大陸暦1971年――冷たい頬
修道士に案内されて着いたのは、星教会内の治療室のようだった。
女性に言われるがままに寝台にライナを寝かせると、外で待っているようにと言われた。
ライナから離れたくない気持ちを抑えて、それに素直に従った。
女性が星教の偉い人で治療士――癒し手ならば言う通りにしておいたほうがいいと思ったからだ。折角、診てくれようとしているのに、そこで逆らったところでなんの特にもならない。
私は後ろ髪を引かれる思いで、修道士と一緒に治療室を出た。その際、修道士が通路に設えてある長椅子に座るように進めてくれたけれど、断った。ライナが中で治療を受けているのに、落ち着いて座っている気にはなれなかった。
そのあと修道士はどこかへ行ったかと思うと、大して時間を空けずにタライとタオルを手に戻ってきた。
「これで手をお拭きになってください」
タオルを一つ、私に差し出してくる。
言われて私は自分の手を見た。右手はライナの血で赤く染まっている。そして衣類の右腕から胸にかけても、その血は広く付着していた。
「ありがとうございます」
タオルを受け取ると、修道士は小さく礼をしてから治療室へと入っていった。
扉が閉まるまで中を覗ってから、タオルで右手の血を拭う。濡れた温かいタオルが、手に付着した固まりかけている血をすんなりと吸収していく。右手が肌色を取り戻していく代わりに、白かったタオルがじわじわと赤く染まっていく。
その様子を見ながら、思った。
これが全部、ライナの血なんて、信じられない。
ライナは明るくて元気な子ではあるけれど、性格は大人しかった。
私の幼いころのように走り回ったり高いところに登ったりもしなかったし、血が出るような怪我をしたこともほとんどない。あったとしても些細な擦り傷とか、なにかしらで指を少し切ったぐらいのものだ。
だから、まとまったあの子の血を見るのは、これが初めてだった。
右手が完全に肌色を取り戻すと、赤く染まったタオルを手に待った。
扉の前に立ったまま治療が終わるのを――今すぐにでも中に入ってライナのそばにいてやりたいという衝動に堪えながら待ち続けた。
そうしている内に、乱れていた呼吸も、早鐘のようになっていた心臓の鼓動も大分、平常に戻っていた。
色んなことで高ぶっていた気持ちも落ち着きを取り戻し、おそらくその影響で気づかなかったのだろう、疲労感も感じ始めた。腕や足も、長いことライナを抱いて走り続けていたことを思い出したかのように痙攣している。
それはライナを診てもらえて少しは安心したからなのかもしれない。
それからどれぐらい経っただろう。
声も足音もなんも前触れもなく、目の前の扉が開いた。続いて部屋の中から女性が現れる。
治療が終わった――そう思うが早く、なにかを言おうと口を開いた女性を押しのけて、タオルも投げ捨てて、私は部屋の中へと飛び入っていた。そしてライナが寝ている寝台へと駆け寄る。
ライナはここに連れてきたときと同じく、目をつぶっていた。
でも、その様相は先ほどよりも綺麗になっている。
こめかみまで流れ着いていた血や、髪に付着していた血も、綺麗に拭かれている。
寝台そばのサイドテーブルに、赤に染まった水が入っているタライとタオルが置かれていることから女性か修道士、どちらかが拭いてくれたのだろう。
その礼を言うのはあとにさせてもらって、私はライナに呼びかけた。
「ライナ」
ライナはなにも答えない。
「ライナ」
再度、呼びかける。だけどやっぱり反応がない。この子は寝起きがいいのに、私が声を掛けたらいつもすぐ起きるのに、瞼がぴくりとすらも動かない。
「ライナ起きろって」
どうして起きないんだよ。
「ライナ」
治療は終わったのに、治ったのに、どうして――。
「ライナ。おいライナ――」
体をゆすってライナを呼び続けていると、ふいに肩に手を置かれた。
振り返ると、先ほどの女性がそばに立っていた。
「貴女、お名前は?」
「あ……アルバ・オルティンです」
「私はユイ・レシェントと申します」
女性は――ユイさんは落ち着き払った表情と声音で名乗ると、そのままの調子でそれを、告げた。
「アルバ。落ち着いて聞いてください。貴女の妹さんはもう、亡くなっています」
それを聞いた途端、体の中で、がらがらとなにかが崩れ落ちた。
胸の中にずっとあったそれが、明確な形となって体中に広がっていく。
耳のそばで、脈がうるさいぐらいに波打っている。
胸が苦しくて、息が上手く吸えない。
「……うそ、だ」
私は強く、言い返そうとした。
なにを言ってるんだと。
そんなの嘘だと。
嘘をつくなと。
でも、不足した空気と、震える唇ではそう、かすれた声を出すのが精一杯だった。
「嘘ではありません」
そんな私にユイさんは無情とも思えるぐらいに、はっきりとそう言った。
嘘じゃ、ない……。
嘘じゃない……?
後ずさりながら、首を振る。
「……ちがう」
違う。
違う。
嘘だ。
そんなわけがない。
ライナは死んではいない。
ただ、寝ているだけなんだ。
私はライナの顔を見る。
確かに顔はいつもより青白いけれど、それは死んだからじゃない。
多く、血を流したからだ。
今起きないのも、治療に体力を使ったからだ。
……そうだ。
その通りだ。
母さんもそうだった。
父さんに怪我を負わされて施しで治療を受けたとき、母さんもそのあと半日は目が覚めなかった。
覚めなかったんだ。
今のライナもそうだ。
そうに違いない。
その考えに至って、思わず口端があがる。
そうだ。そう。
だから。
ライナは死んだわけじゃない。
死んだわけじゃ――。
「アルバ」
呼ばれて、びくりと体が跳ねた。
静かだけれど、胸を突かれるような鋭い声だった。
内に籠もっていた思考が、引き戻される。
私はライナから正面へと顔を向けた。
目の前には、まっすぐ私を見下ろしているユイさんがいる。
「嘘では、ないのです」
言い聞かせるようにそう言った彼女の目は真剣だった。
とても……嘘を言っているようには見えない。
「でも」
だとしても。
それでも。
認めることはできない。
ライナが死んだなんて、信じられるわけがない。
私はわらにもすがる思いで、ライナに手を伸ばす。
わななく手で、後頭部に触れる。
そこには自宅で倒れているライナの頭に触れたときにあった、不自然なへこみがなくなっていた。
「怪我だって、治ってる。それって、生きてるからじゃ、ないんですか」
ユイさんは小さくゆっくりと、首を横に振った。
「死後まもなくならば、体の損傷を修復することはできます」
「死後……まも、ない」
「妹さんはここに来られた時点で、もう亡くなっていました。そう、修道士様が仰っていました」
部屋の隅を見る。そこには先ほどの修道士が立っていて、私の視線に気づくと顔を歪めて目を伏せた。
「な、なら、どうして……」
どうしてあのとき、言って――。
「貴女が受け入れようとしていなかったからです」
その言葉に私は全身から力が抜けるのを感じた。
先ほどまで現れていた体の異常が、動揺していた気持ちが、すっと落ちるように消えていく。
頭が急激に冷え、冷静さを取り戻していく。
……あぁ、そうか。
そうだ。
この人の言う通りだ。
私は……知っていたんだ。
ここに着いたときに、気づいていたんだ。
ライナの呼吸が、止まっていたことに。
ライナが……死んでいたことに。
でも……受け入れられなかった。
受け入れられるわけがなかった。
ライナが死んでいるなんて。
死んだなんて……信じたくなかった。
嘘だと。違うと。まだ助かると。
そう、胸の中を埋めていた不安から、腕の中の現実から、目を逸らし続けていた。
だからきっと、あの場でそれを告げられても、耳を傾けることはしなかっただろう。
たとえ聞いたとしても、否定し続けただろう。
ライナはまだ生きていると。
治療してくださいと、言い続けただろう。
それがわかっていてこの人は一旦、私とライナを引き離したのだ。
私の気持ちを落ち着かせるために。
私に事実を受け入れられる時間を与えるために――。
「希望を持たせてしまったことは、申し訳なく思います」
ユイさんは小さく頭を下げた。その表情は変わらず落ち着いている。見る限りでは修道士のように憐れみのようなものは一切、浮かんでいない。けれど彼女の言葉が上辺だけでなく、心からそう思っているのだということは不思議と伝わってきた。
なにか言葉を返すべきなのはわかっていた。
この人は私のことを考えて、責められるのを覚悟でそれをしてくれたのだから。
でも、私はなにも返すことができなかった。
ライナが死んだという衝撃が大きすぎて……なにも考えられなかった。
ただ呆然と、ライナのそばに立ってあの子の顔を眺めていることしかできなかった。
「アルバ」
しばらくして、ユイさんが呼んだ。
体も気持ちを重く、返事をする気も、顔を向ける気にもなれなかった。けれど無視をすることもできなかったので、目だけを横に立っている彼女へと動かした。
それで聞く気はあると受け取ってもらえたのだろう、ユイさんは言った。
「一つ教えてください。妹さんは誰にこのようなことを」
「……え」
その問いは、私にとって意外なものだった。
思わず、ユイさんに顔を向ける。
「誰にって……家に帰ったら倒れてて、頭をぶつけたみたいで」
そう答えると、ユイさんは初めて表情に変化を見せた。
それは小さなものだったけれど、確かに眉を寄せている。
まるで、私の言ったことが、間違いであるかのように――。
「違う、んですか」
「いえ、なにか硬いもので頭を強く打ったことは確かです。ですが、それとは別に腹部も酷く腫れあがっていました。それは転げたり打ったりした程度でなるものではありません」
それって……つまり。
「おそらく強く殴られたか、蹴られたのではないかと」
殴られた――蹴られた――?
その単語に、全身に悪寒のようなものが走った。
脳裏に、顔が浮かんでくる。
そんな……まさか。
いや、でも、いったい、どうして。
私が、いなかったから……?
だからその代わりに……?
でも、だからといって――。
そこで私は思い至って、ライナに向き直った。
そして胸元を見る。
そこには首元からさげられた小さな袋が、変わらずある。
そう、この子がいつも肌身離さず身に付けている母さんの指輪を入れていた袋が――。
私は袋に手を伸ばし、慌てて中を探った。
そこに指輪は……なかった。
それで全てを、理解した。
「心当たりがあるのでしたら、私から守備隊に話を――」
「ありません」
私はライナを見たまま、反射的にそう答えていた。
その声は、自分でも分かるぐらいに冷めていた。
そしてなんでそう答えたのか……自分でもわからなかった。
しばしの沈黙のあと、小さく息を吸う音が聞こえた。
「わかりました」ユイさんが言った。「妹さんを星還します。よろしいですね?」
星還……今から……?
「でも、お金が……」
星還とは星教会で死んだ人間を魔法で火葬することだ。
そして個人で星還送――葬式をするにはそれなりにお金がかかる。
だからあまり裕福でない壁近では寄付と、それぞれお金を持ち合って合同で星還送をするのが普通だった。まとめて火葬したほうが一人当たりの費用が安く済むためだ。
もちろんできることならライナをすぐに送ってあげたい。
星教の教えによれば、星還が遅いほど魂が穢れ、星還が早いほど魂が穢れることなく来世へと繋がるらしいから。
「心配いりません」ユイさんは緩やかに首を振った。「誰か呼ぶ人はいますか?」
星還送には基本的に親族が参列するものだけれど……。
「……いえ」
「ご両親は」
「母はいません。父は……病気なので来られません」
「そうですか。それでは準備をして頂きますので、少し待っていてください」
そうユイさんは言うと、小さく礼をしてから部屋の隅にいた修道士と一緒に部屋を出て行った。
部屋には私とライナの二人だけになる。
ユイさんの言う『心配いらない』がどういう意味かはわからない。でも、ライナをすぐに送ってあげられるのならばそれに甘えさせてもらおうと思った。
もしかしたら後払いが可能なだけかもしれないけれど、それはそれで構わない。
それができるのならば、最初からそうするつもりだったから。
母さんのときは、それを考えることすらもできなかったから。
ライナを食べさせるために、余計な支払いを増やすわけにはいかなかったから。……でも今はもう、そんな心配をする必要はない。
私は寝台を見る。
ライナはまっすぐ姿勢良く、寝台に横たわっている。
その顔は顔色を除けば、寝ているときとなんら変わりがない。
穏やかな表情をしている、ようにも見える。
寝台に片手をついて、空いた手でライナの頬に触れる。
その頬は……冷たかった。
寒空の下、私を待っていたときのように冷え切っている。
だからなのか、まだ、実感が湧かない。
こうして温めてやれば、瞼を開けるのではないか。
お姉ちゃんの手、温かいね、と言って笑顔を浮かべてくれるのではないかと思ってしまう。
……そんなこと、あるわけないのに。
ライナはもう……死んでいるのに。
もう二度と目を覚ますことも、私に笑いかけてくれることもないのに。
そう心ではわかっていても、それでも私はその冷たい頬に、いつまでも触れていた。




