大陸暦1971年――青の聖女
治療院はいつもライナを預ける空き地の近く、商店街の中にあった。
そこまでライナを抱きかかえて走ってきた私は、治療院の扉を肩で押し開けて中へと入る。
治療院を入ってすぐある待合室には、夕方のこの時間でも多くの人が待っていた。
年齢は子供からお年寄りまでと様々であり、その誰もが一様に、こちらを見て痛ましそうな顔を浮かべている。
そのことに居心地の悪さを感じながら待合室を進むと丁度、奥の扉から人が出てきた。
白い衣服を身に付けた女性だ。以前にここの治療士は男性だと聞いたことがあるので、おそらく格好からしてこの女性は治療士の助手だろう。
女性はこちらまでやってきて腕に抱えているライナを見ると、ここにいる人たちと全く同じ表情を浮かべた。
「頭をぶつけたみたいで、診てもらえませんか」
そう言うと、女性は益々、表情を曇らせた。
「すみません。治療は予約順でして……」
そう。国から補助が出ている、治療費が比較的安価の壁近の治療院は基本的に予約制だった。それには症状の大小は関係なく、治療士は予約順に患者を治療している。
それはお金で優劣がつかない分、ある意味、平等ではあった。けれど――……。
私は視線だけ動かして待合室にいる人たちを軽く見渡す。
今ここで治療を待っている人たちは、包帯をしていたりそれに血が滲んでいる人もいるけれど、どの人も目に力があって意識がはっきりとしている。それに比べてライナは意識を失ったようで、先ほどから目を開けていない。
どう見たってここにいる人たちはライナより緊急性が高いようには見えない。
「でも、こんなに血が出ていて――」
「ごめんなさい。決まりだから」
私から目を背けるように女性は視線を下ろすと、礼をして扉の中へと戻って行った。
「――」
胸の中に色々な感情が湧き上がってくる。
それに歯を食いしばって耐えながら、私は待合室にいる人たちを見た。
そこにいる人たちは私と目が合うと、誰もが目を逸らした。順番を譲ろうとしてくれる人なんて一人も、いない。
その気持ちは……理解できなくもない。
やっと回ってきた順番なのだ。私だってライナのために順番を待っている立場なら同じ反応をするかもしれない。
でも、だとしても。
誰一人助けようとしてくれないここの人たちを、融通をきかしてくれなかった助手の女性を、私は、憎いと思ってしまった。
私は治療院を出て走り出す。
治療院が駄目ならもう、頼れるところは一つしかない。
でも、今日はその日ではない。
それにその場所は壁近と市街地の境目にあり、ここから距離もある。だから治療院に行ったのに……それでも可能性があるのならば、行くしかない。
そこには一人で行ったことがないので記憶を頼りに走る。
家からずっと走りっぱなしのせいで、だんだんと足が痛くなってくる。
耳の奥までうるさいぐらいに鼓動が聞こえる。
呼吸も苦しい。
だけど立ち止まるわけにはいかない。
腕の中にある温もりは、どんどん失われている。
腕に感じるぬめりが強くなっている。
それがライナの頭から流れる血だということに、気づかない振りをする。
胸の中に溜まり続けるそれを、見ない振りをする。
大丈夫だ、大丈夫――そう自分に言い聞かせて走り続ける。
そうして辿り着いたのは、何度か母さんに連れられて来たことがある星教会だった。
息を切らしながら開かれている大きな扉から中に入る。
その際、扉の両脇に立つ門衛の星堂騎士がこちらを見たけれど、戸惑う様子を見せるだけで引き留めてはこなかった。
星教会の中には一般の人が誰もいなかった。
それが人々の信仰心の薄れからなのか、礼拝の時間が過ぎているからなのかはわからない。
私は真ん中の通路を歩く。
一時間以上、走り続けたこともあり一度、立ち止まった足はまともに動いてくれない。だから少し足を引きずるようにしながら前に進む。
教会の奥の祭壇には修道士が一人、背を向けて立っていた。おそらく足を床に引きずる音で気づいたのだろう、修道士は振り返ると早足で近づいてきた。
「どうされました――」
そして近くで私たちを見て、言葉に詰まるように口をつぐんだ。
「お願いです。この子を治療してください」
修道士は困ったように眉を寄せた。
「お願いします……! 寄付金はあとで必ず払いますから……!」
星教会は貧しい人たちに向けて、無料で治療したり食べものを与えるという慈悲活動をしている。
だけどそれは施しという決められた日だけであり、常日頃からそういうことをしているわけではない。そのことは知っているし、そして今日がその日ではないことも知っている。それでもお金さえ――寄付さえすれば信者を治療してくれると聞いたことがあった。
それが事実かどうかは私にはわからない。
敬虔なる信者であった母さんもそんなことまでは教えてくれなかったから。
でも、それ自体が嘘だとしても、星教に癒し手と呼ばれる治療士がいるのだけは確かだ。
ここに怪我を治せる人は、いるのだ。
実在するのだ。
それならば今はもう、それに賭けるしかない。
たとえ、そのために大金が必要だとしても。
ライナさえ助かるのならば、どうにかしてみせる。
体を売ってでも、払う。
もう覚悟なんてする必要もない。
この子が生きてさえくれれば、私はなんだってする。
「ですが……」
「お願いします……!」
私は両膝をついて頭を下げた。
「お願いします……! 助けてください……!」
そして修道士に――神様にお願いし続けた。
もういなくなったと言われている、お隠れになったという二神に祈った。
私は母さんほど真面目な信者じゃない。
母さんに倣ってそれなりにお祈りはしていたけれど、そこまで心から祈ったことはない。
もとより神様だってそんなに信じてはいない。
だから今、都合のいいことをしている自覚はある。
それは十分にわかっている。
それでも――お願いします。
本当に神様がいるのならば。
ライナを助けてください。
ライナを救ってください。
そのためなら私はなんでもします。
この子を守るために命をあげることはできないけれど。
代わりに手でも足でも、なんだって差し上げます。
だからライナを治してください。
お願いだからライナを……私から奪わないで――。
「どうなされたのですか?」
背後から声が聞こえた。
それは今まで聞いたことがない、澄んだ、綺麗な声だった。
私は下げていた頭を上げて振り向く。
星教会の入口――扉の形に切り抜かれた夜の中に、白い人影が立っていた。
「……レシェント様?」修道士が驚くように言った。「どうしてこちらに」
「所用で近くにきたものですから、教会長にご挨拶にと……」
白い人影はこちらに歩み寄りながらそう答えると、視線を落とした。
静かさを湛えた、淡い緑色の瞳と目が合う。
声でもう気づいてはいたけれど、白い人影は女性だった。
年齢はそばにいる修道士よりも明らかに若い。
容姿だけをみれば十代のようにも見えるし、その落ち着き払った表情や雰囲気からは二十代のようにも見える。
服装はローブのような白が基調のものを身にまとっており、長くまっすぐな淡い金髪も相まって全体的に白い印象を受ける。最初、白い人影だと感じたのもそのせいだろう。
その服は星教の一般的な修道女が身に付けているものと形は似ていた。けれど、所々に細工が多く施されており意匠も全然違う。
そして女性の首元からは星教の象徴、星十字架――星架がさがっていた。
それは単純な作りである一般信者の星架とは違い、細工が凝っている。星教の関係者のみが身に付けることが許されている特別な星架だ。
そのことからこの女性が星教の関係者であり、さらには格好からして星教でも位の高い人物だということは、以前にここの教会長を見たことがあるので想像がついた。
私は女性へと向き直ると言った。
「お願いします! 妹を助けてください! 必要なお金はあとで必ず払いますから……!」
女性はなにも答えなかった。
ただ静かに私たちを見下ろしている。
その顔には治療院にいた人たちや修道士のような感情はなにも浮かんでいない。まるで無感情のようにも見える。
だけどそこに、冷たさのような印象は受けなかった。
むしろこれまでの誰よりも私たちのことを見てくれているような、そんな感じがする。
やがて女性は滑らかな動作で目の前に両膝をつくと、手につけていた白手袋を外した。そして手を伸ばしてくる。
診てくれようとしているのだと気づき、私は慌てて抱えているライナを女性に見せるように並行に持った。そうしたら自ずとライナの顔が目に入った。
久々に見たライナの顔はどこか、青白く見えた。
こめかみには私が抱っこする形でかかえていたせいで、後頭部から血が流れてきている。
伸ばされた女性の白い手が、ライナの口許に触れた。それから指で軽く下唇を押さえる。それにより、少し口が開いて中が見えた。ライナの口の中には少し血がたまっていた。
苦しくないだろうかと心配になっていると、今度は衣類の上からライナのお腹に触った。
どうして血を流している頭ではなくお腹を……?
そう不思議に思っている間に女性がすっと立ち上がった。そして修道士を見る。
「すみません。部屋を一つ、お貸し頂けないでしょうか」
「それは、はい。構いませんが……」
修道士はちらりとこちらを見てから、また女性を見る。
「お願いします」
なにか言いたげにしている修道士を遮るように、女性は静かにそう言った。




