航空史①
日本が航空機を正式に運用し始めのは、日露戦争後の大正時代からであった。その当時は複葉機が主流だったのは、前に述べた。
日本海軍史上初の空戦における戦死者となった小谷進大尉が亡くなったのも、この頃の話である。
海軍に航空厰(後の海軍航空技術厰)が出来たのは、昭和7年4月1日の事であり、この時代の日本人には、航空機後進国意識が根強く残っていた。海軍航空本部強力トリオ(安東昌喬中将、山本五十六少将、前原謙治少将)が航空技術自立計画を打ち出したのも同時期である。
海軍は航空機開発において、優秀な民間技術を積極活用する事になるが、当時の日本における航空機開発をリードしていたのは、三菱航空機、中島飛行機、川西航空機、愛知時計電機といった数社しかなかった。
今風に言えば、カルテルやトラストといった状況だろう。海軍はそれでも、1000機を配備目標に掲げ続けた。昭和6年に17隊272機しかなかった航空機後進国が、途方もない目標に向かっていたのは確かである。
海軍内部でも意見は割れていた。未だ根強い大艦巨砲主義派と、航空戦力や潜水艦と言った最新鋭の技術を伸ばしたい派の真っ二つに分かれていた。そんな中で持ち上がったのが、7試計画である。正式名称は、昭和7年度海軍用飛行機試作計画と言うもので、後にこの7試艦戦が零戦の下地となっていく事になるのである。