大陸暦1971年――雨の中の青空
ユイさんは小道から歩道に出ると、左を向いた。市街地へと繋がる方向だ。その先には歩道に沿うように一台の有蓋馬車が止まっている。そのそばにはユイさんの連れと同じくフード付きの黒い外套を身にまとった、三人の人間がいた。三人は円になってなにやら会話をしている。
私たちが近づくと、その三人のうち一人がこちらに顔を向けてきた。
その人の顔を見ようとして、自然とその目に視線が引き寄せられる。
それは、青だった。
雨が降る色褪せた風景の中で、その青い瞳は一際、色彩を放っている。
それ自体が光を帯びているのではないかと思うぐらいに、鮮やかな色味をしている。
それを見ながら私は、雨なのに青空がある、と思った。
青い目のその人はそばにいる二人に一言二言なにかを言うと、こちらへと歩み寄ってきた。その顔が近くなって初めて、私はその人が女性だと気づく。そして、自分の視界が狭くてぼやけていることにも今さら自覚した。
そういえば、瞼に痛みも感じる。……そうか、殴られて瞼を切って腫れているのか。
青い目の女性はどこか優雅に見える足取りでこちらにやってくると、軽く手をあげた。それはユイさんではなく、私の背後にいるユイさんの連れの女性に向けたものだった。
それから彼女はユイさんの前で立ち止まると、言った。
「見つかったのね」
芯の通った、生気に満ちた声音だった。
「えぇ。貴女がたのお陰です。ありがとう」
「ううん」
青い目の女性は微笑んで首を振ると、こちらを見た。
その目には、憐れみも同情も浮かんでいない。
きっと酷い顔をしているだろうに、それでもユイさんと同じように目を逸らすことなく、真っ直ぐに私を見据えている。
彼女は私に向けて、どことなく軽い調子で言った。
「まだ父親に、未練がある?」
未練……?
あぁ……そうか。
そうだったのか。
私はあいつに――父さんに未練があったのだ。
母さんが父さんを見棄てられなかったように、私も父さんを見棄てることができなかった。
憐れみが憎しみに変わってきていると気づきながらも、見棄てきることができなかった。
それはきっと、穏やかだったころの父さんが、まだ私の中に残っていたせいだろう。
今の父さんは本人にとっても私たちにとっても悪夢のようなもので、いつかは父さんも目が覚めて以前のように戻ってくれるかもしれないと――また私たちを愛してくれるかもしれないと、性懲りもなく淡い期待を抱いていたからだろう。
だから最初、ユイさんに心当たりを訊かれたときも、言わなかったのだ。
父さんがやったことはわかっていたのに、言えなかった。
冷たい怒りを覚えながらも、そうであってほしくないという気持ちが、心のどこかにあったから。
自分で確かめない限りは断定したくないと、思っていたから……。
……でも、全ては偽りだった。
父さんは私を――私とライナを、一度だって愛したことはなかった。
そしてライナも、やっぱり父さんが殺していた。
母さんが死んだのだって、半分以上は父さんのせいだ。
父さんが殺したようなものだ。
そんな人にもう、未練なんてあるわけがない。
私が首を振ると、青い目の女性はうなずいた。
「わかった」
それから横を抜けて、私たちが来た方向へと歩いて行く。それに馬車の近くにいた二人も、ユイさんと一緒にいた人も付いて行く。
その背を呆然と見送っていると、ユイさんが「乗ってください」と言った。
見ると彼女は馬車のそばに立っていた。馬車の扉は開いている。
馬車へと近づくとユイさんが先に乗り込んだ。そして手を差し伸べてくる。
「足下が危ないですから」
だから手を差し伸べることを許してください、と暗に言われた気がした。
馬車に乗るにはまず途中の足場に足を乗せなければならない。けれどその足場自体が結構、高い位置にある。ひょこひょこ歩くだけで精一杯のこの足では、一人で段差を登れるのかも怪しい。挑戦したところで普通に体勢を崩して倒れてしまいそうな気もする。それではユイさんに余計な迷惑をかけてしまう。なのでここは変な意地を張らず、素直に彼女の親切に甘えることにした。
ユイさんの手を取って足場に片足を乗せると、彼女は私を支えながらゆっくりと持ち上げるように引っ張る。そのお陰で体が痛みながらもなんとか馬車に乗り込むことができた。
私が座席に座ると、ユイさんは手を離して向かいに座った。するといつの間にか扉の前にいた御者が扉を閉める。そしていくらかして、馬車が走り出した。
馬車に乗るのはこれが初めてだった。だから緊張を覚えてしまう。
それも仕方ないと思う。乗合馬車とか幌だけが付いた荷馬車ならともかく、私が今乗っているのは市街地の人間が足として雇うらしい壁や屋根もある有蓋馬車なのだ。本来なら一生、私が乗れるものではない。
馬車内の内装が綺麗なのも緊張に拍車をかけた。今さらながら濡れたまま乗ってもよかったのかと心配になる。……まぁ、ユイさんも外套を身に付けたまま乗っているので、そこは大丈夫だとは思うけど。
がたがたと小さな音を立てて、馬車が進んで行く。
その度に座席から体に振動が伝わる。座席は弾力性があって座り心地はいい。振動も舗装された道を走っているからか、大きなものではない。だけど今の私の状態では、その些細な振動でも体が痛んだ。
「大丈夫ですか?」
痛みが顔に出ていたのか、ユイさんが案ずるように訊いてくる。
うなずくと彼女は「すみません。そう遠くはありませんから」と言った。そしてそれを最後に黙った。
おそらくこれも、私を気遣ってくれているのだと思った。
喋るのが辛いことを見抜いて、必要以上に話しかけないようにしているのだろう。
私としてはユイさんに訊きたいことがあったのだけれど、やっぱり顎が痛いので黙っていた。
それからお互いに無言で窓の外の景色を眺めていると、馬車は端正な住宅街に入った。
そこで馬車は次第に速度を落とすと、やがて止まった。それから少しして馬車の扉が開く。外には御者が立っていた。私たちが降りるのを邪魔しないよう脇に控えている。
ユイさんはこちらを見て先に馬車を降りると、外から手を差し伸べてきた。流石にここも素直にその手を取る。
「ありがとうございました」
私が馬車を降りると、ユイさんが御者に向けて言った。その言葉に応えるように御者は礼をすると、馬車に乗って走り出した。
それをまた呆然と見送っていると「こちらです」とユイさんが歩き出した。歩道を横断して一軒の家の前で立ち止まる。
近づくとユイさんは懐からなにかを取り出した。
鍵だ。それを玄関の鍵穴へと指す。がちゃと音がした。
「どうぞ入ってください」
ユイさんが扉を開けて、先に入るように促してきた。
鍵を持っているということは彼女の家なんだろうか――そんなことを思いながら、家の中へと足を踏み入れる。すると、すぐあとに続いたユイさんが玄関を閉めて鍵をかけた。
鍵を懐に収めた彼女は、私の首もとへと手を伸ばしてくる。留め具を外して私から外套を取ると、玄関そばのなんか出っ張ってるところにかけた。
それからユイさんも自分の外套をかけると、家の中に踏み出してこちらを見た。
一連の流れをぼんやりと眺めてしまっていた私は、我に返って彼女のあとを付いて行く。
ユイさんに通されたのは玄関から一番近い、広い部屋だった。
おそらく居間なのだろう、室内は魔灯で明るく照らされていて、暖炉には火も灯されている。暖炉前にはソファや机も置いてあり、ほかにも本棚とか小物が飾ってある。
部屋の広さにしては物が少ない感じがするけれど、それでもそのどれもが家にあるものとは比べものにならないぐらいに立派だった。
こんな場所、薄汚れた今の自分には――いや、普段の自分でも場違いに思える。




