航空史②
高速は出せなくとも、旋回性能に優れていて小回りがきく空中戦に強い、格闘戦に向いているのが複葉機を主流にさせている理由であった。
これに対し単葉機は、小回りはあまりきかないが、速度を出す事が出来る利点を持っており、スピードのある戦闘機を作る上では、欠かせない要素であったと言える。
だが、この時代における低翼単葉の技術は充分ではなく、それに加えて低翼だと、視界が悪いからと言う理由でパイロットから嫌われていた。特に艦上戦闘機の場合は着艦が難しくなると言うデメリットもあった。
そこで7試艦戦を作る上において、まずは実物大木型模型を作り、模型で試行錯誤した。有支柱低翼でも、無理の無い設計を追求する為である。日本の航空技術開発史に名を残す海軍の松山茂中将や、川西航空機の川西幸三、中島飛行機の中島知久平、渋谷米太郎や、英国のスミスやハイランド・サットン、ジェータンコンクフォートと言った、世界の航空機開発をリードしていた者達でさえ、この様なチャレンジはしていなかった。
この当時においては、海軍機関学校(横須賀)を卒業した様な機関将校が直接戦闘機開発を行う様な事は無く、そう言う意味では民間技術に頼らざるを得なかったのかもしれない。日進月歩の航空機開発ではあったが、この当時は機械工学科や航空学科の数自体が少なく、大学進学率も今より遥かに低いものであった。と言う背景が航空機開発の民間委託に繋がった。
日本の航空機開発が米英に比べて貧弱なものになった一つの理由として、こうした教育環境の整備が遅れた事も、要因と言えるかもしれない。優秀な設計者がいなければ、当然の事ながら優秀で力強い機体も生まれてこない。