大陸暦1971年――温かな白い手
木が軋む音で、何度目かの意識を取り戻した。
「っ……」
それに伴って、眠っていた痛覚も蘇ってくる。
体のどこもかしこも痛い。だからどこが痛いのかわからない。
視界には一階の天井が映っている。
もう、見慣れた光景だ。
私はそれをぼんやりと眺める。
あの日――あいつに殴られて意識を失ったあと、私は夜中に目を覚ました。
それからなにをするでもなく、私は暖炉の前に座っていた。
そんな私を、お酒を飲んで朝方に戻ってきたあいつは、また殴った。
私に噛まれた腕が痛むようで、その怒りを言葉と暴力でぶつけてきた。
私はそれに抵抗することも、逃げることもしなかった。
あいつの気が済むまで、なすがままにされていた。
そして眠気に負けたあいつが自室に戻ったあと、そのまま意識を失っていた。
それからというもの、あいつは私を視界に入れる度に殴るようになった。
そして、私はその度に、気を失った。
それを何度も繰り返した。
今もそうだった。
出かけようとしていたあいつに殴られて、途中で意識が途切れていたようだ。
私は天井を眺めたまま、呼吸だけをする。
大きく吸うとどこかしらが痛むので、なるべく小さく息を吸って吐く。それを何度か繰り返していると、ふと口の乾きが気になった。乾いているのは口を開けたまま、気を失っていたからだろう。
私は口を閉じて舌などを動かし、乾ききった口内を潤わせようと試みた。だけど顎が強く痛み、すぐに断念して口を開いた。少しだけ動かした舌には、血の味だけが残った。
口を閉じたときに鼻にも違和感を覚えた。鼻で呼吸がし辛い。おそらく鼻血が固まったりして詰まっているのだろう。
とりあえず口をゆすぎたいなと思い、両腕に力を入れて上体を持ち上げる。すると全身に痛みが走り、それだけで心臓の鼓動と呼吸が荒くなった。
このままでは動けそうもないので、痛みに慣れるのを待つ。
先ほどのように小さい呼吸を心がけながら、一際、痛む気がする右腕を見ようと袖をめくる。
右腕は痣だらけで腫れていた。
見ると左腕も半ズボンから出た足も同じだ。
それはまともな肌の色を捜すのが難しいぐらいの状態だった。
こんなになってまでも生きてるなんて私って本当に丈夫なんだな、と無感動に思った。
しばらくして心臓の鼓動が落ち着いてきたので、立ち上がろうとした。
すると、二階からかすかに音が聞こえてきた。
意識が戻ったときに聞こえた木が軋む音と……女性の声だ。
どうやらあいつが帰ってきて売春婦を連れ込んでいるらしい。
その声が聞きたくなかったので、口をゆすぐのは諦めて外に出ようと思った。
四つん這いで壁際まで行き、壁を支えに立ち上がる。そして玄関へと歩いて行く。だけど思った以上に足が動かなくて、足を引きずりながら動く。
そうしてなんとか玄関に辿り着くと、音を立てないようにゆっくりと扉を開けて外に出た。
外は薄暗かった。
見上げれば、空には暗雲がたちこめている。
冷えた空気もどことなく、湿っている気がする。
あの日から、時間や日付の感覚がない。
今が何日で、何時かも正確にはわからない。
だけど空気感から、今が夜明け前ではなく、日暮れ前だということは自然とわかった。
私は家の外壁つたいに歩く。
途中、お腹がぐうと鳴る。
食事もあの日から食べていない。
口に入れたのは切れた口をゆすぐための水ぐらいだ。
だから体は食事を欲しているらしい。
それでも、なにかを食べたいとは思わなかった。
体がそれを求めていても、私がそれを必要としていないから。
家の隅まで足を引きずって歩くと、そこに座り込んだ。
いつもライナが仕事帰りの私を待っていた場所だ。
そこであの子を真似るようにして膝を抱える。
ここに座るのは、今が初めてじゃない。
母さんが生きているとき、よくここでライナと二人、母さんの帰りを待っていたことがあった。
話しをしながら、地面にお絵かきをしながら、二人で待っていた。
たとえ寒い日でも、二人で寄り添っていれば全然、平気だった。
帰ってきた母さんはそんな私たちの姿を見ると、必ず嬉しそうな笑顔を浮かべてくれた。
ただいまと、私たち二人を抱きしめてくれた。
……母さんとライナの存在は、私の全てだった。
生きる希望だった――意味だったんだ。
二人さえいれば、私はなにもいらなかった。
貧しくても、二人と一緒にいられれば、それでよかった。
それだけでよかった。
それなのに……母さんは、私たちのために死んでしまった。
ライナも、守れなかった。
私は……一人になってしまった。
膝を抱えて座り込んでいる私の前をときおり、人が通り過ぎて行く。
私の前を、足早に通り過ぎて行く。
誰もまともにこちらを見ることはない。
声を掛けてくる人もいない。
貧民街である壁区ではないとはいえ、このあたりに住む人も裕福ではない。
可哀想だと感じていたとしても、人を救えるほど余裕がある人はいない。
みんな自分たちの生活に手一杯で、安易によその子供に手を差し伸べたりはできない。
ましてやあいつのことは、すでに近所に広まっている。
酒癖が悪くて、家族に暴力を振るっていることは知られ渡っている。
その状況での、この状態なのだ。
誰だって面倒ごとだということは、私の様相を見るだけでわかる。
だから見て見ぬ振りをするのも、当然のことだった。
やがて、雨が降り出した。
冬期の冷たい雨が、肌に落ちてくる。
腫れて火照っている体を冷やし、体温を奪っていく。
壁際では毎年、凍死で亡くなる人も多い。孤児や路上生活者が多いからだ。
それでも普段の私なら、冷たい雨に打たれたとしてもなんともないだろう。
これまで雨に降られて帰っても、一度も風邪を引いたことはないから。
……でも、今はどうだろうか。
毎日殴られ、食事も取っていない今なら、流石に体は弱っているだろうか。
このまま雨に打たれ続けたら、私でも風邪を引くだろうか。
熱が出て、倒れてしまうだろうか。
それとも体温が下がって、死んでしまうだろうか。
死ねる、だろうか。
膝に顔を埋める。
瞼を閉じる。
雨が降り出して人通りがなくなったこともあり、耳には雨音だけが届く。
それは不思議と、歌のように聞こえた。
幼い日、母さんが歌ってくれた子守歌のように心が、安らぐ。
それに耳を傾けていると、次第に眠くなってきた。
こういう感覚はなんだか、久しぶりだ。
最近は眠くなって寝ることがなかったから。
あいつに殴られて、意識を失うばかりだったから。
私はそのまどろみに身を委ねる。
徐々に雨の冷たさが感じなくなっていく。
体中の痛みも薄れていく。
雨音が、遠のいていく。
そうして、そこに落ちそうになっていた、そのときだった。
雨音の中に、異質な音が混じった。
粘着性のある音。
靴底が泥土を踏みしめる音。
それに落ちかけていた意識が、引き戻される。
感覚が呼び戻される。
雨の冷たさが、体中の痛みが蘇る。
耳に届く雨音が、やけに大きく感じる。
それでも足音はそれに掻き消されることなく、鮮明に聞こえてきた。
それは不規則な感覚で音を立てたあと、私の前で止まった。
「アルバ」
空から、声が降ってきた。
冷たい雨とは対照的な、人の、温かい声。
膝に埋めていた顔を上げると、そこには白い外套をまとった人が立っていた。
さめざめと雨が降る中、淡い緑色の瞳が静かにこちらを見下ろしている。
そのフード下の顔には、見覚えがあった。
でも、この人がここにいる理由が思い当たらない。
どうしてこんなところにいるのか、わからない。
状況が読み込めず呆然としていると、白い外套の中から手が伸びてきた。
雨にさらされた白く綺麗な手が、頬に触れてくる。
腫れて痛む頬が、優しく手で包みこまれる。
その手は……驚くほどに温かかった。
「っ――――」
ふいに涙が込み上げてくる。
喉がしゃくりあげ、嗚咽が口から漏れ出る。
どうして泣いているのか、自分でもわからない。
胸に込み上げる感情が、なにかもわからない。
それでも涙は止まらなかった。
その人はそばに膝を折ると、泣いている私の頭を抱き寄せた。
「あのとき、無理にでも聞き出すべきでした」
そして後悔するかのように、その人は――ユイさんはそう言った。




