5、失望の日々
目が覚めて視界に入るのは、見慣れた室内。
(そう……私、戻って来たのね……)
陰鬱な気持ちで体を起こす。
日課としている聖書を読んでいた時、扉が叩かれて見慣れぬ顔の侍女が入って来た。
「今日からお世話をさせていただきます、ジェーンと申します」
硬い表情で頭を下げる侍女。
お辞儀の所作は美しかった。
「そう、よろしくね」
身支度を手伝ってもらったが、彼女は自ら口を開くことも無く、動作が荒々しい。
肌にブラシが引っかかる痛みに耐えながら、エリザベスはサラの愛情の篭った手つきを思い出していた。
食事をし、家庭教師に教えを受け、刺繍に取り組み、義妹の呼び出しに応じる――エリザベスの、別館での代わり映えしない生活。
同世代の令嬢のように観劇や買い物を楽しみたいという気持ちもあったが、父に固く外出を禁じられている。
(……ローズは何でも許されているのに)
義妹の自慢話は苦痛でしかない。
一日過ごして分かったのは、屋敷の皆が、サラなんて居なかったように振る舞っている事。
(薄情な人達……)
失望を抱えたまま一日を終え、眠りについた。
次の日は、スマラクト公爵家を訪問する日であった。
後継者であるヘンリー・スマラクトの婚約者として、公爵夫人から定期的に教えを受けて、もう数年になる。
同世代の令嬢達は、すでに結婚している者も多くいるのに、自分はいつまで経ってもその気配が無い。
向こうは自分の事をよく思っていないのだろう――エリザベスはそう感じている。
(伯爵家でも、公爵家でも、望まれていない人間……私って、何の為に生きているのかしら……)
その日も、出迎えた公爵夫人は、エリザベスの姿を見て溜め息を吐くのであった。
快活で社交的な性格で知られる夫人がこのような態度を取るのは、恐らく自分だけではないだろうかと思う。
向かい合って座り、公爵夫人から話を聞く。
自分は覚書を取りながら、時々質問する。
余計な事を考えず、ただ学んでいればいいこの時間は、嫌いではない。
問題は、婚約者がこの後に茶の席を設けている事。
自分を厭う相手とただ黙って茶を飲むだけの時間は苦痛でしかなかった。
『私が嫌いなら、もう放っておいて』――その言葉が言えず、もう何年も経過している。
「エリザベス」
講義が終わり、婚約者が迎えに来る。
眉間に寄せた皺も、固く結ばれた口元も、いつもと変わらない。
珍しい事に、今日は公爵夫人も同席を申し出た。
婚約者にもエリザベスにも断る権利はない。
エリザベスは、黙々と茶と菓子を口に詰める。
柑橘の風味を混ぜた砂糖を掛けたケーキは甘すぎた。
誰も言葉を発せず、静かに茶会の時間は過ぎていく。
これを食べたら撤収しよう――見苦しくない程度に手を速めたエリザベスに声を掛けたのは、公爵夫人であった。
「……週末、茶会を開きます。非公式に王太子殿下も来る予定です」
(講義がお休みになるのかしら)
婚約者と会う機会が減るのなら嬉しい――エリザベスは、些か期待を込めて夫人を見るが。
「貴女達も参加するように」
その言葉に、頭が真っ白になった。
スマラクト公爵家の催しに出席を求められたことなど、一度も無かった。
「母上、俺は反対です」
真っ先に婚約者が反対する。
「エリザベスを公の場に出すなど……」
「いい加減にしなさい」
夫人に叱りつけられ、婚約者は口ごもる。
「不甲斐ない姿を見せないでちょうだい」
夫人はエリザベスの姿を横目で見やる。
見下すような目つきに、エリザベスは背筋が冷えた。
(私がヘンリー様に嫌われているから、公爵夫人は私の事を見限っているのね……)
会話を続ける二人の姿が、どこか遠い景色のように感じる。
「仰せの通りに致します」
その後の会話をぼんやりと聞いていたエリザベスは、そう返すだけで精いっぱいであった。
後ろに控えていた侍女の方を見ると、冷たい表情で「旦那様に報告します」と返答された。
陰鬱な気持ちのまま、日は過ぎていく。
週末の準備をしていたエリザベスをさらに陰鬱にさせたのは、婚約者からの手紙であった。
義妹を連れてきてほしい、という内容に溜め息を吐き、侍女に渡す。
義妹は、すぐさまエリザベスを本館に呼びつけた。
彼女の周囲では、若い侍女達が嘲るような笑みを浮かべている。
「お義姉様、私も連れて行って下さるのね。嬉しいわ。何を着ようかしら?」
その無邪気な笑顔を見ても吐き気しか感じず、「楽しみね」と返すことしか出来なかった。
茶会の前日、久々に父が帰って来た。
「お前の好みだったようだからな」
食堂の席に着いたエリザベスを出迎えたのは、父のそのような呟き。
供された物は鹿肉。ローズが美味しそうに頬張る姿を見て察する。
(ローズの為に用意したのね……)
エリザベスは、あまり風味の強い食べ物を好まない。
ふと、父の方を見れば、「明日は粗相のないように」と告げるだけ。
自分の居場所は、何処にもない――エリザベスは、あの井戸の底が恋しくなった。
窓の外を覗き、人気が無い事を確認する。
夜着から簡素な服に着替えたエリザベスは、裏庭へと駆けだした。
井戸を覆う布を捲ると、梯子が無かったので、意を決して飛び込む。
懐かしい干し草の感触が彼女を受け止めた。
(この落ちる感覚は、やっぱり怖いわ)
隠し扉があった筈の場所を押すと、壁が静かに動く。
その先の木製の扉を開けると、金髪碧眼のお人形。
「あら、エリザベス。お久しぶりね」
表情こそ変わらないが、優しい声色に、エリザベスの涙腺が緩む。
「フランチェスカ、会いたかったわ」
思わず彼女に抱き着いていた。
「あらあら、馴れ馴れしい子ねぇ」
そう言いながらも、彼女は固い手でエリザベスの頭を撫でてくれた。
椅子に座り、これまでの事をぽつぽつと話す。
フランチェスカは共に嘆き、怒ってくれる。それだけが、救いだった。
「……それは辛かったわね」
「そうなのよ、フランチェスカ。私、どうしたら……」
サラの手がかりも無い。自分の境遇も変わらない。
明日の茶会で自分はどうなってしまうのか――
エリザベスは、此処から動きたくない気持ちでいっぱいだった。
「貴女は十分頑張ったわ。少し休みましょう」
フランチェスカは、エリザベスの頬にそっと触れる。
「私が代わりに行ってきてあげる」
「……いいの?」
二人が手を合わせる事は自然な流れであった。
きいきいと天井で揺れる人形を見つめながらエリザベスが過ごしていると、フランチェスカの魂が入った自分の体が戻って来た。
その姿を見て、エリザベスは首を傾げた。
フランチェスカが纏うのは、淡い橙色のドレス。レースやリボンの意匠は、少し古めかしい。
「その服……」
「ああ、これね」
フランチェスカが肩を竦める。
自分の顔が目を細めたり口元を曲げる様を見るのは新鮮な気持ちだった。
「伯爵家に行こうとしたら、貴女の服、全部台無しになっちゃって。侍女がやったんじゃない?」
「そんな……」
サラの代わりに来た、冷たい顔を思い出す。
彼女が自ら動いたのか、義妹や義母の意向なのか……エリザベスの脳裏には、醜悪な顔をした彼女達の表情が過ぎる。
「お父様がお怒りよ。私の面子をつぶすのかって」
ああ怖い、と自らの目元を拭う。
娘の心情など配慮する様子のない父の振る舞いに、エリザベスも畏怖した。
「アネットの襤褸でも着ておけって投げつけられたの、これ」
アネット――エリザベスの亡き母の名。
彼女の遺品がぞんざいに扱われていることに、エリザベスは失望した。
「取りあえず、全部貴女の衣装棚にしまわれているから」
そう言って、フランチェスカは自分の手を差し出した。
いつも着る質素な衣服と違い、母のドレスは、少し重い。
「辛い思いをさせてごめんなさい、フランチェスカ」
自分の身代わりになってくれて――そう思い、謝罪するが。
「私だって、これまで意地悪な人達に囲まれてきたもの。多少の事なら平気よ」
胸を刺されなければね、と肩を竦めた動きを見せてくる。冗談のつもりだったのだろう。
「もう、フランチェスカったら」
自分を慰めてくれていると分かったので、エリザベスは笑った。