序.在りし日の唄
アリスの一番古い記憶は嘆きだった。わけもわからずにただ泣いていただけだ。
船底だった。どうしてここにいるのだかわからなかった。不安で、心細くて、とにかく泣き叫んでいた。
「おい、誰かいるぞ」
と泣き声を聞き付けて、誰かがやって来た。薄暗い船室で顔はよくわからなかった。何人かいるらしい。
「西方人の子だ」
「可哀想に……」
「おいで」
アリスは訳も分からぬまま抱き上げられた。いやいやと抵抗したが、三歳児程度の力では大人には敵わない。抱き上げられたまま階段を上がって外へと出た。
青々とした空が広がっていた。日の光は水面を輝かせて目に眩しい。しかしどこかしんしんと身を刺すような嫌な気配が漂っていた。
船の横に、もっと大きな船がつけられていて、そこから同じ服を着た連中が出入りしていた。ブリョウの衛士隊だ。皆黒い髪を持ち、制服の上に羽織を着て腰には剣を差していた。甲板には血が飛び散っていた。それが陽光に照らされて、潮のにおいを押し分けて嫌なにおいを漂わせていた。
船の隅には布やむしろをかけられた死骸が横たえてあった。数は多くない。海に投げ込まれた者もあるらしい。日差しは温かいのに、死の気配が肌に冷たい。
アリスの泣き声で気づいたのか、視線が集まった。
「おや、君。その子はどうしたのだね」
「船底で泣いていたんです。生存者はこの子だけのようです」
とアリスを抱いていた男が言った。
口ひげを蓄えた中年男が眉をひそめた。胸章からしてこの衛士隊の隊長らしかった。
「そうか……もっと早く駆けつけられていればなあ」
「隊長、海賊どもの本船の追撃はどうします」
「今からでは追い付けまい。早めに戻って周辺の巡回を増やすよう進言しよう」
「了解しました。二班と六班はこの船の操舵に残れ。他は母船に戻るぞ」
「おお、よしよし。大丈夫だよ、泣くんじゃない」
あやされたけれど、アリスの涙は止まらなかった。やがて泣きつかれて再び眠ってしまう。
目が覚めると頭の中がぼんやりしていた。自分がどこにいるのかわからなかった。目が腫れぼったくて、まばたきをするとちくりと痛かった。
どうして悲しいのかもわからないが、再び涙が溢れて来た。
泣き声に気づいたのか、襖が開いて男が入って来た。船でアリスを見つけた若い衛士だ。慌てた様子でアリスを抱き上げてあやそうとする。
「ほらほら、泣くな泣くな」
しかしアリスは泣き止まない。涙があふれて止まらなかった。衛士はいたたまれない表情でアリスの背中をさすっていた。
「その子がそうなのか」
別の声がした。
男が入って来た方に、別の男が立っていた。もう四十に差し掛かろうかという年頃だ。背は低い方だが、体幹のしっかりした体つきをしていた。職人然とした厳しい顔つきをしている。
「そうなんですよゲンザさん……」
「ああ、ああ、そんな抱き方じゃいけませんよ。かしてください」
女が入って来て、アリスを抱いた。三十手前といった容姿だ。
ふくよかな胸に抱かれると、アリスは不思議と気持ちが落ち着くのを感じた。すんすんと鼻をすすり、小さく嗚咽しながらも、アリスは女の胸に顔を埋めて静かになる。
衛士が感心したようなホッとしたような調子で口を開く。
「シヅさん、流石……」
「可愛い子だね……この年で一人っきりなんて、気の毒に……」
「海賊も活発になっているらしいな」
とゲンザが言った。
「ええ。皆殺しにして船ごと奪おうなんて、質の悪い奴も増えて嫌になりますよ」
「力のない奴ほどそういう事をするもんだ。腕のいい海賊は殺しなんぞ滅多にしない」
「でしょうね。巡回船で近づいたら不自然に逃げようとするからすぐわかりましたよ」
アリスの乗っていた商船は海賊に襲われたらしかった。海賊は商船の者を皆殺しにして、船ごと積み荷を奪おうとしたらしかったが、近くを通りかかった巡回船に見つかり、たちまち追い付かれてせん滅の憂き目を見た。船底の荷物の隙間にいたアリスは、一人だけ助かったというわけだ。
「……この子の親の身元はわからんのか?」
「まだ調べている最中ですが、船に残っていた死体にはそれらしいのはなかったんですよ。家族が一緒だったのか、あるいは人さらいに遭ってここまで連れて来られてしまったか……」
「何か持ち物はなかったのか」
「主神ヴィエナの紋章の入ったペンダントくらいですね。でもまあ、品質はいいですけどありふれたものですし、身元の特定にはつながらないかと。何せ大陸の西の方の人ですからね。こっちは東端だから、わかるかどうか……商船も個人の持ち物だったようですし、紋章なんかもないんですよ。もしかしたら密輸船じゃないかって」
「そうか。面倒だな……仮に家族連れにしても西で何かやらかして、子供も連れてこちらに逃げて来た、という事もあり得るわけか」
「そうですね。その場合は身元を特定するのも難しくなります。恐らく自分の事を周りに教えたりはしないでしょうし、訳アリ同士は詮索したりしませんからね」
「密輸船であれば、関係者は知らぬ存ぜぬを通すか……」
「それに、そもそも密輸船だったから海賊に狙われた可能性もありますよ。悪人どもも一枚岩じゃないですし、略奪じゃなくて抗争だったとしたら話も変わって来ます」
「それに巻き込まれたか。不憫な……」
ゲンザは嘆息して、眠るアリスの方を見た。
シヅは眠ったアリスを愛おし気に撫でながら、ゲンザを見た。
「ゲンザ、この子、うちで預かっちゃ駄目かな?」
「……そうしたいか?」
「うん。わたしたちの子は流れてしまったでしょう? この子と出会ったのも、何かの縁だと思うんだ。このまま放っておくわけにもいかないだろうし。ねえ衛士さん、どうだろう?」
「ええ、構わないと思いますよ。ゲンザさんとシヅさんなら安心だし、上も文句ないでしょう」
「ねえ、ゲンザ」
「……わかった。だが、この子の親類が引き取りたいと申し出て来たら、素直に渡さなければいかんぞ」
「ああ、わかってるよ……綺麗な金髪だね。どこかのお嬢様だったのかな」
とシヅは優しくアリスの髪を手櫛でといた。
「……刀を届けに来て、娘を預かる事になるとはな」
とゲンザは呟いた。
〇
鍜治場はいつも薄暗い。
窓には筵がかけられ、入口にも布が垂らされて、日の光が入らない様になっている。
鍛冶師は赤く熱された鉄や火床の炭の色を見て、鉄の延び具合や、鎚を入れるタイミングなどを見極めなければならない。明るい中ではそれができないのだ。
イスルギという島にある工房は家に隣接しており、そう大きいものではなかった。
結局親類は見つからず、自らの名前の他は何ら当てになる記憶もないまま東の国での暮らしにも慣れ、日々の営みのうちに悲しみの癒えたアリスは、ちょろちょろとその工房に出入りしていた。
初めのうちは危ないとゲンザに怒られて逃げ出していたが、それでもしばらくすると戻って来て、遠くから鍛錬の様子を眺めたり、そこいらに置かれた鉄の切れ端をいじくったりする。
そんな事を繰り返すものだから、どうもこの子はこういった事が好きらしい、とゲンザもシヅもアリスの好きにさせてやるようになった。
五つの頃、弟のナルミが生まれた。
最初の子を流産して以来、初めての血の繋がった息子であるにもかかわらず、両親はアリスとナルミのどちらにも、分け隔てなく愛情を注いだ。
七つの頃に妹のムツキが生まれた。
アリスは長女としてゲンザとシヅを実の両親と慕い、いつも後について歩き回り、手伝ったり甘えたりした。ナルミとムツキの事もよく可愛がって、忙しい両親に代わって子守をしたりした。
剣鍛冶と、それに伴う剣術に関してアリスは非常な関心を寄せた。
剣術はまず知り合いの衛士に教わり、それから近所の道場に通い出した。鍛冶は父であるゲンザの傍らについて熱心に見て学んだ。
アリスは鍜治場が好きだった。特に剣を打つところは美しかった。
左手の梃子棒に、右手の鎚が力強く振り下ろされて真っ赤な鉄を打つと、爆発するような音がする。
金敷の表面は、水に浸けた藁の手帚で清められていて、残っている水が熱い鉄に押し付けられて瞬時に蒸発する。それが爆発するような音を出すのだ。
そうして火花が飛び散る。尋常の量ではない。
ゲンザに容赦なくそれらが降り注ぐが、集中力を切らす事はない。ゲンザは決して打たれる鉄から目を離さない。一打ちごとにどれだけ鉄が延びるのかを見、赤く熱された鉄の色と、打たれた時の音に集中する。それによって鉄の状態を判断するのである。
時にはシヅが向こう槌を握る事があった。ゲンザはシヅを完全に信頼しているらしかった。実際、ゲンザの思う所に寸分違わずシヅの向こう槌が振り下ろされた。向き合うようにして一つの剣を打ち上げる夫婦の姿は、幼いアリスの目にもわかる鬼気と美しさが同居していた。
ゲンザの真剣な表情とリズミカルに打たれる鎚の音とで、鍜治場は張り詰めた雰囲気が漂い、外から覗き込むだけの幼いアリスでさえも、息をするのがはばかられるように思われた。
ブリョウの武器は、硬軟異なる二種類の鉄を組み合わせて打ち上げるせいか質が高いと評判で、わざわざ西から買いにやって来る者もいるくらいだ。各地に有名な武器の産出地があり、イスルギもそのうちの一つにして、ブリョウ最高峰とも言われていた。
その理由は鋼の木の存在である。イスルギにしか生えないそれは地中の鉱物を吸い上げて金属として精製し、実としてぶら下げるという不思議な樹木で、果実から採れる鉄は高品質ながら加工が難しい。
単に質の良い武器として打ち出すだけならば普通の職人でもできるが、実の特性を十全に引き出した、俗に言う『生きた武器』を作れる職人は片手で数えるくらいしかいない。
そのうちの一人にして、ブリョウでも一、二を争う腕と言われるのがゲンザである。
彼の曾祖父であるゲンタツは、かつて “パラディン”と呼ばれる伝説的なエルフの冒険者の剣を打った名工と伝えられており、ゲンザはその再来ともてはやされたものだ。
尤もゲンザは欲のない男で、また剣匠としての名声や矜持にもさほど興味がなく、武器だけにこだわらずに、ほかの剣鍛冶師が下等と嫌がる野鍛冶――農具や漁具、工具に包丁などの日用品も作り、それらを売って日々の糧としていた。
そのため、彼が打つ武器や道具の評判は高いし、衛士たちや冒険者、農民や漁師からは慕われているものの、同業の剣鍛冶師や名誉や印象を重んじる華族からはやや蔑まれていた。
特に実の弟のユウザとは折り合いが悪く、ユウザが既に大工房の主として職人を大勢抱え、羽振りよく身を立てているのに対し、ゲンザは町はずれの小さな屋敷で個人工房を営んで静かに暮らしている。
実質的に家を継ぎ名工ゲンタツの子孫である事を大々的に宣伝しているユウザの工房に仕事を取られる事も珍しくなかったが、ゲンザはちっとも気にしていない様子だった。
イスルギはかつて海底の火山が隆起してできた島で、その土でなければ鋼の木は育たない。
悠々と枝葉を伸ばすそれは、一見普通の木と変わりがないが、ぶら下がる実は形こそ様々なれど、表皮は金属のような光沢を放ち、木の内部で鉄と練り合わされた様々な鉱物や魔石の色が、マーブル模様になって浮かんでいるのだった。
イスルギ鍛冶の最大の特徴といっていいその木は、代々管理を任されている家の者が大切に手入れをして、今なお悠々と枝葉を延ばして威容を保っている。
木の周囲には、古い武器がいくつも突き立てられていた。
役目を負えた武器が再びここで実として成り、新たな武器へ生まれ変わるようにと、引退した兵士や冒険者が置いて行くのだ。それは墓標のようでもあった。
『生きた武器』を作れるゲンザの屋敷には、鋼の実が整頓されて並べられている部屋があった。大きさ、色、形などで分けられて、用途によって使い分けられるのである。
ゲンザは自ら鋼の木へと出かけて行き、自分の目で実を選んで買い取った。勿論、そんな時はアリスもお供をするのが常であった。
実の並べられた部屋は、アリスのお気に入りだった。
昼間も薄暗く、鋼の実が放つひんやりとした空気に満ちた部屋は、夏の盛りでも涼しかった。
アリスは大小様々な実に囲まれながら、工房の方から聞こえてくる鎚音を聞きながら眠るのが好きだった。
九つになった。
体もすっかり芯が通ったアリスは、自ら手鎚を持って武器を打つようになっていた。
時折ゲンザの元を訪れる冒険者や剣士から直接手ほどきを受けたせいか、剣の方もめきめきと上達して、同世代はおろか、上の世代相手でも負けなしと評判である。
神童だともてはやされる一方やっかみも受け、ブリョウに珍しい金髪碧眼も相まってからかいの対象になる事もしばしばだった。
そんな事がある度にアリスは却って発奮して、そんな連中に口も利かせられないくらいのものを作ってやると息巻いたし、自分から吹っ掛ける事こそなかったが、喧嘩になれば体の大きな男子にも負けなかった。
十二になった。
まだ幼げながらも、既に大人さながらに向こう鎚を打つアリスは、ゲンザの仕事を手伝うようになっていた。彼女自身の天賦の才は、大人たちさえ舌を巻くほどで、既にひとかどの職人として認められつつあった。
そんなある日、一つの実がアリスの前に現れた。
やや武骨な形をしたそれは、まだ熟していないにもかかわらず枝から落ちてしまったもので、完熟果よりも一回りほど小さかったものの、美しい青色の光沢を放っていた。本来は安く払い下げられるものの筈だったが、木の管理者がおまけにとくれたのである。
アリスは手に取るやたちまちそれに惹かれて、事あるごとにその実を眺めて過ごした。じっと見つめていると、顔なぞない筈の実が表情を変えるような気がした。
この実で剣を打ってみたい。
アリスは日々膨れるその願望を抑えられず、ついにある日ゲンザに願い出た。
「父さん」
書斎で手紙に目を落としていたゲンザは顔を上げた。尊敬する父親なのだが、家族相手にも笑う事はめったにない。まして鍛冶仕事の話となれば師弟である。厳しい顔を見る機会ばかりだ。
アリスは緊張気味に続けた。
「青い、実が……この前入ったでしょう」
「……あの未熟な実か」
ゲンザはアリスを見つめた。アリスは正座した膝の上で手をぎゅっと握り、頷いた。
「鍛えたくなったか」
「は、はい。駄目、ですか……?」
アリスは窺うようにゲンザを見ながら、おずおずと言った。
ゲンザは少しばかり考えるように目を伏せたが、すぐに口を開いた。
「持って来い」
アリスはすぐに持って来た。実はあまり滑らかとは言えない表皮をしていたが、蒼い光沢は美しかった。ずっしりと重みがあり、ひんやりとした金属的な冷たさの奥に、不思議な温かさがあるように思われた。
ゲンザは黙ったまま、実を持ったアリスをじっと眺めていた。アリスは息を吞んで突っ立っていた。
時折訪れる、誂え物の剣を求める客は、実の中から一つを選び、武器に仕立ててもらう。
しかしどの実もしっくりした感じがなかったり、ゲンザが合っていないと判断したりした場合は、武器の製作自体を断る事もある。
鋼の実の武器は所有者との相性次第で凄まじい武器になる事もあれば、とんでもないナマクラになる事もある。よき相棒として持ち主を手助けするならばいいが、魔剣と化し、持ち主を逆に支配しようとする事になれば大事である。だから鍛冶師の方も注意深く依頼主を見極める事が求められた。
その目で今見られている。
実際は数分の事だったが、アリスには何時間にも感ぜられた。
やがてゲンザはふうと息をついて表情をやわらげた。
「松炭の量に気をつけろ」
「じゃあ?」
「やり方は知っているだろう」
「――っ! ありがとう、父さん!」
それで工房に駆け込んで火を起こしていると、七歳の弟のナルミが、五歳の妹のムツキの手を引いてやって来た。
「姉さん、何してるの」
「ナルミ、手伝って。この実で剣を打つから」
「ええ……?」
ナルミは困惑しながらも、火起こしを手伝ってくれた。
アリスは火をナルミに任せて、実を洗おうと立ち上がった。妹に手を差し出す。
「むっちゃん、危ないから母さんの所に行こ」
ムツキはふるふると首を横に振って、絶対に動かぬという意思を示すように工房の隅の方に座って膝を抱えた。
アリスは肩をすくめて水場に出た。実の表面を束子でこすり、水で洗って手ぬぐいで拭き上げた。まるで海のように深い青色が輝くように見えた。
「綺麗……」
鋼の木の実は、鉄だけでなく様々な鉱物や魔石が入り混じっている。本来は不純物として取り除かれる鉱物や魔石などが、木の内部で完全に鉄と一体化されているので、実によってそれぞれ質も性格も違うのだ。それを見極めて加工できる職人は少ない。
「どうしたの、それ」
ナルミが言った。
「気に入って……父さんに許しももらったし」
「姉さん、実で打った事あったっけ?」
「父さんの手伝いでだけ。でも、やってみる」
炉はすっかり熱くなっている。アリスはどきどきしながら鋼の実を炉に入れた。その上から松炭を重ねて、鞴を動かす。
アリスは黙っているし、ナルミもムツキも黙っている。
炭の燃える音と、鞴の送る風の音とが、薄暗い工房の中でひときわ大きい。
実は既に玉鋼と同程度の状態になっているから、熱して延ばし、折り返し鍛錬から行う事になる。炉で熱される事で植物部分である果肉や種などがすべて燃えてなくなり、鉄と一体化していない不純物も鎚で打つ事で弾き出される。そうする事でより純度が高く、高品質な鋼へと変わって行くのだ。
どんな剣を打とう?
アリスは思った。
ゲンザが実で剣を打つところは何度も見たし、向こう鎚を握った事もある。実の形だったものを打ち延ばし、何度も折り返して鍛錬して、それを武器の形に打ち出して行くのだ。完成品を受け取った依頼主の恍惚とした表情は忘れがたい。
アリスは一心に鞴を動かしながら、燃える炉から立ち上る火の粉を見た。
もっと炭を足して、と声が聞こえた気がした。