6、憂いの足音
鏡に榛色の髪と瞳が映る。
記憶の中に辛うじて残る、母と似た姿。
(お父様に少しでも似れば、私も愛されたのかしら……)
父譲りの柘榴に近い茶色い瞳と義母譲りの赤毛を持つ義妹の姿を思い出し、エリザベスは嘆息する。
父が再婚し、ローズが産まれてからというもの、エリザベスはいつも鏡を見て憂鬱になっていたが――
最近は、ささやかな喜びも出来た。
サラの代わりに来た侍女が、自分の衣装棚の中身を全て台無しにしたらしい。
そして、代わりに母の形見を与えられたとフランチェスカから聞いている。
自室に戻って衣装棚を確認すると、若草色や菫色なと、今まで自分が着たことの無い衣服が納められていた。
今の流行りにはそぐわないが、着用には問題ない。
この服を着ていると、母に守られているような気持ちになった。
一つ、不快な点を挙げるなら、自分が屋敷内を歩く度に皆が目を背ける事か。
特に家政婦長のエリスなど、自分の世話を途中で放棄するぐらいに。
(お母様の服を見たくないのね……)
父も同様に思っているようで、食事の際に話し掛けられる事が無くなった。
(誰が何と思おうと構わないわ)
唯一、母を偲んでいる自分が、この形見を大事にすればいい――エリザベスはそう考える事にした。
婚約者が来たのは翌日の事。
いつものように、隣に義妹が座る。
いつもより眉間に皺を寄せた婚約者が、「この前はご苦労だったな」と口を開いた。
先日の茶会の事を言っているのだろうが、エリザベスは事情を知らないので微笑むだけにした。
「……あんな、“フランチェスカの再来”なんかと踊らせて」
「私も、ヘンリーお義兄様やケヴィン殿下と踊れて楽しかったです」
侮蔑するような婚約者の言葉と、嬉しそうな義妹の言葉で、何となく察しが付いた。
確かに、公爵夫人は王太子殿下も来ると言っていた。
おそらく、王太子殿下の兄、ライアン・ザフィーア公爵も伴っていたのだろう。
国王夫妻の第一子であるライアンは、両親と似ない金髪碧眼の容姿であるため、すぐさまザフィーア公爵の養子に出された。
フランチェスカ女王を忌み嫌う現王朝の時代では、金髪碧眼の者は社交界に出る事を許されない風潮がある。
次いで産まれた第二子のケヴィン・シュヴァルツェ・ペルレ王子は、兄の事を気に掛けて積極的に交流を図っているらしい。
以来、慈悲深い王太子殿下と暗愚な“フランチェスカの再来”は貴族の間で有名な話だ。
先日は昼の茶会であったが、おそらく即興で舞踏会が開かれたのだろう。
そこで、婚約者はエリザベスをザフィーア公爵に押し付けたらしい。
そして義妹は姉の婚約者のみならず王太子までも侍らせていたという事か。
(殿下には、婚約者候補の令嬢達がいるというのに……)
二人の無神経さに目眩を覚える。
しかし、自分が意見しても仕方のない事なのだろう。
エリザベスは黙って微笑むだけにした。
「それで……だ。今度は、ザフィーア公爵の屋敷で夜会を行うらしい」
もちろん、殿下の計らいでだ――と、婚約者は付け加えて。
『僕は自分だけが幸せになることは出来ない。せめて、兄さんにも良き伴侶を』と公言しているらしい王太子なら言いそうだ、とエリザベスは思った。
「エリザベス達には一緒に来てほしい」
王太子殿下とヘンリー・スマラクトは、幼き頃からの友人だと聞く。
その彼が主催する夜会なら、ヘンリーも婚約者を伴って当然と言えよう。
もはや愛情など無い関係であるが、義務なら果たす――エリザベスはそう考えていたが。
婚約者は、忌々しそうな表情でエリザベスを見つめていた。
正確には、エリザベスの服の辺りを。
「その……目立つ服はやめてくれ」
なぜそのような事をと聞く前に、婚約者は席を立ち足早に去ってしまった。
(そんなに、私の格好が気に入らなかったのかしら……?)
「お義兄様ったら」とくすくす笑う義妹の声が遠くに聞こえた。
「ヘンリー・スマラクト様の依頼で」と称する仕立て屋は、次の日にやって来た。
「スマラクト様は『とにかく地味に』と仰っていまして……」
仕立て屋は、にやにやと笑いながら布地を選ぶ。
手に取るそれらは、全て黒か紺色。
「それが良いと思うわ」
「あのスマラクト様ですものねぇ」
部屋の隅にいる義妹と侍女達の笑い声が不快に響いた。
後日、届いたのは、紺色の地味なドレス。
装飾はほとんどなく、夜会に行くためのものとは誰も思わないだろう。
衣装棚に掛けられたドレスから、エリザベスは目を背けた。
(フランチェスカに会いたい……)
寝台に横たわり、ぼうっと天井を眺める。
自分の尊厳や矜持を損なう扱いに、心が耐えられなかった。
ふと窓を開けて身を乗り出そうとすれば、かさかさと物音が聞こえた。
それにびっくりして急いで窓を閉める。
ここ数日、同じような事を繰り返し、あの井戸には行っていない。
(きっと、明日は笑い物にされるのだわ……)
エリザベスは、夜会という物に出たことが無い。
人からの伝聞や物語で聞くだけ。
義妹と見比べられ、婚約者に捨て置かれ、惨めに隅で震えている自分しか想像できないでいた。
憂事と呼ぶに相応しい日が迫っていた。