2、慰めの喪失
今日の夕食も、いつもと変わりなかった。
義妹の言葉に義母は微笑み、父は優しく頷く。
父がエリザベスに声を掛けたのは教育の進捗を確認する時だけで、『努力するように』と言いつけて終わる。
(私を早くスマラクト家へ嫁がせることしか考えていないのね……)
吐き気をこらえながら食事を終え、早足で大食堂を後にした。
エリザベスに声を掛ける者は、誰もいない。
自室に戻ると、自分を待っているはずのサラの姿はどこにもなかった。
(部屋にいないなんて珍しいわね……食事に行ったのかしら?)
いつもと違う侍女の行動に疑問を感じていると、扉が叩かれて家政婦長が入って来た。
彼女はこめかみを抑えながら、サラは解雇したと告げてくる。
その言葉に、エリザベスは、背筋が冷える思いがした。
「どうして……そんな……急に」
声の震えを抑えられない。
「あの者は伯爵家の屋敷に相応しくありませんでしたから」
彼女の声は冷たく、エリザベスに有無を言わせない響きがあった。
「サラは、ご家族を亡くされているのよ……」
窓の外はもう暗い。帰る所のない者をこんな時間に追い出すなんて――エリザベスは目の前の相手が、本当に血の通った人間なのか疑わしくなった。
「代わりの者を用意しますので」
エリザベスの返事も聞かず、家政婦長は部屋を後にした。
エリザベスは力尽きるようにして寝台へ倒れ込んだ。ぼんやりと天井を眺める。
(私のせいで、サラは追い出されてしまったのかしら……どこか、次の働き口を……いいえ、その前に、今日寝泊まりする場所すら……)
取り留めもなくそんなことを考えていた彼女は、ふと、息苦しさを感じて起き上がった。
寝台の下に手を伸ばす。
そこには、銀細工が施された小箱を隠してあるのだ。中に納めた首飾りは、母の形見だった。
(私に残されたのは、これだけ……)
母との思い出に浸ることで、エリザベスはいつも慰めを得ている。
美しく、優しかった母。娘の誕生日に突如亡くなった母。
今まで病気一つしなかったと話していたのに、急に胸を押さえだして……。
指先に触れるはずの感触が無く、エリザベスは疑問に思った。しゃがみ込み、寝台の下を覗いてみるが、小箱がどこにもない。
(まさか、ローズが)
彼女には察しがついた――あの義妹は、母との思い出までも踏みにじったのだと。
「どうして……」
今まで耐え忍んできたエリザベスの心も、限界だった。
溢れる涙を止められなかった。
(もう嫌。私だけが、このような思いを強いられるのなら……)
エリザベスは決意した。この家を出ようと。
誰にも知られないように、こっそり屋敷を出て、教会に駆け込む――
神に祈りを捧げながら余生を静かに過ごす未来を想像し、気持ちが少し落ち着いた。
(私なんかが出て行っても、あの人達はすぐには気付かないでしょう)
湯あみの準備ができたと声を掛けてくる女中達に、エリザベスは作り笑いで答えた。
会話も無く、いつも通り静かに就寝の準備を終えると、彼女は部屋に戻った。
外に聞こえないよう、静かに荷造りを始める。
最低限の衣服と、わずかな貨幣。鞄に詰める物は、ほとんどなかった。
灯りを消し、皆が寝静まるのを待つ。
夜は更け、使用人達の足音も聞こえなくなった頃――
エリザベスは自室の窓を開け、外を見渡す。
(見回りはこちらに来ていないわね)
窓枠に足を掛け、なるべく音を立てないようにして外へ出る。
辺りの気配を伺いながら、裏庭へと歩き出した。
その向こうは森になっており、小さな通用口は庭師や猟師ぐらいしか通らない。
エリザベスは誰にも会うことなく、裏庭にたどり着く。
見苦しくない程度に整えられた芝生が広がり、古い倉庫と蓋のされた井戸があるだけの場所だ。
元々は王家の敷地だったらしく、この井戸も王宮とつながっていたらしい……そんな噂話をエリザベスは聞いたことがある。
そんな井戸を横目に通用口へと手を伸ばし――ふと、月明りに照らされて何かが光ったように感じた。
そっと近付いて目を凝らすと、蓋が半分ほど開いており、何かが置かれていた。
小さくて、丸い、使用人のお仕着せに付いている釦に似ていて……。
思わず手を伸ばし――蓋は軽い音をたてて割れた。
悲鳴を上げる間もなく、エリザベスは落下した。
墜落を恐れ、ぎゅっと目をつぶる――彼女を襲ったのは、予想以上に軽い衝撃だった。
「え……」
目を開けると、敷き詰められた枯草が目に入った。
これのおかげで怪我をせずに済んだらしい。
見上げると、井戸の縁は遙か高くに見える。
自分一人で登れない程度には深いようだ。
「私、死ぬかと……」
遅れてやって来た恐怖に胸を押さえ、石壁にもたれかかると、僅かに軋む音がする。
よくよく見てみると、長方形の切れ込みが見つかった。
隠し扉になっているらしく、片側を押すとゆっくりと動く。
(これは本当に王宮に繋がっているのかしら……)
そっと扉の中を覗き込む。
土壁の通路の先に、木製の扉が備えられていた。
エリザベスは少し逡巡した後、意を決したように通路へと踏み出す。
井戸の底に留まるよりは適切だろうし、万が一王宮にたどり着いたとしても、自分の目的は変わらない。
木製の扉を控えめに叩くと、静かに開けた。
そこは、さして広くない空間だった。
中にはエリザベスの見慣れないものが数多くあった。
鉄製の工具に古びた木箱、様々な液体が入った瓶が並ぶ飾り棚。
そして、何よりも目を惹いたのは二体の人形だった。
中央の寝台に横たわる足の欠けた裸の人形と、その傍に佇むドレスを着た少女の人形。
精巧な作りのそれらは、木目が浮いた肌と繋ぎ目がはっきりと分かる関節さえ無ければ、人間と見間違うほどの出来だった。
「すごいわ……」
このような人形は、フランチェスカ女王の処刑後――王朝の名がエーデルシュタインからペルレに代わった時代に隆盛を極めたと言われる。
当時の作品は高値で取引されているはず……よく見てみようと顔の部分に触れた時。
「勝手に触らないで」
立っている人形に手を叩かれ、エリザベスは悲鳴を上げた。