大陸暦1971年――安らかな眠り
それから少ししてユイさんは戻ってくると『お風呂に入ってきますので、ゆっくりしていてください』と言ってすぐに居間を出て行った。
そうしてまた一人になった私は、ソファに座ったまま暖炉の火を見ていた。
ぱちぱちと薪が鳴らす音を聞きながら、無心で炎の揺らめきだけを眺め続ける。そうしていると次第に頭がぼんやりとしてきた。次いで欠伸が出る。
体も温まってお腹も満たされたことで、眠くなってきたらしい。
できることならこのまま眠気に身を委ねてしまいたかった。けれど、ここで寝てしまってはユイさんに迷惑をかけてしまうかもと思い、私は必死に眠気に抗う。大げさに瞬きをしたりしながら、それに耐える。
それでも何度か欠伸が出ているところに、ユイさんがお風呂から戻ってきた。
「戻りました」
振り返って見た彼女は寝間着を着ていた。私のような上下が分れたズボンの寝間着ではない。ワンピース型の寝間着だ。それを見て、会って間もない人の寝間着姿を見るなんてなんだか変な感じだなと思った。
「眠くなりましたか」
こちらに近寄りながらユイさんは言った。どうやら顔にも眠気が出ていたらしい。
ここは別に意地を張る必要もないので、素直に「はい」とうなずいた。
「時間も時間ですし、そろそろ寝ましょうか」
そう言われて私は初めて、ずっと視界の端に映っていた壁掛け時計をまともに見た。時刻は十一時過ぎを指している。家を出たのが日暮れ前としたら、いつの間にか六時間以上も経っていたらしい。
ユイさんは居間の扉まで歩いて行くと、それを目で追っていた私に小さく手招きをしてきた。私はソファから立ち上がり、彼女のあとに付いていく。
そうして案内されたのは二階の一部屋だった。
そこは居間より半分ぐらいの広さの部屋で、室内にはベッドに机、あとは細々《こまごま》とした家具が置かれている。
「こちらで寝てください」
そうユイさんが勧めてきたベッドは大きくて白くて、見るからに清潔感に溢れていた。
こんなベッドを見るのは生まれて初めてのことで、たとえ体と衣類が綺麗だとしてもこんなところで寝るのは気後れを感じてしまう。
「私は……ええと、ソファでいいです」
本当は床でよかったのだけれど、それだと絶対に許してもらえないだろうなと思ったので、私はそう言った。
だけど、これでもユイさんは小さく首を振った。
「駄目です。それでは身体が休まりません」
「もう結構、元気になりましたから」
倦怠感があったり体が動かしにくくはあるけれど、治療前の全身の痛みに比べたらこんなのは些細なことだった。
「それは治療前に比べたらという意味でしょう?」
私が今まさに思ったことを、ユイさんがそのまま言ってくる。……どうもこの人には考えが見透かされている気がする。
「いいですかアルバ」諭すような口調でユイさんは言った。「魔法で治療を行なうと、急激に体を修復した影響でそれだけ体力も一気に奪われています。それだけでなく、貴女の体は度重なる暴力でもともと衰弱もしていました。そんな状態の体にさらに治療で負担をかけてしまっているのですから、ちゃんとベッドで身体を休めないと」
「でも、こんな立派なベッド、落ち着かないし……」
「それは申し訳ないですが我慢してください。ベッドはこれしかないので」
これしかない……? ということは、ここは客室とかそういうのではなく。
「ユイさんの部屋なんですか」
「そうです」
それってつまり、あれだ。私にここを勧めるということは、この家にはほかにベッドがないということだ。そうなってくると今度は心配事が浮かんでくる。
それが顔に出ていたのか、ユイさんは私を安心させるように言った。
「ご心配なく。シーツは代えてありますので」
いや、そういう心配は全くしていないのだけれど……。
そもそも人の寝床だから嫌とか、清潔かどうかを気にするほど、壁際の人間は潔癖症ではない。そんなこと気にしていたら壁際に住めやしない。
「そうではなくて、貴女はどこで寝るんですか」
「私はソファで寝るので、安心してください」
安心もなにも私が心配しているのはまさにそこなんだけれど……安心させるように小さく微笑みかけてきているユイさんの様子からして、どうやら彼女は私のその気持ちには全く気づいていないらしい。
つい先ほどまでは私のことを見透かしているような発言が多かったので、人の気持ちに鋭い人なのだと思っていたのだけれど、時と場合によるのだろうか。
そんなことを思いながら改めてユイさんを見ると、彼女は小さな微笑みを浮かべたまま見返してきた。
……これは、はっきり言わないとわかってもらえない気がする。
「そうでもなくて、人の寝床を奪ってまで休めないです」
言われてユイさんはかすかにはっとすると、なにかを考えるように虚空をみた。それから一時して一人、納得するようにうなずく。
「そういうことでしたら一緒に寝ましょう」
「え」
そう来ると思いもしなかった私は、意表を突かれた。
「それならいいですよね?」
ユイさんが小さく微笑む。
訊いてはいるけれど、これで解決と言わんばかりに有無を言わさない感じだった。
それには私もなにも言い返すことができず、うなずくしかなかった。
ユイさんがベッドの反対側へと回り込んだので、私も大人しくベッドに上がる。
ベッドは弾力があって驚くほどに柔らかかった。家の硬いベッドとは大違いだ。
体がベッドに沈む感覚に少し戸惑いながら、真っ白なシーツの下に入る。シーツは薄くてそんなに防寒効果があるものではない。それでもこれで問題ないのは部屋が暖かいからだろう。部屋には暖炉がないので、なにかしらの魔道具を使って温めているのかもしれない。もしくはユイさんの魔法だろうか。
それからなんとなく緊張を感じながらベッドに寝転がると、反対側からベッドに上がったユイさんが肩までシーツをかけてくれた。
「寒くないですか?」
「はい」
そう答えて不思議な気持ちになった。
ユイさんがしてくれたことは、いつも私がライナにしていたことだったからだ。
そして幼いころ、私を寝かしつけていた母さんにもされたことだった。
それをこの歳で、しかも赤の他人にされて、こそばゆいというか落ち着かないというか、それでもなんだか懐かしく、温かな気持ちになった。
私は下げていた視線を上げる。いつもの癖で内側に向けて寝転んだため、目の前にはユイさんの顔がある。これまで基本的に見上げていた顔が――目線が同じ高さにあることに少し気恥ずかしさを感じた。
私はその気持ちを誤魔化すついでに、それを訊いた。
「あの」
「はい?」
「どうして、助けてくれたのですか」
それはここに連れて来られる間、ずっと気になっていたことだった。
この人はどうして、一度会っただけの私を助けてくれたのかと。
星教の修道女としてではなく個人的に、しかも自分の家に連れてきてまでどうして。
もしかしたら普段からこういう慈悲活動を行なっている可能性もあるけれど、そうだとしても壁際には辛い境遇に置かれている子供は沢山いる。その中で私が選ばれたとしたならば、その理由が気になった。
「そうですね」ユイさんは目を伏せると言った。「星還送のときの貴女に、昔の自分の姿を重ねたからだと思います」
……そうか。
この人も、一人で見送ったのか。
私と同じような気持ちを抱いて、大切な人が――棺が燃える光景を見ていたのか。
「貴女は……どうして生きようと思ったのですか」
お母さんや家族を失ってまで、一人になってまでもどうして。
「生きなさいと、母が最後に言ったからです。たとえ」そこでユイさんは一旦、言葉を止めてから続けた。「真実から目をつぶり、感情を殺してでも」
それは……生き延びるために悲しみや憎しみの感情を殺して、叔父さんの罪を黙認したと言うことだろうか。そして、そうしたからこそユイさんは殺されずに済んだ、のだろうか。
「今も、そうなんですか」
ユイさんは小さく首を振った。
「今は友人、仕事、そして私を大切に思ってくれている人のために生きています」
友人、仕事、大切な人――。
どれも……もう自分にはないものだ。
幼年学校の友人には学校をやめてから一度も会っていないし、仕事も辞めた。
そして母さんが死んでから唯一、大切だったライナも、もういない。
……それでも、ユイさんが見つけられたというのならば。
「私にも……見つかるでしょうか」
ユイさんは小さく微笑んで、うなずいた。
「生きていればきっと」
頬に白い手が触れてくる。
その手のひらの温かさに誘われるように、私の瞼は落ちていた。
心から安心して眠れたのは、父さんが事故って以来、初めてのことだった。




