十.右腕がひっつったように震えた
右腕がひっつったように震えたので、アリスの意識は覚醒した。
外ではなかった。布団に寝かされている。どうやら衛士隊の詰め所らしい。ユウザの工房で眠ってしまい、そのまま連れて来てもらったようだ。
アリスは右手を何度か握ったり開いたりした。もう震えや痺れはなさそうだ。
寝起きの気だるさのまま仰向けになっていると、そこににゅっとムツキの顔が出て来た。
「おはよ、おねぇ」
「むっちゃん……剣は?」
「ん」
ムツキの示した方を見ると、抜き身の剣が置かれていた。鋭く砥がれ、ぎらぎらと光っている。
アリスは体を起こし、剣を手に取った。
見事な出来だ。シガは首尾よく仕上げてくれたらしい。自分が砥いで、ここまで鋭くできただろうか、などと思う。
「おねぇ、凄いね。いい剣だね」
「ありがと……今、どうなってる? カンナさんは?」
「起きてるよ」
「そう……他のみんなはどうしてるの」
「作戦会議してる」
アリスは部屋の中を見回した。アリスとムツキ以外はいないようである。
アリスは立ち上がって窓を開けた。晴れ空だ。医務室は二階にあって、他に高い建物があまりないせいで見晴らしがよい。まだどことなく台風の気配のある風が吹いているが、既に雨雲は姿を消した。窓から見える往来では、既に町の人々が台風後の片付けに奔走している。
台風が空を洗って行ったようで、遠くに見える海の方も晴れ晴れと明るい。いつもはけぶって見えないアカバネの島影もくっきりと見えるくらいだ。
しかし海は濁っているらしく、さらに未だに荒く高い波がひっきりなしに打ち寄せているらしかった。
しばらくそんな風景を眺めているうちに、頭の中がはっきりして来た。
アリスは大きく息をついて、ムツキの方を見返った。
「おねぇ、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ありがとね、むっちゃん」
その時部屋の戸が開いてミサゴが入って来た。その後ろにはカンナ、ナルミの姿もあった。ナルミは少し眠そうだが、カンナは表情もはっきりしていて、もう昨夜のような憔悴した様子は窺えない。
アリスの姿を見るや、カンナは飛ぶようにやって来て手を取った。
「アリス様!」
「カンナさん、体の具合は……」
「おかげさまですっかり元気になりました。危険な仕事を受けていただき、ありがとうございます」
カンナはアリスを気遣うように手をさすり、深々と頭を下げた。
「いえ、そんな……」
とアリスはもじもじした。ナルミがやれやれと頭を振った。
「まったく、人騒がせなんだから」
「なんだよう」
とアリスが頬を膨らますと、ムツキがいたずら気に言った。
「おにぃ、ずっとおねぇの事心配してうろうろしてたよ」
「余計な事言うな!」
とナルミは拳を振り上げた。ムツキはそそくさとアリスの陰に隠れた。
ミサゴがからからと愉快そうに笑った。
「まったく、仲のいいきょうだいだな! アリス。具合はどうだい?」
「もう大丈夫そうです。すみません、ミサゴさん。ご迷惑を」
「気にする事はないよ、首尾よく剣も仕上げられたんだろう?」
とミサゴは壁に立てかけられた剣を見た。
「いい出来だ。あれが鋼の実の剣というわけだね」
「はい」
ミサゴはにっこり笑ってアリスの肩を叩いた。
「ご苦労だったね。しかしまだ問題が解決したわけではない。キオウに乗り込まねばならないからね」
「封印を元通りに、という事ですね」
「うむ。とはいえ、衛士隊もまだ本隊が戻っていないから人手が足りん。アリス、体調次第だが、よければ来られないかね? 君の剣の腕はボクも知るところだ。力を貸してもらえると助かるんだが」
アリスは首肯した。
「願ってもない事です。わたしも剣の行く末を見届ける義務があると思いますので」
「皆さん、何から何までありがとうございます」
とカンナは再び頭を下げた。
「仕方ないよ。もうこれはキオウだけの問題じゃないんでしょ」
とナルミが言った。ミサゴが頷く。
「事は急を要する。迅速に動かねばなるまい」
「どのようにお考えですか」
とアリスが言うと、ミサゴは腕組みした。
「海が荒れているせいで、衛士隊の他の連中もすぐには戻って来られん。それにキオウで待ち受けているのは魔獣だからな。冒険者の協力を仰ごうと思う」
ミサゴ曰く、今イスルギにいる衛士隊だけでは人数も足りないし、何よりも魔獣が相手であれば冒険者の方が専門家である。カンナが言うには、高位ランクの魔獣の姿も散見されている状況だというから、乗り込むにしても万全を期したいとの事だ。
アリスは頷いた。
「それがいいでしょう。しかし、キオウまではどうやって?」
他の島にいる衛士隊が船を出せないくらいに海は荒れている。キオウにまで行くのも容易でないだろう。
カンナがおずおずと手を上げた。
「わたしが」
「カンナさんが? まさか転移魔法を?」
「い、いえ。しかし、キオウ周辺の海はいつも荒れておりますので、この程度の波ならば船は動かせます」
キオウの守り人たちは、他の島にまでは行かないにせよ、舟を出して魚を捕ったり、水生魔獣を討伐したりしている。荒れた海での舵取りはお手の物という事らしい。そういえば、カンナはあの台風の荒波の中をキオウからイスルギまで来たのだった、とアリスは思い出した。
ミサゴがにかっと笑った。
「そういう事だ。船は今手配している。アリス、一緒に冒険者ギルドに来てもらえるかい? 現役の冒険者がいてくれた方が話が早いだろうからね」
「行きましょう。あまりぐずぐずしてもいられないでしょうし」
とアリスは手早く身支度を整え、封印の剣を布に包んで抱えた。
カンナは大型船の舵の具合を確かめる為、ナルミは風の司の真似事的な事を試みる為に残り、アリスとミサゴ、それにムツキは揃って冒険者ギルドに向かった。
冒険者ギルドは賑やかだった。台風の片付けや修理の手伝いなどの雑用仕事が次々と入って来ているらしく、ランクの低い冒険者はそんな依頼が来るのを待ち受けるようにたむろしている。
そんな中で、高位ランクらしい連中は暇を持て余したように、ギルドに併設された酒場にいた。連絡船も出ず、潮位の関係でダンジョンにも入れないから、する事がないらしい。
アリスたちが受付に行くと、受付嬢がおやおやという顔をした。
「アリスさん、こんにちは。お仕事をお求めですか?」
「いえ、別の用事で……こちらは衛士隊のミサゴ様で、相談があって伺いました」
「え? 衛士隊の……ミナモト家の?」
と受付嬢が言い終わる前に、ミサゴがずいとカウンターに身を乗り出した。
「失礼する。衛士隊イスルギ支部所属のミサゴ・ミナモトだ。火急の用でギルドマスターにお目にかかりたい。取り次いでもらえるかね?」
「はぇ!? ははは、はい! すぐに!」
受付嬢はあたふたしながら事務室に駆け込んだ。
それから小一時間ほどして、酒場に冒険者たちが集められていた。
とはいえ、その数も多くはない。カンナの話ではキオウには災害級の魔獣も発生しているようだから、生半可な実力の者では却って危険である。高位ランクのみに声をかけた形になったようだが、それも二十人もいないだろう。
「諸君、急な招集失礼する。ボクは衛士隊イスルギ支部所属のミサゴ・ミナモトだ。今回は諸君に協力を仰ぎたく伺った次第だ」
とミサゴが言うと、冒険者たちは面白そうな顔をした。
「へえ、華族のね」
「衛士様がわざわざ頼みに来るなんざ、珍しいじゃねえか」
あまり好意的な反応ではない。
元々衛士隊と冒険者とは仲がいいとは言えない。衛士隊は冒険者をだらしのないならず者扱いする事もあるし、冒険者の方も衛士隊は融通の利かぬ、権力を笠に着た連中と嫌う。無論、例外も多数あるが、全体の傾向としてはそうだ。
そして華族というのも冒険者とは折り合いが悪い。
上流階級である華族は、専ら庶民からの出の者ばかりの冒険者を下に見ている。そう見られていい気分のする者はいないし、血気盛んな冒険者からすれば気に食わない。
その両方の属性を併せ持つミサゴは、冒険者たちからは蔑みと警戒の目で見られているようだ。
アリスは少しはらはらした気分で見守っていたが、しかしミサゴ本人はちっとも気にした様子はない。いつも通りの鷹揚な態度で、事の次第を説明した。
話が進むにつれ、冒険者たちも少し表情が変わった。
「キオウ……まじかよ、あの島上陸できたのか?」
「眉唾な話だが、確かにここらの水生魔獣は活発化してるもんなあ」
さすがに高位ランク冒険者ともなれば、ここいら周辺の魔獣の状況などもある程度は把握しているようだ。違和感を抱いていた者も多いらしく、こうなれば話は早い。
「難易度の高さを正確に言う事はできないが、緊急事態である事は理解してもらいたい。無論、依頼料はきっちり支払う。諸君には緊急時の協力義務があるとは思うが、できるならば自発的な協力を求めたい。強制する事で足並みが乱れては不測の事態が起こる可能性もある。拒否したい者を引き留める気はないが……どうかな?」
そう言ってミサゴは冒険者たちを見回した。
冒険者たちは顔を見合わせながら、少し感心したようにざわめいている。
緊急時の衛士隊や華族からの要請はほとんどが強制的なものだ。こんな風に選択肢を与えられる事さえない。衛士や華族がやって来てこんな風に言う事さえ稀だ。ギルドに通達が来て、それが伝えられるだけである。
それでも自由を愛する冒険者などはそれを突っぱねて姿を消してしまう事もあるので、そのせいでいつまでも衛士隊と冒険者は仲が悪い。
ともかく、ミサゴのそういった態度の甲斐あってか、席を立つ冒険者はいないようだ。
さすがだな、とアリスがホッと胸を撫で下ろしていると、酒場の隅の方から声がした。
「その封印の剣とやらはあるのか?」
丁度荷物の陰になっていた所から、大柄な初老の男が姿を現した。
アリスは思わず身をすくました。
「おお、あなたは確か“山断ち”のトラジ殿だったかな?」
とミサゴが言った。
三年前に会っただけのSランク冒険者は少し老けたように見えた。増えた白髪が、灰色の髪の毛に線のように走っている。顔に刻まれた皺の数も深さも増している。
「封印の剣というのが確かかどうか、それを確かめたい」
「道理だな。アリス、いいかね?」
「は……」
「……久しいな。まだ鎚を握っていたのか」
とトラジが言った。アリスは返事をしようとしたが、かすれた声しか出なかった。ミサゴが怪訝そうに眉をひそめる。
「知り合いかね?」
「昔な」
トラジは鋭い目つきでアリスを見ていた。あの時と同じ、値踏みするような目だ。剣を折られた時の事を思い出し、アリスの動悸が激しくなる。
いや、ここで物怖じしてどうする。三年前とは違うのだ。とアリスは少し震えながらも、剣を包んでいた布を取った。鞘のない、むき出しの刀身がギラリと光る。
トラジが目を剥いた。
「これは……」
「いかがかな? 鋼の実の剣だそうだ」
とミサゴの方が何だか自慢げにそう言った。
トラジはジッと剣を見つめていたが、やがて片手を出した。
「いいか?」
「は、はい」
アリスは刀身の方を持ってトラジに剣を差し出した。柄を握ったトラジは感嘆したように唸った。
「なるほど……確かに強力な剣だ」
そうしてアリスを見た。
「腕を上げたな」
「あ……きょ、恐縮です」
とアリスはもじもじした。何だか急に肩の荷が下りたように思われた。
トラジはしばらく剣をためつすがめつしていたが、やがて顔を上げてミサゴを見た。
「物は相談だが」
「何かね」
「封印されていた対象が消えれば、封印の剣も必要ないのだろう?」
「それはそうだと思うが」
「もし、そうなればこの剣、今回の報酬として俺がもらいたい。どうだ?」
「ふむ。まあ、ボクの一存では決めかねるが……どうだろうね、アリス?」
「え、あ、カンナさんの意向もあるとは思いますが、わたしとしては別に……」
「駄目」
別の所から声がした。アリスが驚いて目をやると、不機嫌そうに顔をしかめたムツキが腕組みして、傲然とトラジを睨んでいた。
トラジは面食らったようにムツキを見た。
「お前は……確か妹だったか?」
「トラのおっちゃんにその剣は使いこなせない。剣に呑まれるよ」
「ちょ、むっちゃん」
「剣に呑まれるだと?」
トラジはじろりとムツキを睨んだ。Sランク冒険者の威圧感は、その場にいる者の背筋さえ寒からしめた。
しかしムツキはちっとも物怖じせず、ふんと鼻を鳴らした。
「おっちゃんは実の剣とは相性悪い。強くはなれるけど」
「どうなる」
「凶暴になる。おっちゃんも、剣も。輻射熱みたいに。そのうち剣の方が強くなる。それでおっちゃんは剣の為に誰彼構わず斬るようになる。危ない」
迷いのない言葉である。アリスはドキドキしながらムツキとトラジを交互に見た。
トラジは押し黙ったままムツキを見ている。冒険者たちも息を呑んでこの状況を見守っている。ミサゴは面白そうな顔をしているが、油断なく剣の柄に手を置いていた。
緊張感に息苦しくなるように思われた時、やにわに笑い声がした。トラジの傍で卓を囲んでいた初老の冒険者たちが愉快そうに笑っていた。
「はははは! すっかり見抜かれてんな、トラ!」
「“山断ち”も形無しだねぇ」
「こうもズバッと言うとは、見どころのあるお嬢さんだ」
誰も彼もベテランといった風体である。どうやらトラジのパーティメンバーらしい。トラジの方も苦笑いを浮かべている。不機嫌そうな様子は見られない。
憤怒の言葉が出るかと思っていた冒険者たちは呆気にとられ、アリスも困惑した。
「あ、あの、トラジさん。すみません、妹も悪気があるわけじゃ……」
「わかってる、気にするな……実はな、昔ゲンザに実の剣を頼んだ事があった。剣士の憧れだからな。だが断られたよ。今とまったく同じ事を言われた。お前は強いが、実の剣は魔剣になる、ってな」
そう言ってトラジは頭を掻いた。
「ゲンザの娘に同じ事を言われるとはな。まあ、俺も自覚はある。どうしたって戦いの高揚感に身を任せる場面はあるしな。そういう時に凶暴な気持ちが湧くのも仕方がないだろう。しかし、どうも俺はそれが強すぎるようだ」
冒険者として魔獣と戦う以上、それも仕方がないのは確かだ。自分も冒険者であるアリスはそれがよくわかるが、実の剣はそういった凶暴さばかりを注ぎ込むのはいけないらしい。
ミサゴが顎に手をやって言った。
「なるほど、鋼の実というのはそういうものなのだね。しかしむっちゃん、よく初めて会う人をそう見抜けるものだね」
「初めてじゃない。昔おっちゃんの剣見た事ある」
三年前の事だろう。トラジがアリスの剣を折ったあの一撃を、ムツキは覚えていたらしい。
トラジはやれやれと頭を振った。
「大したものだな。名は何というんだ?」
その声には純粋に称賛の響きが含まれていたが、ムツキは顔をしかめたまま、あかんべえと舌を出した。
「おっちゃんはおねぇを泣かしたから嫌い」
「いや、あれは……別に意地悪をしたわけでは」
「話しかけないで」
ムツキはにべもなくそっぽを向いた。トラジは困ったように頭を掻く。
アリスはわたわたしながらムツキの肩に手を置いた。
「むっちゃん、あの時はわたしの実力不足のせいだから……」
「そうだとしてもおっちゃんが大人げなかったのは変わんないもん」
そう言って膨れているムツキを、トラジのパーティメンバーたちががやがやと取り囲み、頭を撫でたり頬をむにむにとつねったりした。
「そうだそうだ、もっと言ってやれ」
「こいつは昔から大人げないんだ。いい薬になるぜ」
「お姉ちゃんが好きなんだねえ。姉妹仲がよくてうらやましいよ」
「お前ら、いい加減にしろ」
トラジがしかめっ面で言った。ミサゴが笑い出したのを皮切りに、冒険者たちも笑い出す。緊迫していた空気から一変、酒場が急に陽気になった。
「さて、ともかくここにいる者は協力の意志ありと判断して構わないね? 各自準備を整えて衛士隊の詰め所前に集まってもらいたい。よろしく頼む」
ミサゴがそう言うと、冒険者たちは慌ただしく酒場を出て行く。諸々の準備を整える為だろう。
アリスは何となく混乱した気持ちで突っ立っていたが、ムツキに手を握られてハッとした。
「おねぇ、行こ」
「うん……むっちゃん」
「なに」
「……ありがとね。でも、あんまり大勢の前で誰かを悪く言うのはよくないよ」
「ん、わかった。気をつける」
ムツキはそう言ってアリスの手をぎゅうと握った。その手の温かさが、今は何だかとてもありがたく感ぜられた。