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S博士とサンタクロース

作者: 猫ヌリカベ

 

 痛烈な罵詈雑言を受けて育ったS博士は、世の人間が使う言語という暴力に底知れぬ憎悪を煮やしている。研究所で独り佇む彼の握る大袋には、頭脳を搾り出して生み出された毒薬が大量に入っていた。その毒薬に触れた者は、ものの数時間経たぬうちに言葉が話せなくなる。

 博士は、満足だった。自分を虐げてきた人々が慌てふためく様を想像し、卑しい笑みを浮かべる。


 しかし彼には悩みがあった。それは、この粉を如何に蔓延されるかだ。町へばら撒こうにも、不都合な事に外は大雪である。

 頭を捻っていた博士の後ろで、重い足音が鳴った。ドアは閉めた筈だが――と博士は振り返る。そこには、赤い服に全身を包装し、立派な白髭を蓄え、巨大な袋を担いだ老人が立っていた。


「や、やい、貴様、どこのどいつだ。変な格好しやがって。ん、そういえば今日はクリスマスイブじゃないか。全く、サンタクロースの真似事か畜生め」


 博士の言葉遣いは酷なものだったが、それは幼い頃から受けた罵声の作用である。散々言われた老人は、思いがけず、穏やかな笑みを浮かべて答えた。


「ご名答。確かに儂はサンタクロースだ。しかし、不覚にも住所を間違えたらしい。此処には子供の気配が全くせん。では、失敬」

 

 サンタと名乗った老人は、一つ会釈をして帰る素振りを見せた。しかし、博士は咄嗟に引き止める。


「おい待て、本当にあんたサンタクロースか? 気の狂った爺さん……じゃなさそうだな、この吹雪を移動できる訳がない。おや、それにどこから入ってきやがった。ドアはしっかり鍵を閉めたんだが」

「吹雪など全く関係ない。儂はサンタだぞ。鍵など煙突があれば関係ない。儂はサンタだぞ。自然現象や人間の稚拙なセキュリティで間誤付くと思わないでくれたまえ」


 老人は胸を張って言い放った。これでは博士も信じずにはいられない。そもそもサンタを信じない観念の持ち主でもなかった。むしろ、自分を虐待してきた世間よりもそのような夢物語に縋りたい精神を秘めていたので、博士はその老人の存在をサンタと認識することに、然程抵抗がなかったのである。しかも、棚から牡丹餅、サンタと言えばトナカイと空を駆け抜けることで有名である。空から毒薬を撒くには打って付けの人物だった。

 博士は固唾を飲み、恐る恐る口を開いた。


「なあ、あんたがサンタというなら、一つ頼みごとがある。いや、プレゼントが欲しい訳ではない。ただ、町中に、この袋に入った粉をばら撒いて欲しいのだ」

「ふむ、それはお安い御用だ。失敬ついでに頼まれよう。時に、その粉というのは何なのだ?」

「こ、この粉はだな……」どもりつつ、博士は精一杯平静を装って言った。「そう、人々を幸せにする薬なのだ。この粉を降らせば、町はたちまち繁栄し、皆が喜び合い、非現実的なほど幸運が訪れるような空間が作られる。折角のクリスマスイブだが、生憎俺は、この天気じゃ動けん。どうか、この町の為、人々の笑顔の為、この薬を撒いてくれはしないだろうか」


 博士の大ぼらを耳にした瞬間、サンタは飛びっきりの笑みを咲かせた。目を燦然と輝かせ、博士から毒薬の袋を受け取り、言い放つ。


「なるほど感動した! 嗚呼、貴方はなんと善いお方だろうか! 近頃の若輩サンタ共より幾倍も慈悲が深いではないか! ようし任せてくれ、この儂は、歳のせいで今年が最後の仕事なのだ。こうなったら、精力果てるまで貴方の薬をばら撒いてみせる!」


 そう言って、老人のサンタは研究所の暖炉へ向かい、目にも止まらぬ速さで煙突から飛び出していった。どこか遠い空の彼方から、博士へサンタの歓声が届く。


「最後の仕事に素晴らしい願いをありがとう! メリー・クリスマス!」


 研究所で反響を繰り返し、やがてその声も消え去っていった。独り残された博士は、あの老人が本物だったことをもう一度信じ、窓から外を見るのだった。未だ吹き荒れる大雪の中、微かに大きな影が見える。しかし、それは直ぐに見えなくなった。

 博士の胸に、罪悪感から生まれた痛みなど微塵もない。彼の頭には、明朝に騒ぐ町民の姿しかなかった。つい、不敵な笑みが零れ落ちる。

 博士は呟いた。


「サンタの野郎、自分が人々を苦しめることになろうとは思いもしないだろう。愚か者め。ただ、毒薬を撒いてくれることに関しては感謝するばかりだな」


 ふと、博士は部屋の片隅に高級葡萄酒が置いてあるのに気が付いた。サンタの計らいだろう。思いがけぬ幸運の数々に驚きつつ、博士はその瓶を手に取った。


「ふん、実に有り難い幸せだ。明日、研究の成功を見届けた後に頂くとしよう。いやあ、楽しみだ。実に、旨い話だ」


 外では、吹雪の勢力が増し続けていた。

 博士はメリー・クリスマスと呟き、寝床に着いた。



 翌日、博士は小五月蝿いざわめきによって目覚めた。昨夜の天候は嘘のように晴れ、降り注ぐ日射は積雪を目映く輝かせている。そして研究所の前に在るのは、町民の人だかりだ。

 博士は窓からその光景を見た時、背筋を凍らせた。人々に毒薬の効能が出たとして、その犯人を何らかの形で見破られたと思ったからだ。まず恨んだのは、あのサンタクロースである。

 博士はどうしたものかと室内を歩き回りつつ、サンタクロースへ執拗に悵恨を浴びせた。


「嘆かわしい、あの老いぼれサンタめ。糞、ヘマしやがって。今度来たらただじゃ帰さん。……しかし、あの人間共はどういうことだ。俺の仕業と分かったのなら、我武者羅にでもけしかければよいだろうに」


 博士はもう一度、窓から研究所の前を一瞥した。数十人の町人が集まっている。驚くことに、各々は一向に怒りの顔を表さず、一様に朗らかな笑顔を見せていた。これはおかしいと、博士は堪らずに外へ出た。


「こ、これはこれは、よお町の奴等、揃ってどうしたんだ。俺に何か用があるってのか」


 姿を現した博士へ最初に向かったのは、一人の女の子だった。その子は眩しい笑顔を光らせ、何も言わずに、博士へ手紙を渡した。博士は困惑して冷や汗をかき始めていたが、恐る恐る開封する。

 それは、このような内容であった。


『S博士へ

 素晴らしいクリスマスをありがとうございました。お礼が言いたいのですが、町の皆はなぜか声が出なくなってしまったので、手紙でお礼を言いますね。メリー・クリスマス!』


 この手紙を読んだ時、博士は意味が全く分からなかった。理解できたのは、毒薬の成功だけである。しかし、何故感謝を述べられるのかが到底分からない。分からないまま、博士は次々に町の者からお礼を受け取った。お辞儀に、手紙に、食べ物に、満面の笑顔。事情は分からなかったか、博士は、何だか幸せな気持ちを味わった。


 お礼に来た最後の人は、小さな男の子だった。彼は博士に、電車の模型をプレゼントした。その模型には、『メリー・クリスマス By S博士』と書いてある紙が、貼ってあった。その張り紙を見た瞬間、博士は全てに合点がいった。二つの出来事を、直感的に理解したのだ。

まず一つ目は、男の子がくれた模型は、彼がサンタから貰ったのであろうプレゼントだった事。そして二つ目は、町中に配られたプレゼントは、サンタの計らいで、S博士の事業だとさせられた事である。


 博士は、胸が温かくなるのを感じた。自分の仕事を博士の仕業だと言うとは、サンタは昨夜、本当に感動したのだろう。

 唖然としていた博士だったが、最後の男の子が何故か泣き始めたのを見て我に返った。直ぐにその子の親が飛んでくる。男の子は声を発せずに泣き咽び、必死に、何かを親へ伝えていた。数分後、親は困った顔で博士の前へ立つ。そして、用意してあったのだろう紙に何か書き始めた。それは、子供の泣いた理由だった。


 どうやら男の子は、お礼を言いたくても言えない状況に泣いてしまったらしい。その訳を知り、博士は生涯初めて居た堪れぬ念を抱いた。この人々たちは、博士ただ一人が喋れることに疑問を持つことなく、お礼を言いたがっているのだ。しかし、博士は感謝を言われることができない。なぜなら、自分で町人から言語を剥奪したのだから。

 博士は、俯いて涙を流した。愚行だったと反省する。心が、途轍もなく痛かった。まるで、熱した針で心臓を貫かれたようである。

 彼は、滑稽なほど丁寧に、町の者へ告げた。


「今から、貴方方の病の特効薬を作ります。どうぞ、待っていてくださいでございます」



 数日後、博士は遂に治療薬を完成させた。その知らせを聞き、町全体が歓喜の声を上げる。何度も何度も、皆は博士に「ありがとう」と言った。言われる度、博士は泣きそうになるほど嬉しかった。筋違いなのは分かっているが、初めて言われる感謝の言葉に、自身の情けなさを痛感しつつ感激してしまったのである。


 その日から、人々は研究所へよく訪れるようになった。科学の好きな子が来れば、S博士は面白い実験を見せてあげた。辛気臭かった一室に、日毎活気が溢れてゆく。次第に、S博士の顔立ちも優しげな容貌へ変わっていき、彼は、世の為人の為に研究するようになった。


 博士は、あの日から変わった。刺激的なまで劇的に、生まれ変わったのである。博士はあのサンタクロースに、助けられたのだ。

 葡萄酒は、部屋の片隅に置いたままである。来年新しいサンタに出会ったら、あの老人サンタへ届けるよう頼むつもりだった。


 博士は、幸せだった。

 粉雪が、舞い降りてきた。



 一年後。博士は研究所で慌てていた。今日はクリスマスイブだが、どうすればサンタに会えるのかが分からないのだ。昨年あの老人サンタは、住所を間違えてこの研究所へ来た。今年も新しいサンタがここへ来るとは限らない。夜になってしまったが、どうしても会う方法が思い浮かばなかった。しかし、悩む博士の後ろで、軽快な足音が鳴った。博士は胸を躍らせて振り返る。

 そこには居たのは、赤い服で身を包み、白髭を蓄え、大きな袋を担いだサンタクロースであった。しかし、サンタというわりには若く、見たところ初老程であろうか。


「やあ、君はサンタクロースだろう!? よく来てくれた! ちょっと頼みが……」

嬉々として言う博士の言葉を、サンタは遮った。

「ああ、私はサンタだ。ここへ来たのにはある理由がある」

そう言って、サンタは袋から葡萄酒を取り出す。昨年のあのワインと、全く同じ物だ。

「こ、これは?」

「これは、去年此処へ訪れたサンタから預かってきた物だ。この酒を研究所の男に渡してくれ、と頼まれてね」


 それを聞き、博士は溜息を吐いてしまった。あの老人サンタの計らいには、ほとほと感心する程である。サンタからその葡萄酒を受け取ったが、部屋の片隅から同じ酒を持ってきて、博士もその酒を差し出した。


「お礼を貰ってばかりでは悪い。あの老人のサンタへ、これを渡してくれ。それにこの葡萄酒は、本来俺が呑んではならぬ物なのだ。俺の方こそ、あのサンタクロースに感謝している。君にお願いだ、このプレゼントと共に、ありがとう、とも伝言しておいてくれ」


 博士が言い終えると――サンタは神妙な顔付きになった。少し戸惑った後、言い辛そうに、口を開ける。その瞳には、涙が滲んでいた。


「残念だが、それはできない。貴方の言うあのサンタクロースは……半年前に、亡くなってしまったのだから」


 博士は愕然とした。隕石が旋毛へ落ちてきたように、頭が閃光で染められた。それは例えば、桜の木で首吊りをしている人を見掛けた時のように、死は必然的に人の思考を止めるものなのだ。それにしても、彼にとってその死亡通告は受け入れ難かった。

 数秒固まっていた博士だったが、何かの糸が切れたように、突然泣き出した。大粒の雫を手で拭い、稚児のごとく大声で泣く。それは、サンタの死だけが原因なのでない。あの善き老人に、感謝の一つも言えなかった自分が、浅ましく、惨めで、どうしようもなく憎いのだ。

博士は、言葉は発せられるのに伝えられない事があるのを、初めて知った。


 そのまま、一晩泣き明かした。

 いつの間にか、サンタは居なくなっていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] ストーリーはしっかりしているだけに、文章が少しもったいないような気がしました。かくいう、私も作文が上手くなりたいと思っている一人です。だから、いっしょに勉強しましょうというつもりでコメントさ…
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