大陸暦1971年――生きる理由
逃げるように家から走り続けて、気づけば仕事場である倉庫に来ていた。
倉庫にはもう荷物が届いていて、男たちが忙しなく荷下ろしをしている。どうやらぼんやりとしていた間に、いつの間にか仕事の時間になっていたらしい。
普通ならば遅刻を詫びてすぐにでも仕事に取りかかるべき状況だ。でも、仕事のことなどすっかり頭になく、無意識にここに辿り着いてしまっていた今の私には、そうすることができなかった。
だから男たちが働く姿を、呆然と倉庫から少し離れた場所で眺めてしまう。するとその中の一人がこちらに気づいて、早足で近づいてきた。
「なんだお前、来てたのかよ」
監督ではない。監督のそばでよく見かける男の人だ。名前は知らない。
「今日は随分と遅か――」その人は私の姿を見るなり、訝しげに眉を寄せた。「どしたんだよそれ」
それが殴られた頬を指しているのか、血がついた衣類のことを言っているのか、わからなかった。
説明する気力がなかった私は、その言葉を無視して言った。
「監督は」
用があるわけじゃないけど、なんとなくそう口にしてしまっていた。
「あの人は今日、上に言われて別の仕事に行ってる」
そういえばたまに、監督はここにいないことがあった。
そういうときは、この人が私に日当をくれたりしていた。
「そう、ですか」
そう口にして、落胆を感じている自分に驚いた。そして気づく。
私は……期待していたのだ。それが明確になにかはわからないけれど、それでも私のことを少しでも考えてくれていた監督ならば、そのなにかをくれるのではないかと期待、していたのだ。
でも、その監督も今日は、いない。
私はどうすることもできず、どうしたいのかもわからず、俯いて黙ってしまっていると、ため息が聞こえてきた。顔を上げたら、男の人が面倒だとでも言うように眉を寄せている。
「アルバ。あの人はあんな面してるわりには女子供に甘くてよ。まぁ、なんでもあの人が責任持ってやっていることだから俺らもその辺は口をださないようにしているが、それでもよ、ここにやっかいごとだけは持ち込まないでくれ」
そう言うのは当然だと思った。だから冷たいともなんとも思わなかった。
「……はい」
「それで仕事はするのか」
訊かれて考える。
どうして働いていたんだろうと。
毎日、重すぎる荷物を持って、手や腕を痛めてまでどうして……。
……ライナのためだ。
ライナがいたから私は働いていたのだ。
あの子がいたから、痛くても辛くても耐えられたんだ。
「……いえ、今日で止めます。お世話になりましたと監督には伝えておいてください」
軽く頭を下げると、男の人は「わかった」とだけ言って背を向けた。
*
走ってきた道を、私は歩いて戻っていた。
昨夜と変わらず、すれ違う人たちは、私を見ると眉を寄せて避けて歩く。
今日は顔に殴られた痕もあるからか、憐れみや同情をその目に浮かべる人もいるけれど、それでも最後には見なかったことにしている。
それは道端に立つ女の人も同じだった。彼女たちもこちらを覗うように見ては、一様に痛ましげな表情を浮かべている。
そのことに私は内心、苦笑した。
この人たちから見ても、今の私は悲惨に見えるらしい。
体を売るまでに追い詰められた人たちから見ても――……。
……いや、違う。
そうじゃない。
この人たちにはそうするだけの理由があるのだ。
自分のために、もしくは母さんのように誰かのために、やっていることなのだ。
そうしてでも生きる理由が、あるのだ。
それならば、憐れられるのも当然だと思った。
だって私にはもう、それがないから。
私にはなにも、残ってはいないから。
そのまま歩き続けて、私は家へと辿り着いた。
なんのためらいも感じず、鍵が開いたままの玄関から中へと足を踏み入れる。するとすぐ目の前、暖炉のそばにあいつが背を向けて座っていた。
扉が開く音で気づいたのだろう、あいつは振り返ると、私を見るなり目を見開いて顔を真っ赤に染め上げた。
「てめぇ……」
低く唸るようにそう言いながら、ゆっくりと立ち上がる。
そのまま荒い息で近寄ってくると、無造作に私の胸ぐらを掴んだ。そして玄関から中へと引き込むように投げ飛ばす。
床に叩きつけられ、私は暖炉前に倒れ込んだ。そんな私をあいつは足で仰向けにして両腕を挟むようにまたがると、右腕を振り上げた。
「よくもやりやがったなぁ! クソガキがぁ……!」
そしてそう、わめき散らしながら、血が滲んだ布が巻かれた右腕を振り下ろす。
左頬に衝撃が走った。その痛みに意識が向いてすぐ、今度は右頬にも痛みが走る。
残された右腕で器用に裏拳も使いながら、何度も顔を殴ってくる。
私はもう、抵抗をしなかった。
挟まれた腕を外そうとも、なにか言い返そうとも思わなかった。
ただ、こいつの望むがままに、黙って殴られ続けた。
少しして私に抵抗する意思がないと気づいたのか、両腕を解放すると立ち上がってお腹を蹴り上げてきた。今までにない強さの蹴りに、思わず私は咳き込む。内から出てきたのか、それとも顔を殴られている間に口内が切れていたのか、口の中で血の味がした。
やっぱりこれまでは手加減していたんだな――そう、痛みによる体の熱さに反して冷めきった頭で思いながら蹴られ続ける。
それがしばらく続き、やがて気が済んだのか、それともお酒でも欲したのか、あいつは家を出て行った。
一人になり、私は横たわっている体を動かす。
お腹に痛みを覚えながら、なんとか仰向けになる。
すると視界には、一階の天井が映った。
それを見ながら、昨日のライナもこんな感じだったのかなと思った。
この光景を見ながら、痛みの中で私を待っていたのかな……と。
そのことに胸が痛むのを感じながら、私はいつの間にか気を失っていた。




