零戦を産んだ背景
大正から昭和の初期にかけての日本の飛行機は、ほとんどが外国製の設計、つまり外国の模倣であった。
大日本帝国は、わりと早い時期から軍に飛行機を保有していたが、自国の設計した飛行機を一機も持っていなかった為に、航空機開発においては、後進国意識が強くあった。
日本海軍初の本格的な攻撃機である13式艦攻も、三菱が英国から招いたスミス技師に設計を委託して大正13年に完成したものである。昭和8年迄に約420機が生産されており、この時代の日本の空を守るメインスタッフとなった。
空中戦において小谷進大尉が日本海軍初の戦死者となったのもこの頃である。
昭和3年に作られた3式艦上戦闘機も米国のF-4B一型には性能的に、全く敵わなかった。外国人の設計による機体の製造では世界の一等国にはのしあがれない。そんな状況であった。
折しも航空機の有用性が叫ばれたのもこの時代である。日本や米国や英国はこぞって空母を揃え、優秀な空母艦載機の開発競争に明け暮れた。当然、日本も"純国産"の優秀な機体を世に送り出したい。そんな気持ちが強くなるのも無理はない。
零戦を生んだ背景には、欧米列強との強烈な生存競争があった事は言うまでもない。だが、海軍内部では大艦巨砲主義の方が根強く、今一つ航空機の有用性が認知されているとは言えなかった。とは言え、純国産にこだわるあまり、コストが膨らんでしまっては、意味がない。コストだけではなく、この時代は"純国産の航空機"を手にする事が我々現代人の知る以上の、難題であり想像を絶する苦難が待っていた事は言うまでもない事であった。