姿無き殺人者
観光名所、嵐山へ向かう電車・嵐電は、バスや地下鉄に次ぐ市民の足の一つでもあるのです……。
四条大宮の市街地から、風光明媚な観光名所と、嵐山を結ぶ小さなチンチン電車、「嵐電」は、京都巡りでは欠かせない存在であると同時に、近隣住民にとっての大事な生活の足である。
そんな嵐電沿線を、今時珍しいフランス生まれの往年の名車、真っ赤なシトロエン二CVが線路沿いを行き来するようになったのは、例年より遅く、梅雨の雨脚が近づきだした六月下旬のことであった。
「これで十五往復目、か。カモさん、ガソリン大丈夫?」
運転役である友人・鴨川浮音の隣で、ぼんやりと軌道敷を眺める黒いジャージ姿の青年・佐原有作は、大宮方向から近づいてくる嵐電の吊りかけモーターの音を、半開きになった窓ガラス越しにのどかな調子で見つめている。
「心配しなさんな、満タンにしておいた――のがボチボチのうなりそうやな。一旦離脱!」
結城紬の着流しをたすき掛けにし、足元は普段履きなれた桐下駄ではなく、編み上げのロングブーツを着けた浮音は、三角窓から入り込む風にくせっ毛の頭髪をなびかせながら、勢いよくハンドルを切った。
「浮音さん、どこかで休憩にしません? ミユキ、気分が悪そうなのよ」
「おやっ、そりゃアカンな。――村浦さん、大丈夫かぁ」
バックミラー越しに後部座席へ目線をなげると、浮音は馴染みの女子高生で、新聞部の副部長である三宅薫と、本日の主役である彼女の同級生・村浦深雪の様子をうかがう。シトロエンの振動が三半規管に障ったのか、深雪は顔を青くして口元を抑えている。
「よしよし、どっかのサ店か、ファミレスに連れて行ったるわ。飛ばすぜっ」
派手にアクセルを踏み、器用にクラッチを切ると、浮音は一目散に、阪急電車の大宮駅の向かいにあるロータリーへ滑り込み、「ハットリー」という小さな喫茶店へ、薫ともども肩を貸し、深雪を担ぎ上げるようにして入った。
「どうですか、鴨川さん。それらしいものはなにか……?」
いくらか元気を取り戻した深雪が浮音に尋ねる。が、肝心の浮音は、
「ダメやな、まるでわからん。困ったもんやで……」
たすきをほどいてくつろいだまま、浮音は袂から出したロングピースへブックマッチの炎を当てて、薄暗い店内にプカ、プカと紫煙をまき散らす。
「――本当にそれで大丈夫なんですか。犯人、捕まるんですか!?」
あまりにも頼りない浮音の返答に立ち上がり、声を荒らげる深雪だったが、気分の悪いのがぶりかえしたのか、足元をふらつかせて、椅子へ吸い込まれるようにへたってしまった。
「深雪、大丈夫? ――鴨川さん、ちょっと刺激が強すぎたみたいよ」
「そうかもしれへん、すまんかった……」
謝罪ののち、鼻から煙を出しながら、天井を見上げる浮音の姿を一瞥すると、薫はここに至るまでの奇妙な経緯をうすぼんやりと思いうかべ、湯気の立つコーヒーへ手を付けた。
そもそものきっかけは五月の末、初夏というのにひどく涼しい夜のことだった。嵐山発、四条大宮行きの最終電車は帷子ノ辻で北野線からの連絡客を乗せると、定刻通り、四条大宮目指して出発した。
――お客が多いのはいいけど、こうもまあ、酔っ払いだらけじゃなあ。
天神川の駅で客が下りたのを確認すると、勤続三十五年のベテラン運転士・倉田はちらりと、どん詰まりの客席で下品な笑い声をあげるサラリーマンたちを苦々しくにらんでから、マスコンのキーへ手をかけた。だが、騒ぎの中心であった酔漢たちは西院で降り、あとには終点が最寄りらしい、帷子ノ辻から友人たちに担がれて乗った、大学生らしい青年がただ一人、鼾を立て、時折むずがゆそうに体を動かしながら眠っているばかりだった。
これならば何も起こるまい、と安心すると、倉田は案内放送をかけながら、四条大宮へ向かう、煉瓦造りの高架線をフルスピードで駆け抜けた。終点はもうすぐそこである。
「――終点、四条大宮、四条大宮。運賃は、改札でお支払いください」
改札の向こう側、吹きさらしになっている出入り口からは阪急電車の大宮駅前の喧騒が漏れ聞こえ、暗がりを通り過ぎる市バスやタクシーの明りが、遠く彼方の四条通からも飛び込んでくる。安全確認を終え、キーを引き抜くと、倉田はいつものように車両から出ようとしたが、視界の隅に大学生らしい、あの男が横たわっているのを見つけ、歩みを止めた。どうやら、寝入ったところでバランスを崩して、そのまま床へ転がってしまったらしい。
「もしもし、お客さん、終点ですよ……ほら、起きなさいな、風邪をひきますよ」
近寄って青年の肩をたたき、倉田は慣れた手つきで体を起こした。が、その途端に、倉田はその場から跳ね上がり、女性の様な叫び声をホーム一杯にとどろかせて気を失ってしまった。手をべっとりと血で濡らし、胸元にナイフの突き刺さった青年を指さしたまま――。
この出来事は翌朝の各紙で「嵐電密室殺人事件」として大きく取り扱われ、一大センセーショナルをもって世間の知るところとなった。
というのも、発見時に被害者であるD大生・木澤義文のほかにはだれも乗っておらず――ナイフの柄からは彼自身の指紋も見つからず、まず自殺というセンは外れたのである――、西院辺りで様子を見たときに動いたのを倉田が確認していること。また、仮に倉田が運転席から離れて刺したとしても、車両に据え付けられている非常停止用のデッドマン装置が作動してすぐにバレてしまう、といった具合に、どう見積もってもこの案件は並の犯罪者による手口ではない、と考えられたからである。あまりにも特殊な現場の様子に、上京署に置かれた捜査本部の猛者たちも、ひどい神経衰弱に陥ってしまっていた。
また、この捜査の遅さが災いし、乗っていると誰とも知れぬ相手に殺されてしまう、という風評被害が観光客の間に流れ、嵐電の運賃収入は日に日に目減りしていった。
ことを重くみた嵐電の運営元・京福電鉄の重役・村浦は、娘の通う学校の生徒が黒ずくめの不審者に襲われかけた事件、通称「七条大橋の魔女」事件を見事解決した大学生・鴨川浮音を娘の同級生・三宅薫を通して紹介してもらい、捜査上必要と思われるあらゆる権限を彼に与えて犯人の行方と事件の全容解明を依頼したのであった。が、沿線十五往復の末に、何の手掛かりも得られない、という彼の言葉を娘から聞かされて、村浦重役はすっかり肩を落としてしまった。
「――やはり、今度の事件はさすがのあなた方でも難しいですかな」
「申し訳ありません。なにぶん、もう一つ別の事件を抱えているというのもありまして……」
十五往復の翌日、別件の調査で不在という鴨川浮音の代理として村浦邸に進捗報告に来た佐原は、深雪と重役を前にして、申し訳が立たない、といった表情で事情を打ち明けた。
「ご存じありませんか、京阪間で問題になってる無許可タクシー……。あれのせいで我々のアガリが大いに奪われていると、タクシー組合から一網打尽にするようにという依頼を受けたんです」
「ああ、あの事件……。失礼ですが、白タク一台捕まえるのに、そんなにかかるものですかな」
そんな記事が新聞の片隅に乗っていたのを思い出して、村浦重役は件の無許可タクシー、いわゆる白タクのことをやや皮肉交じりに語る。たいがい、白タクというのは単独犯のケースが多いから、さほど捕縛には手間がかからないものなのだ。
「それがどうも、今度の一件は元締めがいる組織的犯行らしいんです。ひょっとすると、反社会勢力が一枚噛んでいるかもしれないからっていうことで、僕はもっぱら留守番専門でして……。そのせいで、白タクの件もどういう具合になってるか、よくわかっていないんです」
「――お父さん、もうちょっと待ってみたほうがいいんじゃないかな。おなじ公共交通機関の犯罪なんだから、手間がかかりそうだし……」
娘の助け舟と、佐原の丁寧な説明に村浦重役はしばらく頭を悩ませていたが、このまま未解決のまま闇に葬るのはさすがにまずいという結論に至り、今後とも調査の方をよろしく頼む……とだけ、佐原に伝えたのであった。
珍しく捜査の進捗が鈍い浮音と、それを心配する有作。はたして事件の行方やいかに……?