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少女と青の聖女  作者: 連星れん
05

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18/66

大陸暦1971年――温かな白い手


 木が軋む音で、何度目かの意識を取り戻した。


「っ……」


 それに伴って、眠っていた痛覚も(よみがえ)ってくる。

 体のどこもかしこも痛い。だからどこが痛いのかわからない。

 視界には一階の天井が映っている。

 もう、見慣れた光景だ。

 私はそれをぼんやりと眺める。

 あの日――あいつに殴られて意識を失ったあと、私は夜中に目を覚ました。

 それからなにをするでもなく、私は暖炉の前に座っていた。

 そんな私を、お酒を飲んで朝方に戻ってきたあいつは、また殴った。

 私に噛まれた腕が痛むようで、その怒りを言葉と暴力でぶつけてきた。

 私はそれに抵抗することも、逃げることもしなかった。

 あいつの気が済むまで、なすがままにされていた。

 そして眠気に負けたあいつが自室に戻ったあと、そのまま意識を失っていた。

 それからというもの、あいつは私を視界に入れる度に殴るようになった。

 そして、私はその度に、気を失った。

 それを何度も繰り返した。

 今もそうだった。

 出かけようとしていたあいつに殴られて、途中で意識が途切れていたようだ。

 私は天井を眺めたまま、呼吸だけをする。

 大きく吸うとどこかしらが痛むので、なるべく小さく息を吸って吐く。それを何度か繰り返していると、ふと口の(かわ)きが気になった。(かわ)いているのは口を開けたまま、気を失っていたからだろう。

 私は口を閉じて舌などを動かし、(かわ)ききった口内を(うるお)わせようと試みた。だけど(あご)が強く痛み、すぐに断念して口を開いた。少しだけ動かした舌には、血の味だけが残った。

 口を閉じたときに鼻にも違和感を覚えた。鼻で呼吸がし辛い。おそらく鼻血が固まったりして詰まっているのだろう。

 とりあえず口をゆすぎたいなと思い、両腕に力を入れて上体を持ち上げる。すると全身に痛みが走り、それだけで心臓の鼓動と呼吸が荒くなった。

 このままでは動けそうもないので、痛みに慣れるのを待つ。

 先ほどのように小さい呼吸を心がけながら、一際(ひときわ)、痛む気がする右腕を見ようと(そで)をめくる。

 右腕は(あざ)だらけで腫れていた。

 見ると左腕も半ズボンから出た足も同じだ。

 それはまともな肌の色を捜すのが難しいぐらいの状態だった。

 こんなになってまでも生きてるなんて私って本当に丈夫なんだな、と無感動に思った。

 しばらくして心臓の鼓動が落ち着いてきたので、立ち上がろうとした。

 すると、二階からかすかに音が聞こえてきた。

 意識が戻ったときに聞こえた木が軋む音と……女性の声だ。

 どうやらあいつが帰ってきて売春婦を連れ込んでいるらしい。

 その声が聞きたくなかったので、口をゆすぐのは諦めて外に出ようと思った。

 四つん這いで壁際まで行き、壁を支えに立ち上がる。そして玄関へと歩いて行く。だけど思った以上に足が動かなくて、足を引きずりながら動く。

 そうしてなんとか玄関に辿り着くと、音を立てないようにゆっくりと扉を開けて外に出た。

 外は薄暗かった。

 見上げれば、空には暗雲がたちこめている。

 冷えた空気もどことなく、湿っている気がする。

 あの日から、時間や日付の感覚がない。

 今が何日で、何時かも正確にはわからない。

 だけど空気感から、今が夜明け前ではなく、日暮れ前だということは自然とわかった。

 私は家の外壁つたいに歩く。

 途中、お腹がぐうと鳴る。

 食事もあの日から食べていない。

 口に入れたのは切れた口をゆすぐための水ぐらいだ。

 だから体は食事を欲しているらしい。

 それでも、なにかを食べたいとは思わなかった。

 体がそれを求めていても、私がそれを必要としていないから。

 家の隅まで足を引きずって歩くと、そこに座り込んだ。

 いつもライナが仕事帰りの私を待っていた場所だ。

 そこであの子を真似るようにして膝を(かか)える。

 ここに座るのは、今が初めてじゃない。

 母さんが生きているとき、よくここでライナと二人、母さんの帰りを待っていたことがあった。

 話しをしながら、地面にお絵かきをしながら、二人で待っていた。

 たとえ寒い日でも、二人で寄り添っていれば全然、平気だった。

 帰ってきた母さんはそんな私たちの姿を見ると、必ず嬉しそうな笑顔を浮かべてくれた。

 ただいまと、私たち二人を抱きしめてくれた。

 ……母さんとライナの存在は、私の全てだった。

 生きる希望だった――意味だったんだ。

 二人さえいれば、私はなにもいらなかった。

 貧しくても、二人と一緒にいられれば、それでよかった。

 それだけでよかった。

 それなのに……母さんは、私たちのために死んでしまった。

 ライナも、守れなかった。

 私は……一人になってしまった。

 膝を(かか)えて座り込んでいる私の前をときおり、人が通り過ぎて行く。

 私の前を、足早に通り過ぎて行く。

 誰もまともにこちらを見ることはない。

 声を掛けてくる人もいない。

 貧民街である壁区(へきく)ではないとはいえ、このあたりに住む人も裕福ではない。

 可哀想だと感じていたとしても、人を救えるほど余裕がある人はいない。

 みんな自分たちの生活に手一杯で、安易によその子供に手を差し伸べたりはできない。

 ましてやあいつのことは、すでに近所に広まっている。

 酒癖が悪くて、家族に暴力を振るっていることは知られ渡っている。

 その状況での、この状態なのだ。

 誰だって面倒ごとだということは、私の様相を見るだけでわかる。

 だから見て見ぬ振りをするのも、当然のことだった。


 やがて、雨が降り出した。


 冬期の冷たい雨が、肌に落ちてくる。

 腫れて火照っている体を冷やし、体温を奪っていく。

 壁際では毎年、凍死で亡くなる人も多い。孤児や路上生活者が多いからだ。

 それでも普段の私なら、冷たい雨に打たれたとしてもなんともないだろう。

 これまで雨に降られて帰っても、一度も風邪を引いたことはないから。

 ……でも、今はどうだろうか。

 毎日殴られ、食事も取っていない今なら、流石に体は弱っているだろうか。

 このまま雨に打たれ続けたら、私でも風邪を引くだろうか。

 熱が出て、倒れてしまうだろうか。

 それとも体温が下がって、死んでしまうだろうか。

 死ねる、だろうか。

 膝に顔を埋める。

 (まぶた)を閉じる。

 雨が降り出して人通りがなくなったこともあり、耳には雨音だけが届く。

 それは不思議と、歌のように聞こえた。

 幼い日、母さんが歌ってくれた子守歌のように心が、安らぐ。

 それに耳を傾けていると、次第に眠くなってきた。

 こういう感覚はなんだか、久しぶりだ。

 最近は眠くなって寝ることがなかったから。

 あいつに殴られて、意識を失うばかりだったから。

 私はそのまどろみに身を(ゆだ)ねる。

 徐々に雨の冷たさが感じなくなっていく。

 体中の痛みも薄れていく。

 雨音が、遠のいていく。

 そうして、そこに落ちそうになっていた、そのときだった。

 雨音の中に、異質な音が混じった。

 粘着性のある音。

 靴底が泥土(でいど)を踏みしめる音。

 それに落ちかけていた意識が、引き戻される。

 感覚が呼び戻される。

 雨の冷たさが、体中の痛みが(よみがえ)る。

 耳に届く雨音が、やけに大きく感じる。

 それでも足音はそれに掻き消されることなく、鮮明に聞こえてきた。

 それは不規則な感覚で音を立てたあと、私の前で止まった。


「アルバ」


 空から、声が降ってきた。

 冷たい雨とは対照的な、人の、温かい声。

 (ひざ)に埋めていた顔を上げると、そこには白い外套(がいとう)をまとった人が立っていた。

 さめざめと雨が降る中、淡い緑色の瞳が静かにこちらを見下ろしている。

 そのフード下の顔には、見覚えがあった。

 でも、この人がここにいる理由が思い当たらない。

 どうしてこんなところにいるのか、わからない。

 状況が読み込めず呆然としていると、白い外套(がいとう)の中から手が伸びてきた。

 雨にさらされた白く綺麗な手が、頬に()れてくる。

 腫れて痛む頬が、優しく手で包みこまれる。

 その手は……驚くほどに温かかった。


「っ――――」


 ふいに涙が込み上げてくる。

 喉がしゃくりあげ、嗚咽が口から漏れ出る。

 どうして泣いているのか、自分でもわからない。

 胸に込み上げる感情が、なにかもわからない。

 それでも涙は止まらなかった。

 その人はそばに(ひざ)を折ると、泣いている私の頭を抱き寄せた。


「あのとき、無理にでも聞き出すべきでした」


 そして後悔するかのように、その人は――ユイさんはそう言った。



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