4、魂の救済
エリザベスは、女王の言葉が理解できなかった。
「代わる……何を……」
「だから、貴女の不幸な人生とよ」
エリザベスの頬に手を添えて、女王は囁く。
「私には、魂を交換する魔法があるの」
(魂を……どういうこと?)
「冤罪で処刑された時、私は人形の体を得て目覚めたわ。その時、誰かが囁く声がしたの。お前のように、憐れな境遇にある魂を救いなさい――と」
右手を胸に当てて、左手は高く掲げて。
人形劇の一幕を連想させる動きだった。
「きっと神の声だったのね。それ以来、私は人形の体を作り替えながら、長い時を過ごしてきたの。その間に、色々な女の子を助けてきたわ。貴方のように家族や婚約者にいたぶられている子、家族の為に泣く泣く体を売らざるをえない子、重い病気でもう生きながらえない子……」
指折り数えた後、再びエリザベスの方を向く。
「この魔法はお互いの合意が必要で、手を触れないと行使できないの。貴方が救いを求めているなら、どうか、私の手を取って」
木目の浮いた手のひらを差し出してくる女王。
エリザベスは逡巡した。
俄には信じがたい話。そして、代わるとどうなるか分からない不安。
(それに、私はこれから……)
「貴女は教会に駆け込む、と決めていたようだけど」
エリザベスの内心を察しているかのように女王が言う。
「伯爵家も嫁ぎ先の公爵家も、都合の良い駒を逃がさないでしょうね。貴女一人が犠牲になればいい――そう思っているような方々達だもの」
恐ろしいわ、と胸に手を当てる女王。
(みんな……私が犠牲になれば……私一人が……)
エリザベスは家族や婚約者の顔を思い出し――胸の鼓動が早まる。
「いらない……もう、みんないらないわ!」
あえぐように叫んだ。
「お願い、私と代わって」
縋るような気持ちで、相手の手を握った。
合わせた手が仄かに光る。
「……ええ、いいわよ」
女王の声は、どこか嬉しそうな響きを帯びていて。
(……これで、私、やっと……)
睡魔に襲われたような感覚と共に、エリザベスは目を閉じた。
光を感じ、ゆっくりと目を開ける。
鉄製の工具に古びた木箱、様々な液体が入った瓶が並ぶ飾り棚。
そして、目の前には榛色の髪と目を持つ若い女性。
鏡で見る自分の顔そっくり――と、エリザベスは思った。
「気分はどうかしら、エリザベス?」
女性が囁く。
ぎこちない動きで首を動かすと、視界に入るのは豊かな金色の髪や古びたドレス――確かに、先程まで人形の姿。
ゆっくりとひらいた手のひらには、木目が浮かび上がっていた。
「私……本当に……」
女王の言う通り、魂を交換する魔法が掛けられたという事らしい。
ならば、自分の体には、女王の魂が入っているようだ。
ゆっくりと体を動かしているエリザベスの頭を、女王は撫でる。
「さあ、これで貴女は自由よ。あとは静かに、お母様の事でも考えて過ごしなさいな」
毎日のように見る陰鬱な顔と違い、口角を上げた、活気に満ちている表情。
自分ではない別人のように見えた。
女王は弾むような足取りで地下室を動き回る。
鉄製の重そうな扉を開けて、折り畳みの梯子や分厚い布を取り出し、扉の鍵を閉めた。
荷物を担ぐとエリザベスが入って来た扉に手を掛けて――くるりと振り返った。
「……そうそう、言い忘れていたけど。この部屋から出ちゃ駄目よ? 体が壊れちゃったら、魂がどうなるか分からないもの。あと、地下道が崩落する仕掛けが作動するから、火の取り扱いには注意しなさい」
冗談めかしてそういうと、女王は鼻歌交じりで部屋を出て行った。
座り込み、天井を眺めて過ごす。
吊るされた小さな人形が、きいきいと音を立てて蠢いていた。
(どれくらい経ったのかしら……)
誰にも傷つけられず、ただ幸福だった頃の思い出に浸る――エリザベスは、ようやく安寧を得たような気持ちであった。
母の柔らかな笑顔、暖かい手、寝る前にお話してくださった聖句……父も、あの頃は優しかった……。
(そういえば、ヘンリー様とお会いしたのもその頃だったかしら……)
自分がスマラクト公爵家のお茶会に、母と出掛けた時、彼は此方を睨むばかりであった。
帰る時に無言で花を押し付けられたが、毒草だったと聞かされて悲しい気持ちになった。
それ以来、彼とは目を合わせないようにしてきたのに……突如、婚約が決まった時には驚いたものだ。
思い出す、幼き頃の日々――それは、どこか紗が掛かったように、うすぼんやりとしたものになって行く。
嬉しかった、悲しかった、という記憶はあっても、今は何の感情も湧き上がらない。
暑さも寒さも飢えも渇きも無いこの人形の体にいると、まるで、自分が無機物になったような感覚を覚えた。
(それでいいのね、きっと……)
このまま、静かに生きていけたら――
突如、扉が乱暴に開けられる。
ゆっくりとそちらの方へ振り返ると、榛色の髪の女性。
自分と入れ替わった筈の女王であった。
(私って……あんな顔も出来るのね)
目を吊り上げて睨む姿は迫力があるが、エリザベスは『怖い』という感情も抱けなかった。
彼女は此方へ歩み寄ると、手にしていた物を差し出す。
薄汚れた、焦げ茶色の革靴。
「それは……」
『今は、これしか無くて。新しい靴もすぐ駄目になるんです』
困ったように話すサラの顔が過ぎる。
「サラとか言ったかしら。その方の部屋で見つけたのよ」
急に追い出されたからと言って、靴まで脱いで行くなんて事はあるのだろうか……と、ぼんやりと考えていたが。
「分からない?」
部屋に二人きりの筈なのに、相手は声を潜める。
「貴方の侍女、どうやら面倒な事に巻き込まれたみたいよ? もしかしたら、殺されているのかも」
「そんな事……」
もし自分がエリザベスのままであったら、動転し、相手を問い詰めていただろう。
暢気な口調で返答することしか出来ない体が、もどかしかった。
「おそらく、屋敷の人間が何か隠しているわね。誰に聞いても、サラの事を話したがらないんですもの」
女王が肩を竦める。
「……もし、神をも恐れぬ振る舞いが成されているのなら、見逃すわけにはいかないわ」
そのまま、エリザベスの肩を掴む。強い力だと思うが、何も感じない。
「エリザベス、貴女は屋敷に戻りなさい。真相を探るのよ」
「で、でも……」
相手の声には有無を言わせない迫力があるが、エリザベスは躊躇した。
(私、このまま、静かに……)
「サラがどこかに打ち捨てられている可能性を考えなさいな。貴女には、サラの魂を救う義務があるのよ」
真摯に述べる女王の言葉に、エリザベスははっとなった。
いつも、親身に接してくれた彼女の姿を思い出す。
(私、サラに何も返せていないのに……自分が恥ずかしいわ)
肩に手をやり、女王の手に重ねる。
「女王陛下、私、そうします。サラの為に」
エリザベスの決意に、女王は優しく頷く。
「貴女なら、そう言ってくれると思っていたわ」
エリザベスの右手が優しく包まれる。
仄かな光を放ち、エリザベスはいつか感じた睡魔に襲われた。
目を覚ますと、此方を見下ろす碧い瞳。
「気が付いたかしら?」
床に横たえていた体を起こすと、人形の姿に戻った女王が、埃を払ってくれた。
自分の姿を確認してみれば、確かに、榛色の髪と質素な紺の服。
「私……本当に、戻ったのね」
また、あの屋敷に帰らなければならない――エリザベスを憂鬱な気持ちが襲い、胸の鼓動が早くなる。
(本当に、人形の体でいた方が楽だったわ……)
しかし、サラの笑顔を思い出すと、身が引き締まる思いがする。
「女王陛下、私、これからどうすれば……」
屋敷で“神をも恐れぬ振る舞い”が成されているとして、自分は何をすべきなのか……エリザベスには見当もつかなかった。
「簡単よ。貴女は黙っていなさい」
それでは、何も進展しないのでは――と疑問に思うが。
「余計な事を言って、屋敷の人間に勘付かれてはだめ。俯いて、耳だけは働かせるの。時々は、報告に来なさい。一緒に考えてあげる」
(女王陛下が一緒なら……)
エリザベスは心強くなった。
「分かりました。私、頑張ります」
梯子を使って地上へ昇り、女王が用意していたらしい防水布と石で井戸に蓋をする。
周囲の気配を窺いながら、鍵の開いていた窓から自室に戻った。
室内は、自分が出た時とほぼ変わらない。
机の上に、日記帳が開いて置かれていた。
誰と会って何をしたか……日々の覚書を記したそれに、自分の記憶にない文字が並ぶ。
『――日、ヘンリー・スマラクト様訪問。人形を持参』
少し崩した書き方は、恐らく、女王陛下の記述だろう。
日付を見て、まだ二日しか経過していないことに、エリザベスは驚いた。
(もっと、長い時間をあそこで過ごしたように思ったのに……)
一応、部屋を確認するが、婚約者が持って来たらしき人形は見当たらなかった。
(どうせローズが持って行ったのでしょう)
些細な事は気にならなかった。
自分には、もっと大事なことがある。
(……色々あり過ぎて、疲れたわ……少し、休みたい……)
寝台に畳んであった夜着に着替えると、エリザベスは横になった。