カナタの後悔【カナタ視点の話】part2
それからは、あっという間に時間が過ぎた。
まず両親の死を確かめる為に、市役所に向かった。
両親は、確かに1年前に死亡していた。
それから家を管理してくれていた父の姉に会いにいった。
小さいころはよく会いにいっていたのだが中学に入ってからはバツが悪く何かと理由をつけて会わないようにしていた。
私を見てすぐもすぐに私とは気づかなかったようで名乗ってからすぐに顔が怒りに変わった。親不孝者だと誹りを受けたが本当のことなので何も言い返すことはできなかった。
一通り罵倒され、怒りが収まったのか叔母は、両親の死について語ってくれた。
二人は、東京に向かう途中で交通事故にあった。
行く前にやっと娘を見つけたといって叔母に報告に来ていたそうだ。
そう、両親は私に会いにこようとしていたのだった。
その道中に大規模な玉突き事故があり、その事故に巻き込まれたそうだ。
事故原因だった車の運転手は運転中に亡くなっており、両親は前のトラックと挟まれる形で亡くなったとの事だった。
運転手に殺意を覚えたがその対象はすでに亡くなっておりやり場のない怒りはそのまま私へと向かった。
その後、いろいろな手続きなどをすべて叔母がやってくれたそうで両親の遺産などについても説明を受けたが、ショックが大きすぎてあまり頭に入ってこなかった。
両親がいない間に家を管理していてくれたお礼を伝え家に戻った。
帰りがけに憔悴しきった私に叔母は、昔のようにやさしく励ましてくれた。
叔母が、時折掃除をしにきてくれていたそうだが、やはり所々汚れており、気を紛らわす為に、掃除を始めた。
そして我が家を掃除しながら昔の事を思い出していた。
両親の期待に応えられない自分を認めたくなくてずっと両親を煙たがっていた。
だけど両親はいつも私の心配をしてくれていた。
どんなに夜遅くに帰っても起きていてくれた母、どんなに私が無視してもずっと叱ってくれた父。
大人になった今になって、初めて両親の愛情を理解した。
すでに取り返しがつかない状況になってから気付くなんて…後悔が募った。
リビングの棚の下から両親の残した手紙を見つかった。
手紙には、両親の私に対しての思いが綴ってあった。
『小さい頃は、なんでも出来たあなたに私達は期待を寄せた、私達は特に優れた人間ではなかったから・・・だからこそ自分達の子供が立派に育って欲しいと願った。でも、私達はあなたを特別なんだと期待を寄せすぎてしまった。記憶力のよかったあなたは、覚えたことをすぐに実践できる器用さもあった。だけど、あなたはそれを理解して使っているのではなく、その場限りで使えていただけだったことに私達は気付いていなかった。そしてそれは中学に入り、徐々に周りの子に追いつかれていくことにあなたは、焦っていた。そして私達が気付いた時には、すでに手遅れだった。基礎を教えようと何度もあなたに言ったつもりだったがあなたは受けてはくれなかった。今になって思えば、私達のそれはあなたにとってさらにプレッシャーになっていたのだと後悔した時にはあなたは私達の前からいなくなった後だった。』
自分でも分かっていた。小学生の間は、記憶力を頼りに乗り切っていたが私立の中学に進学した私は、おいていかれるようになった。上っ面な勉強を繰り返しテストの点だけ取れればいいと…結局、基礎の部分が身についていなかったのだ。だが、両親に尋ねられた時も、そんなこともできないのかと失望されている気がしてどうしても教えを請うことができなかった。
『私達はあなたに期待をかけすぎた、あなたを追い詰めてしまった。そんな私達の元からあなたは消えてしまった。初めはいつもの家出だと高をくくっていた、帰ってこない日が1週間…一ヶ月と続き私達も心配となりあなたの交友関係を当たった。しかし、誰もあなたの行方は知らなかった。それから私達は必死にあなたを探した。だけど見つからなかった。いくつもの興信所に頼んだが途中から足取りが消えてしまいあなたには辿り着けなかった。事件に巻き込まれていなければ良い。どこかで無事に生きていてくれれば良い。』
結局、私が無駄に頭を使ったせいで両親を追い詰めてしまった。きっと私のことなんか忘れて暮らしているだろうと勝手に自分を納得させていた。そんな訳はないとわかっていたはずなのに。
叔母から渡された両親の遺産はほとんど残っていなかった。子供の時から通っていた塾や、私立中学校の学費、いくつもの習い事、すべて私が途中で放りだした物が決して裕福ではなかった家の家計を圧迫していた結果だった。
交通事故の保障金を含め、ほとんどが少なくない借金の返済や葬儀の費用などに充てられほとんど残らなかったと説明を受けた。
『あなたが帰ってきてこの手紙をもし読むことがあったらどうかどうか私達の下に顔を見せてください。あなたを追い詰めてしまって本当にごめんなさい。私達は、ただあなたに会いたい、それだけが私達の望みです。』
手紙の最後にはそう綴られてあった。
自分たちが留守の時に私が帰ってきた時の為にこの手紙が置いてあったのだろう…結局最後まで私は両親の想いを裏切り続けたのだった。
それからしばらく何も手につかなかったが、区切りとして葬式を行うことにした。
吹っ切れた訳では無いが両親にお別れをしなくてはと思った。
すでに葬式をあげてくれていた叔母には頭をさげ自宅で再度葬儀を行った。
自宅で行う葬儀にしたのだが、それなりにお金がかかったが貯金で賄うことができた。
すでに行った葬儀をやり直さなくてもと気を使われたが、どうしてもケジメはつけたかった。
自分一人の葬儀になるかと思っていたのだが教師だった両親の為にたくさんの元教え子達が参列してくれた。
以前の葬儀の時は、親類が家族葬で行うということで参列出来なかったそうだ。
皆、私にご両親には大変お世話になりましたとお礼を言われ、親の偉大さに気付かされた。
そしてすでに焼かれてしまい遺体もない状態だったが、みんな仏壇に頭をさげお礼をいっていた。
再度の葬儀となったが親類も参加してくれた、私には散々な言いようだったがそのたびに叔母が一緒に頭を下げてくれた。
そのことは私にはとてもうれしかった。
葬儀も終わり、何も手につかず両親との思い出が残る家でただ、生きていた。
「なぜあの時…」
私の家出は突発的な家出ではなかった。
ずっと前から計画しお金も貯めていた。両親から離れたいそれだけで頭がいっぱいだった。
その為に、無駄に小賢しい頭を精一杯使った。
そして決行の日、東京ではなく四国に向かうバスに乗りそこから船で移動した。
そこから体力に物を言わせて歩いたりもしたっけか・・・とにかく簡単に連れ戻されないように知恵を絞った。
そして途中で髪型も髪色も変え東京に着く頃には別人になっていた。
両親から離れたくて必死だった。だけど今になって思えばそんなことをしたせいで両親は私を見つけるのに苦労して最後には私に会うために亡くなった
一度でも連絡を入れていれば…一度でも家に帰っていれば…両親が亡くなることはなかった。
そのことだけが私の心を蝕んでいた。
両親との思い出が詰まったこの家で過ごしていた私に叔母から申し訳なさそうに連絡が来たのは葬儀から1週間後のことだった。
両親の住んでいた家は、借家だったのだ。
家のことに関心のなかった私には寝耳に水だった。
今、思えば遺産の中に家の登記簿等がない時点で気付くべきだった。
叔母が私が帰ってくるかもと家賃などを支払ってくれていたのだが、1年という節目だった事とダンジョン災害の影響もあり、引き渡すことを決定していた。
何を勝手にと思うからもしれないが、いつ帰ってくるかもわからないやつの為に1年間も維持してくれていたことに感謝こそすれ文句を言う資格は私になかった。
引き渡し日まであと半月も残っていなかった。
このまま住み続けたいという希望も伝えたが、すでに叔母から聞いてくれていたそうなのだが、次の住人が決まっており変更することは叶わなかった。
まぁそれも当然か、借家といっても一軒家。
時期など考えると恐らくダンジョン災害の被害者の可能性が高い。
そんな相手にやっぱり無理ですとはいえるはずもなかった。
叔母からは頭を下げられたがこれまで維持してくれていたことに感謝を伝え今まで払っていた家賃分として残っていた貯金をすべて渡し、足りなかった分は退職金としてもらったお金から多めに支払った。
叔母はこっちが勝手にしたことだからと最初は受け取ってもらえなかったのだがこちらの感謝の気持ちを伝え受け取ってもらえなければ両親に顔向けすることができないと頭を下げながら無理やり押し付けた形となった。
そこからは、慌てて家財道具などの処分や片付けに追われあっという間に引き渡しの日となった。
家財道具のほとんどは、家無しの私には管理することができず、親類に譲ったりして残ったものは処分することになった。
手元に残ったものは父の釣り道具と母の画材道具類だけとなった。
この品だけは処分することができなかった。
そして何もなくなった家に別れを告げて私は、東京へと戻った。




