惨劇再び……?
それから数日ほど経ったある晩、自宅の書斎で書類へ目を通していた村浦重役は、一本の電話に集中が失せてしまい、忌々しげに受話器をとった。
「――はい、村浦ですが」
「村浦重役、ご無沙汰しております、鴨川です……」
電話の相手は、事件の捜査を依頼した大学生、鴨川浮音であった。
「やあ、鴨川くんか、どうかしたのかね」
「事件の真相がわかりましたで。ひとまず今晩の終電で、お嬢さんともども、西院から四条大宮まで乗ってください。僕も行きますよって……では」
「きみっ、いったいどういうことなんだね、もしもし――」
村浦重役の問いかけむなしく、鴨川浮音は電話を切った直後だった。あっという間の出来事に頭が追い付かず、しばらく村浦重役は、腕を組んだまま考え込んでいたが、娘の深雪を呼びつけると、すぐさま西院までタクシーを飛ばさせた。
「――深雪、お前あの鴨川浮音という学生をどう思う」
「どうって言われても……何考えてるかわからない人だもの、どうも言えないよ」
近くの食堂で時間をつぶし、そろそろ終電が来ようという頃合いに西院駅のプラットホームへついた村浦親子は、鴨川浮音の人物評を飛ばしあった。日中、市内を襲った梅雨雲のせいか、レールや枕木、足元のコンクリートがうっすらと湿り気を帯びて、鼻をくすぐるような水っぽい風が細いホームへ吹き付ける。
「あっ、来たよ」
踏切の遮断機が下りるより早く、電車の来るのに気付いた深雪が声を上げる。見れば、軌道敷のほうからゆっくりと、嵐電名物の吊りかけモーターの電車が独特の音を立てながら、のそりのそりと近づいてくるところだった。
「ああ、そうだな。――それにしても、鴨川君はどうしたんだろう。そろそろ現れそうなものだが……」
振り返って改札のほうを見ても、あの長身くせ毛、羽織姿の鴨川浮音の姿は見当たらない。翻って、車内を見やれば、そこには薄汚い浮浪者じみた男が酒瓶を抱えて眠っているばかりである。
村浦重役は、発車ベルが鳴るのも気にせず、鴨川浮音の登場を待った。しかし、
「――お父さん、そろそろ出るよ、もう行こうよ」
「あ、ああ……」
娘の催促と発車時刻には勝てず、村浦重役は乗降口から車内へと飛び乗った。やがて、嵐電はゆっくりと、大宮方面へ向けて走り出した。
しばらく乗るうちに、村浦重役は今乗っている車両が、あの晩事件の舞台となった車両であることに気づいた。
――まさか。
妙な予感に、村浦重役が運転席との境にある乗務員の名札へ目をやると、はたしてそこに掲げられていたのは、事件当夜の運転を担当していた倉田運転士の名前であった。
「深雪、ちょっと不気味なことになったぞ――」
振り返ってそう言いかけたところへ、大宮駅構内の、分岐点にほど近い急カーブから、車体へガクン、というショックが足元から伝わって、村浦重役と娘は手近にあった手すりや吊り革を握り、かろうじて転ばずに済んだ。
だが、どん詰まりでうたた寝をしていた浮浪者じみた男だけは、そのまま衝撃につられて、床へうつぶせになって伸びてしまった。手から離れた酒瓶だけが、コロリと深雪の足元へ届く。ものの見事に、事件当夜と同じ小道具、役者がそろったことに気づいた村浦重役は、顔いっぱいに大粒の汗が吹き出るのを覚えた。
「お父さん、大丈夫……?」
深雪の不安そうな表情に、答えるべきか否かと迷う村浦重役であったが、その決断を急かすように、車内アナウンスの音声がゆっくりとかかり、電車は往来の明りがまぶしい、大宮駅の構内でスッと停車した。
「深雪、これじゃあなにもかも、あの事件の晩と――」
「――まるっきり、同じやないか、って言いたいんやろうな、君のお父さんは」
不意に耳へ飛び込んだ、聞き覚えのある声に村浦重役が振り返ると、そこにはとんびを羽織り、ハンチングを斜に被った浮音と、ラクダ色の背広に身を包んだ小太りの東野青年、そして、カメラを抱えてニマリと笑う、新聞部員・三宅薫の姿があった。
「鴨川くん、きみ、こりゃあ一体全体……」
「まあ、ワケを話すのはまたあとで。――おい、もう起きてもええで」
説明を乞う村浦重役をしり目に、鴨川浮音が座敷で仲居を呼ぶような手つきで手を叩くと、倒れていた浮浪者が起き上がり、胸元に深々と差し込まれた短刀の柄を一座の前に露わにした。
「――カモさん、やっぱり君の言った通り、ブスリと刺さったよ」
ポケットに忍ばせていたウェットティッシュで浮浪者が頬を拭うと、何か月も洗っていなかったようなその顔が、みるみるうちに精悍な、十代の青年の顔へと早変わりした。
「きみ、佐原くんだったのか!」
浮浪者の正体が鴨川浮音の相棒・佐原有作青年であることがわかると、村浦重役はさらに驚き、彼の元へと近寄った。
「驚かせてしまって申し訳ありません。――そこにいらっしゃる三宅さんの後輩に、演劇部上がりの女の子がいましてね。ちょっとそのツテで、濃いめのメーキャップをしてもらったんです」
「そういうことだったのですか……。ときに、その胸元に刺さっている短剣はいったい……?」
村浦重役がコートの襟から覗いている柄を指さすと、佐原はその下に着た、擦り切れたボタンダウンのシャツの前をはだけさせ、縄で結わえた、油粘土の詰まったアルマイトの古い弁当箱と、そこに突っ込んでいる短刀の刃を村浦親子へと見せた。
「か、鴨川くん、きみ、いったいどういうつもりで、こんな仕掛けをしたんだね」
「――まあまあ、そうカッカなさらず。今夜はこういう仕掛けでやったんですが、あの晩の木澤クンの胸元には、たぶんシャツか何かの襟に引っ掛けただけで仕組んであったんでしょうなあ」
「すっかり酔っぱらって前後不覚に陥っていた木澤さんはそのことにも気づかず、構内に入る手前の分岐点でのショックで倒れ、胸に短刀が刺さって死んでしまった……鴨川クン、そういうことデショ?」
東野青年の補足に、そそ、そういうこと、と浮音は満足そうな笑みを浮かべる。その言葉の真意がわからず、村浦重役はしばらく髪を右手でかき回していたが、やがてある結論に至った。
「そうか、混んでいるうちに乗せておいて、どこかで勝手に倒れて刺さるように仕掛けていたのか……!」
「その通り。で、その下手人は直前まで飲んでいたという、同じD大自動車クラブの連中で、理由はある犯罪の口封じのため……ってなとこですわ」
鴨川浮音の言葉に、村浦重役と、当夜のようにマスコンを握っていた倉田運転士は、その犯罪とは何か聞き返す。
「もちろん、今問題になっとる白タクのことですわな。あいつら、部の車を使って、小遣い稼ぎをしとったんですわ。証拠もばっちりつかんで、府警の方に引き渡してあるさかい、明日の朝刊にデカデカ載るんと違いますかねえ、事件の顛末……」
言い終えると、浮音は降車した佐原の手を取り、お疲れさんでした、と改めて労をねぎらうのだった。