大陸暦1971年――姉と妹2
「ほら、できたぞ」
食卓に食事を並べると、ずっとそばで支度の様子を見ていたライナが『待ってました』とばかりに椅子に飛び座った。そんな妹を微笑ましく思いながら、私も向かいの椅子に座る。
それから目前に手を組むと、ライナが手を組んだのを確認してからお祈りを口にした。
「母なる緑の大地の恵みと」
「ははなる、みどりの、だいちのめぐみと」
ライナがつたない感じで後に続いてくる。
「父なる青き海原の恵みに感謝を」
「ちちなる、あおき、うなばらの、めぐみにかんしゃを」
「その命を我が身の糧とし」
「そのいのちを、わが、みの、かてとし」
「いずれ星へと還りて新たな命となろう」
「いずれ、ほしへと、かえりて、あらたな、いのちとなろう」
「いただきます」
「いただきます」
ライナは最後だけ気持ち強い口調で言うと、スプーンを手にした。そして器からスープをすくって口に入れる。それを見ながら私も同じようにスープを口にする。
今日の夕食はパンと豆のスープだ。
今日の、とはいっても日々の献立にたいして変わりはない。変化があるとしたらスープに具材があるかないかの違いぐらいだ。今日は豆があるだけでも普段より豪勢と言える。
本当は毎日でも、栄養のある野菜やお肉でもスープに入れてライナに食べさせてあげたいのだけれど、私の稼ぎではそれが難しい。ただでさえ昼食を食べさせる余裕がなくて抜いている状態だ。そんな贅沢できるわけがない。
それでも私は我慢できるけれど、ライナはまだ五歳だ。
昼食がないことも、毎日同じものを食べることに対しても、お腹が空いたとか違うものが食べたいとかわがままを言っていい歳ではある。
「おねえちゃん。おいしいね」
それなのにライナは文句一つ言わない。
いつだって私が作ったものを、笑顔で美味しいと食べてくれる。
そんな健気な妹に、ときおり涙腺が緩みそうになる。
でも、この子の前で泣くわけにはいかない。
私は姉なのだから、妹を不安にさせるような顔はできない。
「あぁ。そうだな」
だから私は精一杯に笑顔をつくる。するとライナも笑ってくれる。
不甲斐ない姉で申し訳ないなといつも思っているけれど、それでもこうしてライナが笑ってくれると救われる気持ちになった。
「今日はなにして遊んだんだ」
「えとね。セイくんとアイちゃんと、いいぼーをみつけてね」
「いいぼー?」
「木のいいぼー」
「あぁ。棒ね」私は苦笑する。
「うん。ぼー。だからじめんにおえかきしたの」
「へぇ。なに描いたんだ」
「みんなのかおをかきっこした」
「上手に描けたか」
そう訊くと、ライナは落ち込むように眉尻を下げた。
「ううん。アイちゃんのほうがじょうずだった」
「アイちゃんは絵が上手なんだ」
「そうなの。じょうずなの。ライナへたなの」
「そうか? お姉ちゃんはライナの絵、好きだけどな」
「ほんと……?」ライナが上目遣いで見てくる。
「うん。去年、外で遊んでたときに描いてくれたお姉ちゃんの絵、凄く好きだった。あれ、雨で次の日には消えちゃったんだよな。残念だったな」
文字通り残念がって見せると、ライナが意気込むように言った。
「それならまたかいてあげる」
「ほんと? 嬉しいな」
そう返すと、ライナが嬉しそうに笑顔を浮かべた。
それから一生懸命、妹が食事をする姿を微笑ましく眺めながら私も食べていると、がたり、と二階から音がした。
瞬間、和やかだった食卓の空気に緊張が走る。
続いて何度か木が軋む音がしたあと、階段から男が姿を現わした。
シャツを肩から羽織った半裸姿のそいつは、欠伸をしながら後頭部を掻いている。シャツからのぞいたその右腕には、火傷や刃物などの様々な傷跡が走っていた。
「おとうさん……」
ライナが小さく呟く。
そいつは――父さんは私たちを一瞥してから厨房に行くと、そこに置いてある鍋の中を見た。
「またスープか」
そうぼやいてから、お玉でスープをすくってそのまま口をつける。それを飲み干すと、今度はそばに置いてあるパンを手に取ってかじった。
何気なくその様子を見ていたら、ふいにこちらを見た父さんと目が合った。
「……なんだその目は」
言われて気づく。無意識に父さんを睨んでいたことに。
しまった、とすぐに視線を逸らしたけど、遅かった。父さんはずかずかとそばまで寄ってくると、無造作に脇腹を蹴ってきた。大きな音を立てて、私は椅子ごと床に倒れこむ。
「おねえちゃん……!」
父さんは倒れた椅子を邪魔だとでも言うように乱暴に蹴飛ばして退けると、私のお腹を踏みつけてきた。それから何度も何度も、足を上げては下ろしてくる。その反動で肩に羽織っていたシャツが落ちて、今まで隠れていた左腕が露わになった。
左腕は、二の腕あたりまでしかなかった。
父さんは、鍛冶士だった。
壁近の鍛冶場で子供のころから下働きをしながら修行していた父さんは若くしてその腕が認められ、壁近で一番大きな鍛冶場に誘われてそこで働いていたらしい。
だけど四年前、父さんが働いていた鍛冶場で火粒子――火の魔法の源――が爆発する事故が起こった。
その際、火のそばで作業をしていた父さんは、利き腕である左腕に大やけどを負ってしまった。
その怪我は火事の鎮火と負傷者の手当てに来ていた国家魔道士が治療してくれたらしいけれど、周辺の市民の避難誘導や火事による混乱で救出作業と治療が遅れたこともあり、二の腕まで骨が溶けるぐらいにひどく焼けただれた左腕は再生しなかった。それだけでなく右腕も火傷を負っており、左腕みたいに失いはしなかったものの握力低下などの後遺症が残った。
その所為で父さんは二度と、槌を握ることができなくなった。
鍛冶は父さんにとって大切なものだったのだと、母さんは言っていた。
だから父さんは鍛冶ができなくなった憤りや悲しみを、それからときおり襲ってくる幻肢痛を、それまで家では飲むことのなかったお酒で紛らわした。そしてお酒がなくなったときには、私や母さんに暴力を振るうようになった。そんなときはいつも、母さんが庇ってくれた。
父さんが働けなくなってからは、母さんが家計を支えた。父さんには毎月、障害手当が入っていたけど、それらは全て酒代に消えてしまっていた。それだけでなく、父さんはそれ以上に酒を求めた。
だから母さんは父さんの酒代と私たちを食べさせるために、日中問わず働いた。家にいるのは午前と夕方ぐらいで、夜も夜明け前に帰ってくることが多かった。
そのお陰で父さんが職を失っても私とライナは最低限でも食べることができたし、私はそれまで通っていた幼年学校にも変わらず行くことができた。
本当は私も学校を辞めて働きたかったのだけれど、母さんが勉強は将来の役に立つからと言い張ってそれを許してくれなかった。それを渋々でも聞き入れてしまったことを今でも、後悔している。
母さんは働き過ぎたことで去年、急に倒れて、そのまま帰らぬ人となってしまったのだから……。
「やめて……!」
ライナの悲痛な叫びが、痛みから逃れるために思考にふけっていた私を呼び戻した。
遅れて腹部の痛みが蘇ってくる。それに思わず呻いていると、ライナがそばにやってきて私の腕にしがみついた。それを見て、父さんが私を踏みつけていた足を止める。それから忌々しげに顔を歪めて床に落ちたシャツを拾うと、背を向けて玄関から出て行った。
「おねえちゃん……」
倒れている私の顔を、ライナが覗き込んでくる。その顔は、今にも泣きだしてしまいそうだった。
私はライナの頬に触れて「大丈夫だ」と安心させる。
父さんが苛立って暴力を振るうのは、いつものことだ。だからこれぐらい、なんてことはない。
覗き込んでいるライナを優しく押し退けてから、私は上体を起こす。その際、お腹に痛みが走ったけれど、それを顔には出さないよう気をつける。痛そうな顔をしたら、余計にライナが心配してしまう。これ以上、この子のこんな顔は見たくない。
私は気持ち気合いを入れて立ち上がると、笑顔を作ってライナの頭を撫でた。
「ほら、冷めきる前に食べてしまおう」
ライナは不安そうな顔でこちらを見上げていたけれど、やがてうなずくと微笑んだ。