航空史③
世界恐慌の波が吹き荒れていた昭和初期、日本の航空機開発は、ライセンス生産(=カンニング生産)がほとんどであった。技術開発の体力は乏しく、とても航空機開発先進国とは言えない状況であった。
だから零戦(7試艦戦)を全て国産でやると発表した時は本当に衝撃的であった。また7試艦戦は、単一の企業に任せるのではなく、競争試作にした。そうする事で、よりクオリティの高い戦闘機を作ろうとした。
「優勝劣敗、適者生存」の考えの元、優秀な機体を開発した企業だけが生き残った。7試艦戦の大きな特徴は有支柱低翼だけではない。逆ガル型と言うスタイルが採用された事も大きい。ガル(gull)とはカモメの事で、つまり逆ガル型とは片仮名のへの字を二つ横に繋いだカモメの飛ぶ姿を逆さにした形で、丁度ローマ字のWを少し傾けた様な形であった。
当時は、主翼の胴体への取り付け部分の強度の持たせ方が、金属材料の面でも工作面でも未熟であったから、胴体から支柱や張り線を伸ばして柱を支えるのが、一般的なやり方であった。ただ支柱も張り線も使わずに、翼の付け根だけで支える、所謂片持ち式と呼ばれる手法は、戦闘機には向かない。
その為、主流は羽布張りと呼ばれる、丈夫な麻布を外板代わりに張る方法が主流であった。それでも、有支柱低翼と逆ガル型にこだわったのは、日本の航空機開発の現状を変えたい為であった。これまで通りのやり方では通用しない。限界突破のキテレツな方法を採用した。
だからこそ、これまでの常識にとらわれない、土台無理だとされた事であっても、あえて挑戦せざるを得なかった。それは航空機開発の夜明けとも言える時代の幕開けを意味していた。