。抜けるような夏空だ。


 もう市が立っていて、水揚げされたばかりの魚介が売られている。夜のうちに漁火を焚いて沖に出ていた漁船が、夜明け前にはもう帰って来るのである。朝日に照らされた朝市は、いつ見ても何だか荘厳な気がする。

 鱗のぴかぴかした新鮮な魚や、朝とれたばかりの野菜が惜しげもなく並べられている中をアリスは歩いた。

 濃淡こそあれ黒髪ばかりの中で、アリスの艶やかな金髪は目を引く。

 ムツキは無表情ながら目を輝かして、魚や野菜にあれこれと目移りしていた。


「よう、アリス! むっちゃんもおはよう!」


 鉢巻をした漁師のおじさんが言った。


「おはようございます。ええと、この鰯ください」

「あいよ! 調子はどうだね」

「相変わらずですよ。あとこっちのメバルの小さいのも」


 話をしながら適当に魚を何匹か見繕い、購入する。


「しっかし、すっかり美人になったなあ、アリスは。どうだい、うちのせがれは。あいつ、お前に惚れてるみたいだしよ」


 とおじさんが言った。アリスはニッと笑った。


「レンヤに言っといてください。わたしに一太刀当てられるようになってから出直して来いって」

「レンヤじゃ一生無理」


 とムツキが言った。


「わははは、こりゃ手厳しいや! ほい、これはおまけしとくよ!」


 と無造作に籠の中に鯵が何匹も放り込まれ、アリスは慌てた。


「え、こんなに」

「いいからいいから。ゲンザ親方にもシヅさんにも世話になってたし、三人だけで頑張ってるんだしよ……もう五年ばかりになるかい?」

「そう、ですね」

「困った事があれば遠慮なく言うんだぜ」

「ありがとう、おじさん」


 アリスが工房に帰る頃には、柔らかな潮風が吹き始めていた。青々とした海原が陽光を照り返してきらきらした。


「ただいま」


 返事はない。

 門をくぐって裏手に回り、勝手口から入るとすぐ台所だ。手早くかまどに火を入れ、鍋をかける。ムツキは慣れた手つきで魚の鱗を取り、腹を割いて内臓を出した。

 芋と根菜を鍋で炊いたところに、買って来た魚の鱗と内臓を取ったのをぶつ切りにして入れ、そこに味噌を溶き入れる。豆を発酵させた調味料である味噌は、ブリョウやキータイなどの東方の国ではポピュラーなものだ。一晩塩漬けにした根菜を水洗いして薄切りにし、菜っ葉は塩茹でにする。朝採って来た卵は割りほぐして出汁を混ぜて焼いた。


「よし、と」


 調理を済ましたアリスは手を拭った。ムツキが大根の切れ端をもてあそんでいる。


「おにぃ、まだ起きて来ない」

「まったく、毎朝毎朝。起こして来なきゃね」


 それで二人は弟の部屋の戸を叩いた。


「ナルミ、ご飯だよ」


 返事がない。

 アリスはふうと息をついて戸を開けた。部屋中に本が積まれていて、その奥でナルミが文机に突っ伏していた。黄輝石のランプがつけっぱなしになっていて、書きかけの符が散らばっている。


「もう、また夜更かししたんでしょう。こら、起きろ」


 と言って背中を小突く。


「うぐ……」


 ナルミは身じろぎしながら体を起こした。かけたままの眼鏡がずり落ちかけている。読みかけの本が開いたままになっていた。

 アリスはナルミの後ろからのしかかると、頭を掴んで髪の毛をわしゃわしゃと揉んだ。


「この眼鏡っ子! 暗い中で本ばっかり読むから!」

「やめろよ、姉さん……」


 ナルミは嫌そうにアリスを押しのけて、大きくあくびをした。


「はあ……朝飯、食いたくねえなぁ……」

「駄目。ちゃんと食べないと体壊すよ」

「はいはい……うるさいなあ、もう」


 ナルミは面倒くさそうに言って、眼鏡を掛け直した。

 アリスはいたずら気に笑いながら、またナルミの後ろから覆いかぶさって、羽交い絞めにするような格好でほっぺたを両手でぎゅうと押した。


「姉さんに対してなんだ、その態度はー。うりうり」

「だっ、から、やめろってば!」


 ナルミは真っ赤になってじたばたした。しかしアリスの方が力が強いから抵抗になっていない。外では品行方正な優等生で通っているアリスは、弟に対してだけは暴君である。


 十三になったナルミは鍛冶師にはならないと言い張り、確実な収入源になる魔法職に就くのだと朝から晩まで本ばかり読み、毎日魔法の習得に精を出している。その甲斐もあって年の割に高度な魔法も扱えるらしいが、しかし体はやや細っこい。

 ひとしきりいじめられてからようやく解放されたナルミは、ずれた眼鏡を直しながら部屋から逃げ出した。息を整えながら恨めし気に呟く。


「くそ、姉さんめ……いつも馬鹿力で抱きつくんだから……こっちの身にもなって欲しいよ、まったく……」


 後ろをぽてぽてついて来るムツキが、ぽそりと呟いた。


「おにぃ、スケベ」

「な!」


 一人残されたアリスは部屋の中を見回した。魔法書や学術書が沢山ある。


「……頑張り過ぎだよ、ナルミ」


 そう呟いて部屋を出た。


 ムツキは既に座敷に配膳を済ましていた。

 魚と野菜の味噌汁に青菜のおひたし、昨夜の余りのツナシの酢締め、出汁巻き卵に漬物である。飯はおひつに入っていて、まだよそわれていない。ムツキは湯気立つ味噌汁のにおいに鼻をひくつかし、ナルミは相変わらず眠そうにしている。

 ムツキがしゃもじを振り振り言った。


「おねぇ、ご飯どれだけ食べる?」

「大盛でお願い」

「相変わらずよく食うなあ、姉さんは」


 とナルミが呆れ気味に言った。アリスはすまして膳の前に座る。


「しっかり食べないと体ができません」

「ムツキ、俺は少な目で」

「ダメ。むっちゃん、ナルミのも大盛りで」

「ちょ、姉さん!」

「残したらひどいよ?」

「くっ……」


 それできょうだいは膳の前に座って手を合わせた。


「いただきます」


 新鮮な魚の身がはじけた汁はじつにうまい。ムツキが漬物をかじりながら言った。


「おねぇ、今日は?」

「鍬と鎌の砥ぎ直し。あと銛の修理、かな」

「手伝う?」

「今日はいいよ。打ち出しもないし、大した手間じゃないから」


 ナルミがうんざりした顔でアリスを見た。


「……なあ、やっぱり飯多過ぎ」

「頑張って」

「ぐぅ……」


 ナルミは諦めたように茶碗に向き直った。ムツキは面白そうな顔で汁を吸うている。

 朝食を終えて片づけをしながら、アリスは言った。


「むっちゃん、これ鶏に」

「ん」


 とムツキは頷きながら魚の頭や骨、野菜くずなどを桶に入れて、庭に駆け出して行った。鶏小屋に放り込んでおけばみんな綺麗に食べてくれるのである。

 洗った皿を拭いて、棚にしまう。そこにようやく山盛りの飯をやっつけたナルミが、恨めしそうな顔でお膳を運んで来た。


「うぷっ……ご馳走様」

「お、よーく頑張った。偉いぞう、よしよし」


 とアリスはにまにましながら、ナルミをよしよしと撫でた。


「……覚えてろよ、姉さん」

「んー? なんだってー? 声が小さいぞ」

 とアリスはナルミの後ろから抱きつくようにして顔を覗き込む。ナルミは身じろぎした。

「だ、か、ら! いちいち抱きつくのやめろっての!」

「なんだよー、昔ははしゃいで喜んでたくせに」

「何歳の時の話だよ! 放せ脳筋!」


 ナルミはアリスを振り払い、ぶつぶつ言いながら自分の部屋に戻って行った。勉強の続きをやるのだろう。アリスはふうと息をついた。


 昼食用に残り飯を握り、それからそれほど多くない洗濯物を手早く洗って庭に干し、それから工房に行った。

 工房の前は裏の山から引いた水が流れている水場がある。大小様々、目の粗さも様々の砥石が並んでいて、アリスは預かった鍬と鎌とを砥ぐ。慣れた仕事だ。ゲンザの手伝いで幾度もやった。爪を当てて、刃の立ちを確認する。鋭く砥げた。


 これはゲンザが打った鎌だ。手に取ると、流石の腕だと感心する。

 研ぎ終えた刃を拭っている時、不意に涙が出そうになり、慌てて頭を振って深呼吸した。努めて明るく振舞おうとしていても、ふとした時に悲しくなる。


「……わたしがしっかりしなくちゃ」


 ふと見ると、籠を持ったムツキが庭で猫と向かい合っていた。意思が通じ合っているような顔をして、互いになんだか頷き合っている。それが可笑しくてアリスはくすくす笑った。


「むっちゃん」


 ムツキがこちらを見た。


「何してるの」

「お話し」

「なんの」

「夕方から雨になるって。髭がぴりぴりするって」


 アリスは空を見上げた。相変わらず抜けるようないいお天気である。しかしムツキがこういう事を言う時は大抵当たる。夕方前に洗濯を取り込んでおかないとな、と思った。

 気を取り直して銛の修理をしようと思っていると、頼む頼むと誰かが門の所から呼ぶのが聞こえた。

 アリスが目を細めて出ると、見知った顔があった。


「トウガンさん?」

「おうアリス、こんにちは。妹さんも」


 トウガンは冒険者ギルドの職員である。


「どうかしましたか?」

「ああ、実は取って来て欲しい素材があってね。直々にアリス御指名でお願いしたいと」

「へえ……」


 アリスはトウガンから依頼書を受け取った。


「オオメガイの眼核……ハブカに行かなきゃ駄目そうかな」

「そうだね。イスルギのダンジョンは小さいからなあ……オオメガイもいるかわからないしね」


 アリスは逡巡した。鍛冶の仕事は急ぎではない。砥ぎは済んだし銛の修理も半日あれば終わる。期日までは余裕もある。アリスは依頼書を畳んで懐に仕舞った。


「お受けします」

「おお、よかった。それじゃあ書いてある納期までに頼んだよ。納品はハブカでしてもらって大丈夫だからね」


 そう言ってトウガンはまた道を下って行った。

 アリスはふうと息をついて汗をぬぐった。ムツキが期待に満ちた目でじっとアリスを見上げている。


「駄目だよ」


 ムツキは口を尖らして抗議の視線を送って来る。しかしアリスは一歩も引かない。


「駄目。ダンジョンは危なすぎる」

「むー」


 ムツキは怒ったように唸ってアリスの足にしがみついた。梃子でも動かぬという風にするが、アリスはその首根っこをつかんで無理やり引っぺがした。


「むっちゃん。これは遊びじゃないからね」


 少し厳しく言う。

 ムツキはこれ以上ねばっても無駄だと思ったらしく、不機嫌そうにぷいとそっぽを向くと、籠を振り振り、跳ねるように道を駆けて行った。桑の実でも採りに行くのだろう。

 それで部屋に戻った。服を着替え、手甲と脚絆をつけ、腰に剣を差す。冒険道具を入れた腰袋を下げた。


「……鍛冶仕事がもっとあればな」


 アリスは呟いて台所に入った。水筒に水を入れてから、握り飯を竹皮に包み、それをさらに手ぬぐいで包んで肩から斜に下げる。

 一息入れようと部屋から出て来たらしいナルミが、冒険者装束のアリスを見ておやという顔をする。


「仕事?」

「うん。ハブカに行くから多分夜遅くなる。洗濯物だけお願い」

「わかった、気をつけてね。ムツキは?」

「多分、スモモを採りに行った」


 好奇心旺盛な妹はアリスの冒険について来たくて仕方がないらしく、押しとどめるのに毎回苦労する。アリスはやれやれと頭を振って、玄関脇に掛けられた笠をかぶって出た。


 世界には各地に魔力溜まりがあり、魔力の影響によって環境がねじ曲がり、魔獣が発生するダンジョンと呼ばれる特殊な場所になる事がある。

 魔力が溜まっている分だけ、そこに自生する植物や鉱物などは魔力の影響を受けて品質が上がり、また魔獣の体から採れる種々の素材なども、日常生活、あるいは武器や防具、魔道具といったものの材料として有効に活用され、それらを手に入れる事を主な仕事とする者たちを冒険者と呼んだ。


 冒険者は組合(ギルド)に所属し、様々な人からの様々な依頼を斡旋される。依頼として多いのはダンジョンで産出される素材の入手である。

 手に入れた素材はギルドに納品される。

 ギルドは素材を欲しがる依頼人から依頼を取り次ぎ、適正なランクの冒険者に割り振って手数料をもらう。

 とはいえ、魔獣と戦う事を生業とする冒険者は戦力としても評価される。専ら人間相手の衛士隊では対応できない魔獣相手には冒険者が指名されるし、フットワークの軽さが売りでもある為、組織である為に動きが迅速に取れない場合もある衛士隊に代わって、ダンジョンの外の魔獣を退治する事を主としている者も少なくない。


 魔獣との命がけの戦いが生業であるせいで荒くれ者も多く、刹那的に生きるせいでならず者のような扱いを受ける者も少なからず存在する。

 にもかかわらず、魔獣の脅威の排除や、ダンジョンなどから採れる素材の有用性から、なくてはならない職業である事もまた間違いなく、英雄視される者もいるゆえに憧れる若者も多い。


 冒険者のランクはEから始まり、D、C、B、A、AA、AAA、そしてSへと行きつく。

 かつてはAランクが最上だったのが、Aランク冒険者の中でも実力に差が出始めてしまい、かといって実力が下の者を降格させては反発心を生む。

 そこで後付けとして上にAA、AAAと作られ、さらにSランクという位階が生まれた。


 アリスは鍛冶師であると同時に冒険者でもある。ランクはBだ。

 実力的には既にAやAAレベルのものがあるのだが、高位ランクに足を突っ込んでしまうと、様々な特典があるのと引き換えに魔獣発生の状況に応じて戦力として参戦義務が発生する。


 冒険者ギルドからは昇格やパーティ加入を何度も勧められているのだが、鍛冶師を以て自らを任じているアリスは、冒険者稼業に時間を取られ過ぎる事を嫌い、あえてBランクでとどめたまま、パーティも組まずに一人で活動している。

 しかし鍛冶仕事があまり多くない事もあって、結果として剣を握る時間が多い。そうでなければ家族を養えないのである。

 剣術の腕前に加え確実で丁寧な仕事ぶりから、今回の様に直々に指名されて依頼が来る事も増えた。

 そのせいで、実力がある癖に高位ランクに上がらず気取っている嫌みな女と思われる事もある。


 冒険者の仕事が嫌いなわけではない。家族の事を考えれば、高位ランクに昇進してもっと稼げる仕事をした方がいいのかも知れない。

 しかし、それでダンジョンにばかり行くようになって工房にずっと火が入らなくなっては両親の事が薄れて行ってしまいそうで、踏ん切りがつかなかった。


 また、高難易度の依頼ともなれば一人で続けるには限界がある。当然、背中を預けられる仲間を見つけてパーティを組まねばならなくなるだろう。

 しかしパーティに来る依頼は数日に渡るものも多くなるし、場合によっては遠方に呼ばれる事もあるらしい。そうなれば弟、妹と過ごす時間は減ってしまうだろう。

 二度も両親を失ったアリスは家族と離れるのが嫌だったし、ナルミもムツキもまだ子どもなのだ。自立できるまでは、両親の代わりに自分が傍にいてやらねばとアリスは決めていた。


 すっかり日の上った町は賑やかだった。

 イスルギは武器の名産地だから、それらを求める商人や関係者が多く出入りする。製鉄所もあるし、鋼の木の実を扱う工房も何軒かある。小さいながらダンジョンもあるから、冒険者ギルドの支部もあり、したがって冒険者やその関係者も多い。中々賑やかな島なのだ。


 朝市の閉じた船着き場には大小の船が出入りして、そこから大勢の人がやって来る。

 アリスは今出ようとしている舟にひらりと飛び乗った。顔なじみの船頭が目を白黒させた。


「なんだ、アリスか、驚くじゃねえか」

「ハブカ行きですよね?」

「おうよ。船賃は後でいいぞ」


 アリスは船べりに腰を下ろした。

 ブリョウは大陸の東端と、その先にある群島を領土とする国だ。

 ティルディスなどと同じく、有力豪族の集合体で、旗頭として都の帝を立てつつも、領地ごとの自治を持つという連邦式を取っている。ある意味では帝国と言って差し支えなく、西端のローデシア帝国などと同じく、爵位を持つ貴族階級も存在し、それはこちらでは華族と呼ばれている。

 群島を領土に持つという特質上、人々の生活に舟は欠かす事の出来ない交通手段だ。ティルディス人が馬を操るかの様に、ブリョウ人は舟を操ると言われる。


 小一時間ほどでハブカに辿り着いた。

 ハブカはイスルギよりも大きな島で、大小のダンジョンがいくつもある為、冒険者が多い。そのせいかイスルギよりもやや荒っぽい雰囲気がある。

 船賃を払って舟を下りたアリスは、町の中心部にある冒険者ギルドの建物に向かった。


 アリスがロビーに入ると、たむろしていた連中がアリスを見た。威圧する様な視線もあるが、アリスはちっとも物怖じしない。

 ハブカの冒険者ギルドはイスルギにあるものよりも大きい。海外から訪れる冒険者の姿も散見される。


 アリスは笠の縁に手をやって辺りを見回し、受付カウンターの方に行った。

 馴染みの受付嬢が目をしばたたかせた。


「アリスさん、お久しぶりです」

「こんにちは。イスルギで仕事の依頼を受けて……」


 とアリスは依頼書を受付嬢に渡した。


「今ダンジョンはどういう状況ですか?」

「ちょっとお待ちくださいね」


 依頼書に目を通した受付嬢は、カウンターの下から資料を取り出してぱらぱらとめくった。

 ブリョウは群島を領地に持つ特性上、ダンジョンも海に面しているものが多い。ハブカのダンジョンは山の斜面から入り、石筍の建ち並ぶ洞窟を進むうちに足元に海水が滲んで来る。

 ダンジョンは魔力溜まりで、環境が外界と変化しているものの、それでも海の満ち引きに影響されて潮位が変わる。満ち潮の時にはダンジョンの先に進めない、という事もあるのだ。


 大陸のダンジョンはあちこちに点在していて、町から遠い事もあり、ギルドも管理しきれない部分がある。

 その点ブリョウは同じ島内にある事もあり、かなりこまめにダンジョンの状態を点検している。

 その為安全ではあるのだが、難易度が低いせいかあまり高位ランクの冒険者の姿はない。

 受付嬢は資料を広げてアリスに見せた。


「満潮のピークは過ぎてますね。もう引き潮ですから、探索に問題はないかと。入っているパーティは二十組くらいで、高位ランクは二組だけです。オオメガイ狙いの人はいないと思いますが、トラブルにならないように気をつけてくださいね」

「変異種とかの報告はありませんか?」

「今のところはありません。先日一件ありましたけど、もう討伐済みです」

「なるほど……ありがとうございます」


 アリスは腰袋の位置を整えて踵を返した。二十組程度ならば、おそらく獲物の奪い合いにはならないだろう。

 それでギルドを出て、ダンジョンの東口に着いた。警備の詰め所と、簡単な冒険道具や薬を売る露店がある。アリスは店頭をざっと流し見して、それからダンジョンに踏み込んだ。


 空気が湿っていた。潮のにおいがした。その間を縫うように、魚が腐ったような鼻を突くにおいもした。

 中は暗いが、壁や天井のそこかしこが夜光虫のように光っていて、歩くのに支障はなかった。しかしその明かりにも強弱があるから、アリスは少し考えてから結局ランプに火を灯した。


 足元はごつごつしている。冒険者が出入りしているから自然と凹凸が削れて来てはいるものの、注意しないと転びそうだ。ここで転ぶと軽い怪我では済まない。

 魔獣は多くなさそうだ。特に入り口付近は人の出入りも多いから、魔獣はほとんど討伐されている。

 オオメガイは水辺にいる。もっと奥まで行かねば見つけられないのだが、奥に向かうほどに他の魔獣の気配も増すので、警戒せねばならない。


 こういう時にパーティを組んでいればもう少し緊張感も薄れるのだろうか、とアリスは思った。しかしパーティを組んでしまうと、もう鍛冶師ではなくなってしまうような気もして、やっぱり一人でいた方がいいかなとも思う。

 ふと、腰の剣が小さく震えた。


 ――来たよ。


 アリスはハッとして少し剣を鞘から出す。覗いた刀身は青い光を放っていた。アリスはそのまま剣を抜き放ち構えた。


 岩陰で何かが動いた。ぬるぬるした触手が這い出て来て、その後からごつごつした突起が幾つも生えた大きく丸い頭が出て来た。タコの魔獣らしい。

 アリスは伸びて来た触手を斬り払い後ろに下がった。ランプが揺れて、影が生き物のように暴れた。

 うねうねと動く触手は、それぞれが独立した生き物のようだ。一つにだけ注力していると思いも寄らぬ所から攻撃を食らう可能性がある。

 アリスは壁を背にするように立ち、向かって来る触手だけを相手取った。

 蒼い剣の切れ味は凄まじく、撫でるようにするだけで触手は寸断されて地面に落ちた。落ちてからもぐねぐねとのたうっている。


 ――今!


 数度の交戦で触手が短くなり、タコの動きが遅くなったところでアリスは一気に前に出た。目と目の間の一点を狙って刺突を放つ。

 剣は何の抵抗もなくするりとタコの眉間を貫いた。触手がぴんと伸びたと思ったらだらりと脱力し、そうして大きなタコはぐにゃりと倒れた。


「ふう……」


 アリスは剣を振ってぬめりを振り払った。刀身は汚れを残さずに青く光っていたが、やがて光は淡くなって消えた。


「……そうだね。わたしは一人じゃなかったね」


 とアリスは微笑んで剣を鞘に収めた。

 アリスが手ずから打ち上げたこの剣は、鋼の実の剣らしく意志を持つ剣である。片刃で緩く湾曲しており、青く透き通る刀身は美しい。

 しかし未熟な実で打ったせいか、話に聞く剣の声というのは微弱にしか聞こえない。それでも、剣は魔獣が近づくと青く光って危険をアリスに知らせたし、戦っている時もアリスの手助けをしてくれる。


「炙ったらおいしそうだけどなあ」


 とアリスはタコを眺めて呟いた。少し持ち帰ろうかしらと思う。しかし大きいから荷物になる。今は依頼の方が先だ。オオメガイを探さなくてはならない。

 アリスは荷物を持ち直し、ランプの灯を点検して、再び歩き出した。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 相変わらず、日常の風景描写が素晴らしい。 [一言] 触手魔獣と女剣士、期待した展開にならなかった(ウソです)。
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