空里天斗の入社
空里天斗は、この物語の主人公であり、ようやくの登場であった。
彼は明治36年に名古屋で生まれた。東京帝国大学(後の東京大学)工学部航空学科出身の所謂航空エリートであった。大正10年に同大同学科を首席で卒業し、記念品として銀時計を拝受していた。その後は、三菱重工業名古屋航空機製作所の機体設計課に配属される事になる。
当時の同社は陸軍機と海軍機のグループに分かれており、特定の機種の設計を任された技師は、設計主務者と呼ばれていた。入社5年目に28歳で結婚。名古屋港に面した埋め立て地にあった三菱重工業自動車工業や、三菱重工業名古屋航空機製作所の工場施設がひしめいていた。この埋め立て地は、三菱造船が神戸の潜水艦建造工場を移す目的で、大正8年に買収したものであった。
しかし、潜水艦建造に適さない事が、後に分かった為に翌年の大正9年に、三菱造船の内燃機部門を独立させる形で、航空機と自動車の新事業を目指す三菱内燃機製造会社が設立された。
そんな頃に作られたのが10年式艦戦であった。大正10年、日本初の艦上戦闘機として、昭和3年に独立した三菱内燃機製造会社が開発に取り組んだ戦闘機である。19万平方メートルの広い敷地の内、東側半分が工場で占められ、西側海より半分が、飛行場として使うため、草原になっていた。
滑走距離は短く、速度も遅い複葉機の時代であったから、社用連絡機や試作機はもとより、軍に引き渡す量産機でさえ、草原の飛行場から飛び立っている始末であった。
天斗が活躍し始めたこの大正時代中期はまだ、一般国民はおろか、それを扱う陸海軍内においても、航空機の重要性は、それほどのウェイトを占めていた訳ではない。航空機はせいぜい援護射撃程度のものてあると言う認識が一般的であった。




