筆法少女
新興都市――西出原市。
副都心から電車で一時間ほどの場所に存在するこの地は、数十年前まで山と町の境目に過ぎなかったものの、大規模な資金の流動による企業の大量進出、それに伴う人々の移動、および発展が起こった結果、たった五年で累計の人口は二十万人を超え、一大都市と名乗ってもおかしくはない場所へと変貌していた――。
西出原市――石締区。
山の麓に存在し、とある理由により、わずかな開発を行うだけに留まったこの地域には、一つの風習が存在していた。
『二十二時以降は、例え月が隠れ太陽が現れていても、絶対に外を出歩いてはならない』
近代化の波でサーフィンを行うようになった石締区出身の住民たちは、日本、あるいは世界中のどこにいようと、この風習を律儀に守り続けていた。
その理由といえば石締の夜中にはまつろわぬ化け物が跳梁跋扈し、人の魂を食らい尽くす、という古代の怪談――由来を辿れば江戸時代にまで遡る――が、未だに語り継がれているためであった。
しかしこの話は、先述のとある理由――工事関係者に起き続けた不審な事故により、ふたたび石締の人間に再燃することとなった。
「ふ~んふふんふん、ふんふふんふふん」
そんなこんなで、一切人がいなくなった午後十時の石締を、鼻歌を歌いながら歩き回る存在がいた。
人が出歩かないのに点灯している街路灯がその姿を照らしてみれば、白を主体としたワンピースに薄紅色のジャケットを羽織り、脚線美を際立たせる朱色のタイツ、その上には茶色のブーツを履き、長い黒色の髪を光を弾く金色のリボンでまとめ、左手には身の丈ほどもある毛筆を握りしめていた。
彼女こそが、石締の夜を出歩くことを許されている数少ない人間――芦崎文乃であった。
地元の名家の出身である彼女は、齢十七の心情故、長年暮らしてきて完全に飽き尽くした地元に訪れた近代化の波に真っ先に飛び乗った人間であった。
そして――規則内での破天荒な行為を行う女として、地元では有名であった。
その破天荒な態度は市内全域に大量のシンパを作り、西出原の高校生間の勢力図に少なからず影響を及ぼすほどの存在でもあった。
――しかし。
あくまでも規則は守る彼女が、一度だけ、石締で禁忌とされる夜遊びを行ってしまったことがある。
それは借りていた本を近所の友人に返しに行くだけという、翌日の早朝でもできるはずの行動であったが、何かに惹かれるようにこの時の文乃は外を出歩いてしまっていた。
家族は全員午後九時半に寝るという習性があるため、文乃の夜間外出を咎める者は存在していなかった。
そして、借りていた本を友人宅のポストにぶち込んだ帰り道、文乃はまつろわぬ化け物――鳥と獅子を混ぜっ返したような四つ足の獣の襲撃を受け、その短い生涯を終えた――
はずだった。
文乃が一歩歩くたびに、音もなく空間がざわめき立てる。
がんがんがんがんがんがん、とそのざわめきは文乃が一歩進めるたびに反響していき、空間にはテレビの砂嵐のようなノイズが迸っていた。
「うっさいなぁ」
と言って、フン――と嘲笑の意味を込めて鼻を鳴らした文乃は毛筆を構え、一言、二言言葉を発した。
すると次の瞬間、毛筆の先端が一瞬にして光を通さない漆黒に染まり、ぽたり、ぽたりと地面には液体が滴り落ちていた。
すう、はあ、と深呼吸をした文乃は、腰だめの姿勢で毛筆を構えると、先端を染める液体――墨汁を盛大にぶちまけた。
その動きは、まるで荒ぶる筆を制し和紙に墨を刻む墨象家の如き鬼気を放っていた。
「パギイイイィッッッッーーーーーーーー!!!!!!!!!」
静寂の街中に、聞くだけで鼓膜を爆破されそうなおぞましい叫びが響き渡る。
漆黒の墨汁で彩られ、街路灯に照らされたその姿は、ささくれ立つトサカに竜頭、胴体は手足のない巨大な蛇という、まさしく竜頭蛇尾――規模が違いすぎるが――を体現していた。
「ほうら、アヤカシさん。ちょっと遊んでかない?」
街路灯の光が、文乃のギラギラとした歯に反射していた。
◆◆
まつろわぬ化け物に殺されたはずの文乃は、わずかな胸の痛みによって、己の部屋のベッドで目を覚ました。
その身体は五体満足、魂が奪われたと実感するようなこともなく、胸の疼き以外は毎日迎える朝と同じものであった。
胸の疼きが気になった文乃は、ベッドの上で上着を脱ぎ散らかし、水色のスポーツブラ一枚の格好になり、部屋にある鏡に己の姿を映し出した。
「……なぁによ、これは」
そう自分に言い聞かせるように、胸の上部で光り輝いていた羽ばたく鳥を模したような紋章をなぞる文乃。
ドクン、ドクンと、その紋章は心臓の鼓動めいて光り輝いており、己の意思とは関係なく輝き続けるそれに、文乃は言い表せぬ恐怖を感じていた。
なぞっても、引っかいても、引っ張ってもその紋章は消えることはなく、ただ己の柔らかな皮膚を傷つけるだけであった。
そして、文乃の意識を引っ張るものは、もう一つ存在していた。
件の化け物から逃げる最中に爪でぶった切られ、そのままどこかへ行ってしまったはずのふくらはぎから下の右足が、わずかに疼きながら元通りになっていたことであった。
生き残った以上儲けもん、それ以上は望まず――という陽の面を持つ文乃と、気になるもんは気になってしまう、己の体に残されたこの謎を解かない限り動くことはできない――という陰の面を持つ文乃が頭の中で争っていたが、
ぐるるるるる――――
という空きっ腹の底から響く音が鳴り、文乃は大人しく朝食を食べに居間に足を運んだ――。
◆◆
無人の団地を駆け抜ける影二つ。
一つは、赤いジャケットを纏い稲妻のように石締を走る、芦崎文乃。
もう一つは、建物の影を食らい続けながらひた走る竜蛇。
竜蛇が食らった影に追随していた家や店などの建物は、一瞬にしてぼかしがかかったように不安定な存在となり、今にも消えかかりそうな状態となっていた。
その光景を見た文乃はわずかに舌打ちを挟むと、無造作に突き進む竜蛇の眼前に躍り出て、筆を構えた。
【炎】
文乃が筆によってその文字を空間に描いた途端、火をつけられた紙の如く空間上の文字が発火した。
そしてその数秒後、暗い深夜を煌々と照らす太陽が、石締の街中に突如顕現した。
まるで意思を持つかのように燃え盛るその大火は、どろどろと大地を這い回る獣を一瞥すると、
――ゴアアアアアアアアオン!!!!!!!!!!
という、咆哮とも爆発音とも聞こえる声で、獰猛なる叫びを上げた。
「行け!!!」
文乃がブン――と筆を振り回すと、炎の象徴は竜蛇に襲い掛かり、その長い体を焼き尽くした。
「パギィィィイーーーーーーーーー!!!!!!!」
己の長い体をギリギリと締め上げる炎に苦悶の叫びを上げた竜蛇の怪物であったが、泣いても叫んでも現状が変わることはなく、炎の締め付けがより一層激しくなるだけであった。
「もっと欲しいだろう? そら、くれてやる!」
【炎】【写】【増】【写】【写】【写】【写】【写】【写】【写】【写】【写】【写】
【増】の字により、一瞬にして文字を増殖させた文乃は、強く息を吸い込むと、パチン――と指を鳴らした。
次の瞬間、ほんのわずかに空間が歪んだかと思うと、肥大化した火柱――否、この世界に非ざるほどの大火を纏う竜が、空間を割り開いて顕現した。
「その化け物を、ヘビ花火に変えてやれッ!!!」
文乃が、本能を叩きつけるように叫ぶ。
その叫びに応えるように、火炎竜は悶え苦しむ竜蛇を飲み込み、凄まじき熱量を以て竜蛇の長ったらしい総身を蒲焼に変化させた。
「パギイィィィイイイィ―――――――ィ、ィ、ィィィ……」
念入りに業火によって炙り尽くされ、まさしくヘビ花火と化した竜蛇の化け物は、力なく崩れ落ちると、グズグズと泥のように崩壊し、石締の大地に溶け込んでいった。
それと同時に、不安定な状態となっていた民家や店の軒先のもやが消失していった。
「さて、これで――ッ!?」
その言葉と共に、文乃はその場所を急いで飛び退いた。
ドッギャア――ン!!!!!!!!!!
という鼓膜を揺らす爆発音が周囲一帯に響き渡ったのは、文乃が爆心地より飛び退いてからわずか数秒後のことであった。
「ッチ、新手かよ……!」
再びの舌打ちを挟んだ文乃は、腕に巻いていた時計、そして眼前に立ちふさがる新手――二つ剛腕と体格の良い肉体で己を見据える化け物を交互に見比べて、如何様に時間を稼ぐかのルートを考えていた。
【盾】【写】【増】【写】【写】【写】【写】【写】【写】
ギリギリと弓なりの姿勢から放たれようとしている剛腕を見た文乃は、咄嗟に筆を振るわせ、触れる者を弾く絶対の障壁を作り出そうとしたものの――
パン――と拳の一振れで砕け散った障壁を見て、
「嘘でしょ」
と情けない声を上げざるを得なかった。
己が先ほどまでいた所は、実に見事なクレーターが完成していた。
化け物がもたらした風圧は、文乃の柔肌をちりちりと焼き、砂塵ならぬコンクリート塵を周囲一帯にまき散らしていた。
「ケホッ、ケホッ、あんなのモロに食らったら、一発アウトだぞ……」
そう言いながら、文乃が筆を構えなおそうとした次の瞬間、既に剛腕の化け物は両腕を西部劇のガンマンめいて構えており――
――ボゴン。
極めて歪な音をした気弾が、文乃の左脇腹をかすめ、爆破した。
「がっ……あっ……」
一瞬にして全身を駆け巡った激痛に、思わず崩れ落ちる文乃。
その隙を当然化け物が見逃すはずもなく、その双腕に全力を込めて文乃を叩き潰そうとしたその瞬間――
【爆】という字が書き込まれた一矢が、剛腕の化け物の眉間を貫き、その頭を一瞬にして崩壊させた。
◆◆
「スキャンかけて調べましたけど、貴方の言うような胸のシミなんて見つかりませんでしたよ」
「マジっすか」
「マジです。気になるのでしたら専門の病院で検査してもらったらどうです? 紹介状書きますんで」
「……いえ、そこまでして気になるようなもんでもないので」
そう言うと、文乃は自分たちとさほど年の離れていないであろう養護教諭の元を離れた。
運のいいことに騒動の翌日は健康診断の日であり、これ幸いと文乃は体を調査してもらったものの、どうやら胸元の紋章は己以外には見えていないようであった。
自分以外持っていないものを手に入れたと言えば聞こえがいいが、得体の知れないものが自らの体に埋め込まれていることに、文乃は底知れぬ恐怖を感じていた。
「――オイ、起きろ。もうみんな部活行ったぞ」
目を覚ました文乃の前に立っていたのは、文乃の同級生にして、学校の弓道部の三本の矢の内の一本としても名高いポニーテールの少女、塚原静華であった。
端麗な顔立ちを台無しにするような不愛想を常に続ける彼女は、それでもなお鋭い目と凛とした背格好で校内の人気を博していた。
同じクラスであったものの、友人の友人というような立場であった静華が自らを起こすというのは珍しく、文乃はわずかに違和感を覚えていた。
「……静華も今日部活じゃないの?」
帰宅部統括部長である文乃があくびをしながらそう言うと、静華は首を横に振った。
「夏大会の貢献で三日休み貰った。ま、私ほどの実力になればいてもいなくても変わらないんだが」
そう言って、フン――と静華は鼻を鳴らす。
この実力に裏打ちされた自信も、静華の人気の秘訣であった。
「あーそうかい、じゃあなんでまだいんの」
「お前に用事があってここにいる」
「は?」
すわ告白か、あるいは決闘の申し出か、それとも両方か。
そっち系の感性は生憎持ち合わせておらず、決闘であるのならば眼前の存在にワン・パンチでぶっ倒されるのは目に見えている――というところまで思考を巡らせた文乃は、丁重に申し出の断りを呟こうとし、次に静華が起こした行動に目を見開いた。
「ちょっとちょっと、何しちゃってるんですか貴方という人は」
教室内には己と文乃以外の誰もいないことを見計らった静香は、外界と素肌を隔てる三枚の壁の一つ――半袖のワイシャツのボタンを上から外し始めた。
それを見た文乃は、己にはその気はないことを念入りに脳内で復唱しながらも、弓で鍛えられたであろう引き締まった肉体から目が離せなかった。
惜しげもなくワイシャツを脱ぎ去り、二枚目の壁――中シャツの姿となった静香は、ンン――と咳払いをし、ガバリとシャツをめくりあげた。
「う、うわ、うわわわ……!」
体育の際に横目で追っていた肉体がいきなり目の前に現れたことに、文乃の心臓は叫びをあげていた。
クラスの女子の中では中の上程度の胸、それよりも優先されるは、クラスの女子全員が羨むような一切の無駄が存在しない刀のように引き締まった腹など、目を引くものが多数存在した結果、文乃の眼は乱高下していた。
「……これが見えるか、芦崎文乃」
しびれを切らした静香は、グイと文乃の顎を引っ掴むと、己の胸元へと目を向けさせた。
そこには、己の胸元にあったのと同じにして異なる、蝶を模したような紋章が、ギラギラと艶めかしく光り輝いていた。
「見え……ます」
「そうか。なら、私たちは同類ということになるな。お前にもあるのだろう? この紋章が」
そう言って、パチン、パチンと文乃の制服のボタンを一つずつ緩めていく静香。
文乃はその行動に抗議しようとしたものの、己のうちでざわめき立てる感覚、そして、普段の大人しい静香からは考えられないような威圧的な意志が込められたその手によって、身をよじることすらままならなくなっていた。
「……やはりな」
衣服をするすると引っぺがした先に存在していた羽ばたく鳥の紋章を見つけた静香は、ニヤリ――と唇を歪めると、文乃の衣服を強い力で元に戻した。
「お前も、魔月の連中に襲われたクチだろう?」
「……マ、マガツ?」
「この西出原の夜を跋扈する、極めて度し難いクソッタレ共だ」
◆◆
脳天を射貫かれてもなお立ち上がろうとする巨腕の化け物を見た静香は、疾走の勢いをそのままに、ビリビリと閃光が迸る電信柱を蹴って飛んだかと思うと、ブン――と自らの獲物を振り回した。
鏑藤にわずかに毛が付けられたその細く湾曲した筆こそが、字を操り、魔月を狩る静香の獲物であった。
筆より空中に撒き散らされた墨は、一瞬にして数本の矢へと変わり、それらをまとめて引っ掴んだ静香は、至極丁寧に筆に矢をつがえ始めた。
打つ。撃つ。討つ。
挨拶代わりに静香が放った三本の魔弾が、脳を撃ち抜かれても倒れようとしない剛腕の化け物の脳天、心の蔵、右腿を正確無比に串刺しにする。
魔弾が刺さった箇所は凄まじい速度で緑が侵食していき、数秒後に緑が全身に染み渡ったかと思うと、どさり――と剛腕の化け物は大地に倒れ伏し、蒸発した。
化け物が倒れ伏すのを確認した静香は、急いで文乃の元に駆け寄った。
文乃の左脇腹からは、鼻につく香りをした紫色の液体がとくとくと零れ落ちており、口からは荒い息が漏れ出していた。
「――この、増上慢めが」
戒めを込めて、静香は文乃のモチモチとした左脇腹を絞り上げた。
文乃の顔が苦痛に歪むのと同時に、左脇腹を汚染していた紫色の液体は一気に絞りだされ、健康的な肌色に戻っていった。
「この増援といい、最近は一段と凶暴になりつつあるな……警戒しなくては……」
そう言って文乃を背負った静香は、背中の荷物を配達するべく、石締区の地図を取り出し、電灯に照らし出した――。
人を狩る魔月が存在するのであれば、魔月を狩る人も存在するのが常式。
筆と墨に念力を込め、文字を作り出す狩人。
それすなわち筆法少女。
人が人として生きられるようにするための、最後の番人であった――。