製作サイドの実状
日本初の艦上戦闘機である10年式艦上戦闘機は、(大正10年)に製造された。この頃の三菱重工業名古屋航空機製作所は、昭和3年に独立を果たし、19万平方メートルの、広い敷地の内東側の半分を工場が占め、西側海よりの約半分を飛行場として使う為、草原になっていた。
だが、滑走距離が短く速度も遅い複葉機の時代であった為、社用連絡機や試作機はもとより、軍に納める量産機でさえ、草原の飛行場から飛び立つと言う製作サイドの実状があった。
その後、何とか90式艦戦を生み出す事に成功するのだが、150ノット(時速278㎞)3000メートルまでの上昇速度5分45秒と言うスペックは、その後に要求される零戦のスペック(高度3000メートルで180~200ノット約時速335~370㎞、上昇力高度3000メートルまで4分以内)には、遠く及ばなかったと言える。
機体を設計する部署も、三菱重工業名古屋製作所にはあった。それが機体設計課である。機体設計課の入る建物は、工場敷地内にあったが、当時は木造平屋の細長い建物であった。床板がギシギシと軋む粗末な作りで、建物内には海軍機の第一設計室と陸軍機の第二設計室に分かれていた。両室とも、中央の通路を挟んで両側に製図板付きの机が、整然と並んでいた。
このように決して航空機製作の実状が恵まれていた訳では無かった。だが、逆にこうした実状があったにせよ、努力を重ね名機零戦の誕生に繋げた。この段階では、まだ零戦は設計図すら書かれていなかったが、この三菱重工業名古屋製作所で、稀代の名機零戦が誕生するのは、そう遠くない未来の事であった。