大陸暦1972年――痛みの正体
翌日からロネはことあるごとにおんぶをねだってくるようになった。
それを見かねたリリーが窘めようにもロネは全く聞く耳を持たず、終いには彼女も諦めてしまったのか『そのうち興味の対象がほかに移ると思いますので……』と申し訳なさそうに言った。
私としては別に迷惑とは思っていなかった。ロネに限らず子供の相手をするのは嫌いではないから。
でも、それが毎日欠かさずとなると話は別になる。
最初は軽く感じていたおんぶも、毎日のように続けていると不思議なものでだんだんと重く感じてくる。さらには日に日に積み重なる腕の筋肉痛がそれに拍車をかけてくる。
そしてロネを見ていて感じていた胸の締めつけも、最近では以前より多くなっていた。
私も腕だけならまだなんとも思わなかった。筋肉痛なんて倉庫で荷運びをしていたときにはしょっちゅうだったし、なんならいつも腕を痛めてさえもいた。それに比べればこれぐらい大したことじゃない。おんぶの間だけ、痛むのを我慢すればいいだけのことだ。
でも、胸の締めつけは――心の痛みはそうはいかない。心の痛みは気持ちにも尾を引くし、我慢すればするほどなにかしらが胸に溜まり続けているような感覚を覚える。しかもその原因もまだわかってはいない。それもあって、ロネと会うことがだんだんと心的負担になり始めていた。
それでもロネの喜ぶ姿を見ていると断るのは忍びなくて、結局は要望に応える毎日となっていた。
私が修道院に入ってもうすぐ一月が経とうとしていたころ、いつものように外庭でロネをおんぶしていたら、ユイさんがこちらに近づいてきた。
私は背中のロネを下ろして挨拶をする。
「こんにちわ」
ユイさんとまともに言葉を交わすのは数日ぶりで、つい嬉しくて表情が緩んでしまう。でもリリーとロネの手前、私はすぐに表情筋を引き締めた。
「ユイせんせ、こんにちわ!」ロネが私の腕に抱きつきながら言った。
「こんにちわ」リリーが軽く頭を下げる。
「こんにちわ。アルバ、ロネ、リリー」
ユイさんはそれぞれの顔を見ながら挨拶をしたあと、こちらに顔を向けてきた。そして視線を下げてロネを見てから、また私を見る。
「随分と、好かれたみたいですね」
「私がというよりは、おんぶする私が好かれているだけのような気もしますが」
苦笑して答えると、腕に抱きついているロネが「そんなことないよ!」と声をあげた。
「おんぶもアルバもすきだよ!」
「そこはおんぶを省いたほうが、説得力あるんだけどな」
私の言葉にリリーとユイさんが小さく笑う。
当のロネはというと『どういうこと?』とでも言うように首を傾げている。ロネにはまだちょっと言葉が難しかったらしい。
どう説明するべきかなと考えていると、ユイさんが「ロネ」と呼んだ。
「こういうときはロネがしてもらって嬉しいことを好きというのではなく、ロネに嬉しいことをしてくれる人に好きだと伝えたほうがいいとアルバは言っているのですよ」
ロネはユイさんの言葉を飲み込むように何度か瞬きをすると、やがて「わかった!」と笑顔でうなずいてこちらを見上げてきた。
「アルバがすきです!」
理解してくれたのはいいのだけれど、これはこれでちょっと恥ずかしい。
なので「それはどうも」と軽く流すと、ロネがぐいっと腕を引っ張ってきた。
「アルバもロネのことすきだよね!?」
「え」
「すきでしょ!?」
純粋でまっすぐな目が問い詰めてくる。
ここはロネの望むとおりに返してやるのが大人の対応というものだろう。でも、まだ大人になりきれていない私には、同年代のリリーはともかく大人のユイさんの前で好きと口にするのはどうにも気恥ずかしさを感じた。
「普通、かな」
だからつい誤魔化すようにそう答えてしまうと、ロネが不思議そうに首を傾げた。
「アルバ、ロネのことすきじゃないの?」
「え? いや、そういうわけじゃなくて、普通」
「ふつうってどっち?」
「普通は普通だろ」
「すきかきらいかでしょ!」ロネが地団駄を踏む。
「えぇ……? お前の辞書には普通って単語がないのかよ」
私たちのやり取りを見て、またユイさんとリリーが笑っている。
ロネは意味がわからないとでも言うようにまた首を傾げていたけれど、やがてなにかに思い至ったのかさっと表情が沈んだ。
「アルバ、ロネのこときらいなの……?」
どうやらこいつの中で普通が嫌いに分類されてしまったらしい。
「いや、そういうわけじゃ」
「じゃあすき?」
私のお腹辺りの衣類を掴んで、ロネが縋り付くような目で見上げてくる。
このロネを前にして自分の気持ちを優先できるほど、私も薄情な人間ではない。それ以前に冗談でもここで普通と答えてしまったら、ロネが泣き出してしまいそうだ。それは流石に困る。
仕方がないな……と私は観念して答えた。
「好きだよ」
それでも気恥ずかしさを隠すために、ため息交じりに言ってしまったけれど。でも、そんなことなど気にする様子もなく、ロネの顔がぱあと明るくなった。
「すき!」
「あぁ」
「ロネもアルバがすきだよ!」
ロネが満面の笑顔を浮かべて言う。
そのとき、ふいに頭の中に声が聞こえた。
――ライナもおねえちゃんだいすきだから。
「――――」
「あ! ちょうちょ!」
ロネが私から離れて、蝶々を追う。
それを目で追いながら私はリリーを呼んだ。
「リリー」
「はい」
「ロネの気が削がれている間に図書館に行ってくる」
「あ、はい。すみませんいつも」
「うん。気にしないで」
私はリリーに手をあげると、ユイさんにも軽く礼をしてその場を離れた。
それから修道院の通路を早足で歩く。
……ユイさんのところにいたときは、あの子のことはなるべく思い出さないようにしていた。
思い出したくなかったわけじゃない。忘れようとしたわけでもない。
あの子を失った悲しみが癒えたわけでも、もちろんない。
ユイさんとルナさんに心配をかけたくなかったからだ。
あの子のことを考えたら、どうしても泣きそうになってしまうから。
ルナさんがシチューを作ってくれたあのときのように、泣いてしまうから。
それがわかっていたから、あえてそう、心がけていた。
そしてそれはやってみれば案外、難しいことではなかった。
意識をそちらに向けなければ、可能だった。
それはおそらく、ユイさんとルナさんが大人だったからだろうと思う。
二人を見ていても、どうやってもあの子を連想することはないから。
でも……ロネは違う。
ロネはそうはいかない。
あいつは二人と違って子供だ。
それもあの子と同じぐらいの見た目をした――。
だからどうしてもロネの姿はあの子を連想させてしまう。
顔や性格が似ていなくとも、あの純粋さがあの子を思い出させる。
……そう。私は自分でも気づかないうちに、ロネの中にあの子を見ていたのだ。
無意識に、ロネにあの子を重ねていたのだ。
最近、胸が締めつけられていたのは、そのせいだった。
私は足を速めながら、下唇を強く噛みしめる。
歯が食い込んだ箇所から、じわりと血の味が広がる。
……たとえ過去の記憶でも、あの子の声を聞くのは久しぶりで。
だから痛みで気持ちを紛らわしでもしないと……泣いてしまいそうだった。




