十七.冬至の頃に降った雪が根雪と
冬至の頃に降った雪が根雪となり、雪景色もすっかり目に慣れて来た。日によっては軒先につららが下がる朝もあり、家の中の水がめにさえ氷が張った。
寒い日に限って空は青々と抜けるようだ。
そこいらに積もった雪に日差しが照り返して目に眩しい。
ざらついた風は冷えた肌をこすり、手の平を頬に当てればひんやりと冷たいのに、不思議と火照ったようにも感じられた。
大鍋でぐつぐつと大豆が茹でられている。朝からずっと煮続けているのである。
昨晩から水に浸けて膨らんだ大豆は、親指と薬指で潰せるくらいにまで柔らかく茹で上げねばならない。
かまどの傍らにむしろを敷き、アリスとムツキ、それにヤスハが桶を囲んで麹をほぐしていた。
コウジカビのついた米は塊になっているので、それを手で揉むようにしてぱらぱらとほぐす。そこに塩を混ぜ込んで、均一になるようにかき混ぜるのである。
「おててすべすべなった」
とムツキが手をこすり合わせながら言った。
「ね。でも姉さん、ちょっとしみる」
日々の仕事で指なんかに傷があると、塩がてきめんにしみるのである。また寒さのせいで爪の付け根がさかむけになったりもするから、何となくちくちくする。
ヤスハが目を細めた。
「むむぅ、アリスの肌がこれ以上すべすべになっちゃったらどうなるんだ」
「何言ってんの。はい、次行くよー」
混ぜ終えた塩麹を番重に移し、また別の麹を広げてほぐす。
味噌づくりは寒の頃に行う。
豆と麹と塩とを混ぜて発酵させたこの調味料は、ブリョウでは日々の料理に使われる。
専門的に大量に仕込み、それを販売する店もあるが、特に農村の人々などは、自家製の味噌を仕込んで一年中使う。しっかりと発酵すれば何年も持つので、沢山仕込んでおいても平気なのである。
大豆の煮え具合を見ていたナルミが顔を上げた。
「そろそろよさそうだよ」
「お、じゃあいきますかー」
竹で編んだすいのうを突っ込んで大豆を上げる。乾いていた時はまんまるの大豆は、水を含むと長く膨らみ、煮られて薄皮が剝がれると二つに割れる。
倉庫から引っ張り出して来た臼に豆を入れて、杵で潰す。餅のように杵を振り下ろすと大豆は四方八方に跳ね散らかってしまうから、アリスとヤスハが両側から杵を突っ込んで、中央に押し込むようにしながら半ばすり潰すような格好である。
「アリス、力つよ! もうちょい加減してよ」
「えー、これくらい普通でしょうよ」
二つの杵で大豆を圧し潰す形だから、杵同士が当たればその力関係が生じる。アリスとヤスハではアリスの方が力が強いらしい。
冷めると思うように潰れないから手早く行う。とはいえ、入念にやったつもりでも、幾分か豆の形が残るものだ。
潰した大豆を桶に移し、塩麹を混ぜる。両手をすり合わせるようにしながら豆と麹とを合わせ、むらのないようにせねばならない。
そうして握り飯くらいの量ずつ丸めて両手の中で何度かぺたぺたと行き来させて空気を抜き、最終的に発酵させる樽に力いっぱい投げ込む。空気が混じるとそこからカビが出るので、勢いをつけて投げ込み、空気を抜くのである。
昔、両親がまだいた頃は、味噌づくりは家族みんなでやっていたのを思い出す。ゲンザもシヅも、こういった時は鍛冶場に入らなかった。シヅが塩と麹を混ぜるのはとても丁寧だったし、父が真面目な顔をして大豆の玉を樽に投げ込む様は、思い出すと何だか口端がほころぶ。
ばっちーん、と派手な音を立てて大豆玉が投げ込まれたのを見て、ムツキがにやにやした。
「おねぇ、力込めすぎ」
「そりゃ空気抜かなきゃだもん」
「いやいや、やり過ぎ。飛び散ってるじゃん」
とナルミが呆れたように言った。樽の底に当たった大豆玉が潰れるばかりでなく、樽の内側に飛び散っている。ヤスハがけらけら笑った。
「樽の底にコテツの顔でも見えた?」
「そういうわけじゃないけど……」
アリスは大豆の玉を手の中でもてあそびながら口を尖らした。
ナルミが肩をすくめる。
「工房で嫌な事でもあるんじゃないの」
「そうじゃないよう。そりゃコテツとは仲悪いけど……」
相変わらずアリスは自宅の工房とユウザの工房を行き来する生活をしていた。仕事にもすっかり慣れたが、コテツとは事あるごとに口喧嘩になった。
アリスの方は努めて他人と揉めないようにしているし、マキノはじめ仲のいい職人も増えては来たが、コテツの方がアリスに突っかかって来るからやりづらくて仕方がない。
それでアリスの方が嫌になって出て行けば向こうの望むところだろうから、アリスはしかめっ面のまま踏みとどまっている。それが余計にコテツの気に食わないらしい。
潰した大豆と麹を混ぜたものに、茹で汁を加えながらナルミが言った。
「コテツは鍛冶場で仕事してんの?」
「あんまり見ない。どっちかといえば叔父さんの跡継ぎで経営の方に行ってるんじゃない」
「あいつ鍛冶の才能はないって専らの噂だもんね」
とヤスハが言った。ナルミが頷く。
「ユウザ叔父さんも鍛冶師としては二流止まりなんだってさ」
名工ゲンタツ直系の子孫ではあるが、ユウザやコテツは鍛冶師としての名声はない。
とはいえ、ユウザは経営者としての手腕は確かで、それはアリスも認めるところだ。
職人の多くは商売下手な傾向があり、その部分を請け負って鍛冶仕事に集中する環境を整えているユウザは、自らが鎚を握らないとはいえ、鍛冶師たちから尊敬を集めている。現在のイスルギ鍛冶の土台を支えている存在と言っても過言ではあるまい。
その跡をコテツが継ぐのか、とアリスは何だか変な気持ちになった。少なくとも、コテツに経営の手腕があるのかどうか、アリスにはよくわからない。
しかし、不思議とコテツの手は鍛冶師の手だ。鎚の握りダコもあるし、ごつごつとしていて硬い。普段は事務所や応接室にいるくせに、どうしてああなっているのかはよくわからない。
その時、庭先の門から「ごめん」と言いながら誰か入って来た。
「あ、ミサねぇだ」
とムツキが言った。
ミサゴは相変わらず鷹揚に笑いながら大股で入って来た。いつもの衛士隊の制服ではなく、私服らしい着物に身を包んで外套を羽織っている。首にマフラーを巻き、頭にはキャスケット帽子をかぶっていた。
「ミサゴさん」
「やあ、お邪魔するよ。味噌づくりかい」
「ミサねぇ、久しぶり」
「おお、むっちゃん、元気だったかね? ふふふふ、捕まえた」
とミサゴはムツキを抱き上げて頬ずりした。ムツキは豆で汚れた両手を上げて「うぎゅぎゅ」と身じろぎした。
「ミサゴさん、しばらく見なかったけど、どっか行ってたの?」
とナルミが言った。ひとしきりムツキを愛でたミサゴは満足げな顔でムツキを降ろし、頷いた。
「ああ、ちょっと実家にね。キオウの件やら何やらで色々と気になる事もあったものだから。あ、これお土産だよ」
と言って何やら包みを差し出した。菓子折りが入っているらしい。
ミナモト家はブリョウ本島に領地を持っている。本家は北西部に広大な領地があるが、分家筋のミサゴの家は南部にあるそうだ。確かに冬に入る頃から見なかったな、とアリスは思った。
「キオウの事で何かあったの?」
とナルミが言うと、ミサゴは苦笑した。
「ああいう危ないものを放置しておくのもどうかと思ったし……ミクリヤ殿と話をして、どうもハクザンのお偉いさん方はキオウの封印を知っているらしかったからね。まあ、少し政治的な話になってしまうから、今日はやめておこうよ。ボク、単に遊びに来ただけだから」
「あ、わたしお邪魔ですか?」
ともじもじしていたヤスハが言った。
「いやいや、そんな事はない。ボクの方がお邪魔した形だもの、気にしないでくれたまえ。味噌づくり、楽しそうだな。それ投げ込むの? ボクもやっていい?」
と手を出したミサゴをムツキが制した。
「おてて洗って来て。お手伝いはそれから」
と言った。ミサゴは恐縮したように頭を掻いた。
「し、失礼……」
「ミサゴさんはむっちゃんに弱いですね」
とアリスはくすくす笑った。
ナルミが呆れたように肩をすくめる。
「手を洗うくらい常識でしょ……」
「うっかりしてただけだよ! それにボクはこう見えて良家のお嬢様なんだぞ、慣れてなくても仕方がないじゃないか!」
わたわたと言い訳するミサゴを見て、アリス達は余計に笑った。
それでミサゴも交えてまた味噌づくりに戻る。
おっかなびっくり大豆玉を投げ込むミサゴは、普段の凛とした風でないから妙に可愛らしく映り、アリスは面白かった。
「そういえば、道中トゲツに立ち寄ったんだが」
とミサゴが言った。
トゲツはブリョウ本島にある町で、イスルギと並ぶ鍛冶の名産地として有名である。
「トゲツですか。行った事ないなあ……」
「おや、そうかね。そこで君らの親戚だという鍛冶師に会ったんだよ、ヒイラギとかいったかな」
アリスはおやおやと思った。
「ヒイラギさんに会ったんですか」
「ああ、トゲツでも有名な工房の下請けをしていたよ。見学させてもらった時にイスルギの話になって、ユウザ殿の息子だと言うから」
ムツキが大豆玉をぺしっと投げ込んだ。
「ヒイラギにぃは帰って来ないね」
「そうだね。あっちの工房が忙しいんじゃないかな」
ユウザの長男でありコテツの兄であるヒイラギは、鍛冶師ギルドの伝手でトゲツにある大手の工房に勤めていたが、今は自分の工房を持つくらいになっているようだ。
特にアリスたちきょうだいと仲がいいというわけではないのだが、少なくともユウザやコテツと違って職人としての腕前は確かであり、その為、ゲンザに対しても他の親族と違って少なからず畏敬の念を抱いていたようだ。
だからコテツのようにあからさまに敵対するような事はなく、むしろ人目を忍ぶようにこっそりとゲンザの元を訪れて、短い時間で何かしらのアドバイスを求めていたのは、まだ十歳そこそこだったアリスの記憶にも残っている。
早い時期からトゲツに出て行ってしまったので、アリス達もかなり長い事会っていない。ゲンザとシヅの葬式で会った以来だ。
「元気でしたか、ヒイラギさんは」
「ああ、元気だった。君の剣を見せたら驚いていたよ」
とミサゴがいたずら気に言った。アリスは目を白黒させた。
「み、見せたんですか?」
「そりゃそうだろう。称賛の言葉こそ出なかったが、明らかに高く評価している目だったよ、あれは」
ミサゴが使っているのはアリスが打った剣である。それを見たヒイラギは、真剣な表情で剣を裏に表にして眺めていたらしい。
「あちらでも、名工ゲンタツの子孫という事で期待されている分、プレッシャーも多そうだ。しかし見せてもらったが、中々いい剣を作っていたよ」
アリスは少しうろたえた。確かに、ユウザたち一家もゲンタツの子孫なのだ。ゲンザの名が高い分忘れがちだが、彼らにも名工の血は流れている筈なのである。
そういう意味では一番の部外者は……。
と考えかけてアリスは頭を振った。
血ではない。筈だ。
それに自分はゲンタツではなく父であるゲンザを追いかけている。妙な事を考えるのは駄目だ。
そういえば、アリスはヒイラギの作った武器というのを見た事がない。
ユウザの家と行き来があったわけでもないし、アリスが本格的に鎚を握る頃にはイスルギにいなかったから、職人としての付き合いがあったわけでもない。ブリョウ本島で腕を磨いている従兄の剣がどんなものか、同じ鍛冶師として少しばかり興味が湧いた。
ナルミが投げ込んだ大豆の表面をぺたぺたと平らにならした。
「ミサゴさんの実家ってトゲツに近いの?」
「まあまあ近いかな。イスルギと行き来する途中にあるという感じだよ」
「ああ、なるほど……」
「本島、行ってみたいね」
とムツキが言った。アリスは苦笑して頷いた。
「そうだね。イスルギ以外の名産地を知らないもんなあ……」
「お? 家族旅行ですかな? 行くなら鶏の世話は任せろー。卵はもらうけど」
とヤスハが面白そうに言った。
「いやいや、そうもいかないって……てか卵欲しいだけでしょ」
「ばれたか」
「しかし、イスルギ以外の鍛冶の里を見るのは悪くないのではないかね? やはり場所によって特色はあるだろうし」
ブリョウは各地に鍛冶の名産地がある。鋼の木があるイスルギはその中でも別格の扱いだが、無論イスルギ以外の地も有名な武具や鍛冶師、工房がある。
産出される鉄や、その地で確立された技術などで武器の質や具合は変わって来るし、優劣が決まっているわけではない。特に同じ鍛冶師の目線で見れば随分違うだろう。勉強になるに違いない。
ムツキが期待に満ちた目でアリスを見た。
「行く? おねぇ」
「うーん……」
行ってみたくはある。しかし現実味のない話だとも思う。
イスルギからブリョウ本島まで、船で数日はかかるという。しかも船はまっすぐ本島を目指すわけではなく、いくつかの島に停泊しつつ進むから、実際の距離よりも日数はかかる。
往路にかかった分復路にもかかるし、さらに到着してそのままとんぼ返りする筈もないから、結局ひと月近く予定を空けなくてはなるまい。
「……難しいかな。姉さん、今は他所の工房で働いているわけだし、それに旅費だってかかるだろうし」
ユウザの工房で仕事をするようになった今、そんなに長く家を空けてはおけない。
しかもきょうだい三人で旅をするとなれば、それなりに費用だってかかる。日々の暮らしには困っていないが、急な出費がかさめば後々苦しい思いをする事になるだろう。
ムツキがつまらなそうに大豆玉を樽に投げ込んだ。
「つまんない」
「ごめんね。そのうち、いつかね」
いずれ独り立ちできるようになれば、とアリスは何年先かわからぬ未来に思いを馳せた。ヤスハが肩をすくめる。
「アリスってば、真面目なんだから。我々は花の乙女ですぞ。もっと遊ばねば」
「何言ってんのさ。そもそもヤスハは遊んでるわけ?」
「いや、あんまり暇がなくて……」
「人の事言えないじゃん……」
とアリスは呆れたように言った。ヤスハがトホホと肩を落とす。
「はーあ、町の女の子はもっときらびやかなのかなあ……」
「ミサゴさん、どうなの?」
とナルミが言った。ミサゴは大豆玉を丸めながら首を傾げた。
「ボクもよく知らないがね。しかしイスルギだって洒落た店くらいあるだろう、貿易商や冒険者だって来るんだから」
言われてみればそうだが、アリス達の生活スタイルからして、そういった場所にあまり縁がないのである。
ヤスハが大豆玉を樽に放り込んで立ち上がった。
「よーし、今日は味噌づくりだけの予定だし、片付けまで終わったらミサゴ様も交えてお洒落なお店で女子会だ! 年頃っぽい事しとかないと老けてしまうぞ!」
「ボクも行っていいの?」
とミサゴが何だかドキドキしたような顔で言った。
「そりゃそうですよ。大体、お洒落な店なんてミサゴ様しか知らなさそうだし」
「いや、ボクだって詳しくないが……そうだなあ、港のそばに眺めの良い茶屋はあったな」
「いいですね! お洒落! そーだ、サクラコも誘う?」
「あー、そうだね。仕事じゃなければ……」
「おにぃは仲間外れ?」
とムツキがナルミを見た。ヤスハがハッとしたように口に手を当てた。
「そうだ……ナルちゃん……でもここに混じれるんだから、女子会に混じってても違和感ないかも……?」
「確かに。じゃあナルミも参加だね」
とアリスが言うと、ナルミは顔をしかめた。
「馬鹿言うなよ、嫌だよ。女子だけで勝手に行ってくりゃいいだろ」
「えー、いいじゃん。行こうよナルちゃーん」
「やだってば。ったく、早く終わらせようよ、冷めるから」
ナルミはにべなくそう言って味噌樽を指さした。もう少しでいっぱいである。
ミサゴがけらけらと笑う。
「はっはっは、お年頃だな、ナルミは。ボクの従弟とそっくりだ。男子というのはこういうものなのかね?」
「知らないよ。ほら、ミサゴさん、さっさと投げて」
とナルミはあくまで素っ気ない。ミサゴは大豆玉を持った手を振り上げた。
「ようし、張り切っていくぞう!」
と勢いよく投げ込んだはいいが、狙いが外れて樽の縁に当たった。半分は樽の中に落ちたが、もう半分は飛び散ったように樽の外に跳ね散らかる。
ムツキが両手でつんつんとミサゴの脇腹をつついた。
「ミサねぇ、下手。おしおき」
「ごめんなさい! ひゃああ、むっちゃんやめてくれぇ! こしょばい!」
身を捩じらせるミサゴを見て、アリス達は声を上げて笑った。




