大陸暦1972年――生きる意味
外庭の花壇の上を、ふよふよと数匹の蝶々が飛んでいる。
午後の自由時間、私はベンチに座ってそれをぼんやりと眺めていた。
ここには今、私以外には誰もいない。今日は見習いのほとんどが入口広場で過ごしている。
私も自由時間が始まったときに広場に行かないかと上の見習いに誘われたけれど、今日はどうにもそんな気分にはなれなかったのでやんわりと断った。
それは気分が落ち込んでいるから、などという理由ではない。
むしろ昨日までに比べれば気持ちは大分、すっきりしている。
上空に広がる青空ぐらいに、晴れ晴れとしている。
それもこれも胸の中に溜めていたものを吐き出したからだろう。
そう、全てはロネのお陰だ。
今朝、目を覚ましたらもうロネは先に起きていた。
私が抱きしめたまま寝てしまった所為で起きても身動きが取れなかったあいつは、気恥ずかしさを感じている私になにごともなかったかのように『おはよう!』と挨拶をしてくると、昨夜のことにもなにも触れてくることなく『いっしょにねてくれてありがとう!』と笑顔でそれだけ言って部屋を出て行った。
それが私に気を遣っての態度なのか、それとも素なのかはわからない。
けれど、どちらにせよ、案外あいつは私が思っているより子供ではないのかもしれない。
その後、礼を言いにきたリリーにも避けていたことを謝って、もう気を遣わなくてもいいと伝えておいた。それでも自由時間になると、リリーはロネを連れてどこかに行ってしまった。私はただ大勢と過ごす気分ではないだけで二人といるのは別によかったのだけれど……一人になりたそうな顔にでも見えたのだろうか。それともロネを遊ばせに広場に行ったのだろうか。それならいいのだけれど、リリーも大人びてるからか結構、気遣いの人なのでその辺は後でまた念を押しておいたほうがいいかもしれない。もしくはちゃんと避けていた理由を言うべきか。
そんなことを考えていると、飛んでいた蝶々がいつのまにか花の上に止まっていた。
蝶々はくるくるに巻いた口――昆虫に詳しいロネ曰く口吻と言うらしい――を伸ばして花を突いている。花の蜜を吸っているのだ。
今度はその様子をぼんやりと眺めていると、やがて足音が耳に入ってきた。その音は通り過ぎることなくこちらへと近づいてきている。花壇から奥の建物に目を向けてみたら、修道院の通路から外庭へと人が入ってくるのが見えた。
……ユイさんだ。
彼女はそばまでやってくると、そのまま隣に座った。
それから心配げに顔を覗き込んでくる。
「大丈夫ですか?」
なにがだろうと思っていると、ユイさんが手を伸ばしてきた。そして目もとに触れてくる。
「少し、腫れています」
それで、と私は内心で苦笑した。
私は自分の顔が好きではないので、普段から鏡をまじまじ見る癖がない。身支度のときにさっと確かめるぐらいだ。だから自分の目が泣き腫らしていることに、全く気づいていなかった。
おそらくリリーもこれに気づいていて、私を一人にしたのちに今日は昼から修道院に来ていたユイさんに報告したのだろう。
「ロネを見ていると、辛いですか?」
ユイさんが続けて訊いてきた。
それも。
「リリーから聞いたんですか」
「いいえ」
……そうか。それなら気づかれていたのか。
心配をかけて申し訳ないなと思いながらも、忙しい中でも私のことを見ていてくれてたんだなと、嬉しくなった。
「そうですね」私は前を向く。
辛かった、ことには間違いない。
ロネを見ているとライナを思い出して、悲しくて、寂しくて、胸が痛かったから。
でも、それを辛いとまで感じていたのはロネでもライナのせいでもない。
自分のせいだ。
自分がその気持ちに向き合いたくなくて、押さえ込んでしまっていたからだ。
それによって溜まり続けた気持ちがいつの間にか重荷になって、それで辛く感じてしまっていたのだ。
そのことに私は昨夜、ロネに言われてやっと気がついた。
そして朝起きて、一人になって思った。
もう、我慢するのはやめようと。
今後もきっとロネを見ていて同じことは起こるだろうけれど、もう目を背けたりはしない。
あの子との思い出から、記憶から、自分の気持ちから。
そして泣きたいときには気持ちを押さえ込まず、吐き出そうと思った。
そうすれば気持ちが溜まることはない。
悲しくても寂しくても、辛くなることはない。
胸の痛みは泣いたらおさまるものなのだと、そうロネが教えてくれたから。
「でも、もう大丈夫です」
私はユイさんに微笑みかける。それで強がりではないと気づいてくれたのだろう。
「そうですか」と彼女も安心するかのように小さく微笑んでくれた。
それから私たちは前を向いた。
お互いになにも喋らず、ただ外庭の花壇を眺める。
そうしていると、春期の風が外庭に吹き抜けた。
風はさわさわと草花を揺らして鳴らし。
見習いたちの明るい声を、遠くから運んでくる。
それを聞きながら、平和だな、と思った。
なんて平和で平穏な時間なんだと。
私は《《これを》》なんて言うか、知っている。
孤児の誰もが夢見るこの時間を。
貧しい壁際の子の誰もが、手に入れたいと願うこの時間を。
私は今、それを手にしている。
その真っ只中にいる。
それなのに……私の中に、これを受け入れきれない自分がいた。
「――ここは、本当に穏やかで」
それを吐露するかのように、私は口を開いていた。
ユイさんがこちらを見る。
「衣食住にも困らなくて」
私の独白のような言葉を、静かに聞いてくれている。
「暴力にも、怯えることもなくて」
私は俯く。膝の上に軽く組んだ自分の手が見える。
「……でも、この生活は妹が死んだから手に入れたものです。そう思うと少し複雑で」
ユイさんのところにいたときには、そんなことを考えたことは一度もなかった。
それはあの生活がいつかは終わるものだと、一時の夢なのだとあのときは思っていたからだろう。
でも、夢は終わらなかった。
ユイさんのお陰で、それは現実のものとなった。
心に余裕ができたことで、私は今それを実感してしまった。
住む場所にも食べるものにも困らない、心穏やかでなにものにも怯えることのない生活を手に入れたのだと。
それは私とライナだけでは、絶対に手に入れることが出来ないものだった。
私がどんなに頑張ったとしても、そんな生活をするのは不可能だった。
それは、わかっていた。
変えられない現実として、理解していた。
私も、そして、おそらくライナも。
だからせめて、私はあの子だけでも幸せになってほしかった。
どんなことをしてでも、たとえこの身を売ってでも、あの子を少しでも幸せにしてあげたかった。
けれどもそれを手に入れたのは、私だった。
あの子の幸せをなによりも望んでいたのに、私が《《これを》》手に入れてしまった。
それも、あの子の犠牲の上で。
これを幸せと呼ぶには、どうしても……抵抗があった。
「こうは考えられませんか?」
こちらを見ていたユイさんが前を向いて言った。
「この生活は、妹さんが与えてくれたのだと」
「……ライナが?」
「貴女の妹さんならきっと、貴女の幸せを願っていたはずですから」
「どうして……そう思うのですか」
ユイさんは生きているライナに会ったことがない。
あの子がどんな子だったのか、なにも知らない。
それなのにどうして……。
ユイさんはこちらに顔を向けると、微笑んだ。
「姉の貴女が、優しい子だからですよ」
目の奥がじわりと熱くなる。
ユイさんが私のことをそのように思ってくれていることが嬉しくて。
そしてそんな私を見てライナが優しい子だってわかってくれたのが嬉しくて。
感情が込み上げて、なにも言えないでいる私の頬にユイさんが触れてきた。
温かな白い手が、私の頬を包む。
……思えば、ライナをあの星教会に連れていかなければ、私がユイさんと出会うことはなかった。
あの冷たい雨の日に、この手が私を救い出してくれることも。
今こうして、私が生きていることもなかった。
そう考えると、私とユイさんを引き合わせてくれたのはライナなのかもしれない。
ユイさんの言う通り、この生活はあの子が与えてくれたのかもしれない。
「それなら私は、あの子のために幸せにならないといけないのですね」
私があの子の幸せを望んでいたように、あの子もそう望んでくれているのなら。
「そうですね」
ユイさんは頬から手を引くと、私の手にそっと触れてきた。
「でも焦る必要はありません。ゆっくりと受け入れていけばいいのです」
ライナの死を。そして手に入れた平穏な日々を。
「そうしていれば、いつかきっと見つかります。貴女の生きる意味が」
それを聞いて、私は以前ユイさんが言っていた言葉を思い出した。
――仕事、友人、そして自分を大切に思ってくれている人。
家族を失ったユイさんは、そのために今は生きていると言った。
ユイさんの言うそれは、仕事はきっと修道女で、友人はルナさんや写真に写っていた人たちのことだろう。
そして大切に思ってくれている人というのは、ユイさん自身が大切にしている人たちのことなのだろうと思う。
ユイさんがどれぐらいでそれらを見つけたのかはわからない。
そして私は失ったばかりで、まだなにも見つけられてはいない。
修道女になれるにしてもまだ先の話だし、大切な人と呼べるような人もいない。
……でも、友人になれそうな子はいる。
色々と振り回してしまったにも関わらず、自分を気にかけてくれる子が。
無邪気に私を好きだと言ってくれる子が。
私はベンチから立ち上がると、ユイさんに言った。
「最近、ロネとあまり遊んでやれなかったので、行ってきます」
ユイさんはわずかに目を見開いたあと、微笑んでうなずいた。
私は背を向けて走り出す。
――ライナ。
お姉ちゃん、お前がいなくて、寂しくてたまらないけれど。
お前を思い出すだけで、会いたくてまだ泣きそうになってしまうけど。
でも、お前がくれたこの日々を、頑張って生きてみるよ――。




