突然の赤紙
空里天斗に突然の赤紙が来たのは、太平洋戦争開始から約3年が経過した1944年12月の事であった。20代30代の青年民間人でも、年齢に関係なく赤紙は来た。
空里天斗が召集されたのは海軍であった。航空機の設計者と言う事もあってか、零戦のパイロットを任された。
この時期の日本海軍は、爆弾を積んで敵艦隊に突っ込む神風特別攻撃隊を編成し、運用していた。敗色濃厚な時代。空里天斗には、一騎当千の無双者が求められたのではなく、只の駒合わせに過ぎなかった。
同時期、空里の同僚の多くが、赤紙によって戦地に送られて行く事になる。既に満州に渡った先輩の何人かは戦死しており、いつ自分も呼ばれるか覚悟してはいた。国の為に死ぬ事は、何とも思っておらず、大日本帝国の国民ならば、生への執着など捨てているつもりだった。
それでも空里も人間である。死への恐怖は心のどこかにあった。それに兵役経験の無い人間がどこまで軍の役に立てるかは、疑問だったがそんな事を言っていられる様な御時世でもない。この時期の赤紙は、所謂片道切符と言う名の如く死への乗車券に等しかった。
とにかく与えられた条件の中で、結果を出す事しか求められてはいない。あれこれ考えるよりも、先に敵を倒す事に集中するしかない。
自分はエンジニアだから、赤紙は来ない。とタカをくくっていたのも事実だ。そんな幻想が儚くも崩れて行ったが、後戻りは出来ない。非国民呼ばわりされる生を選ぶくらいなら、潔く戦死した方が良い。その位の覚悟で、生き残るしか未来を掴む事は出来ない。そんな時代であった。




