笛の音響くこの空に・十五
初瀬光次郎は迷わなかった。
肌が粟立つほどの焦燥が今、全身を駆け巡っている。あの獣じみた、否、獣にすら成っていない咆哮が、時が経つにつれ切っ先の捻じ込まれるようなおぞましさとなって思い返されるのだ。
一直線に少女を受け取った場所へと戻る。移動している可能性など考えない。本能めいた勘に全てを任せ、疾駆する。
<魔人>の速度をもってすれば月の歩みも然程は行かず、目的地まで辿り着く。
果たして、夜天を仰いで男が立ち尽くしていた。
異様である。
光次郎よりも更に頭一つ高い巨体。面立ちは白色人種か。限界まで見開かれ、血走った眼から涙の溢れた跡がある。
警告は要るか? 要らぬだろう。屠るべき敵であると光次郎は決めた。
大太刀が下段より斜めに跳ね上がる。
男の、<殺戮獣>の反応は迅速だった。容易く間合いの外まで跳び退いていた。
『殺せるッ! 殺せるゥッ!!』
光次郎には訳の分からない叫びとしか聞こえなかった。
躊躇なく踏み込む。
そして狂犬もまた、踏み込んだのだ。
月に煌めき飛翔するは凶刃の流星、加速した上もう一段の加速を重ねて放たれた飛剣。視界に捉えた瞬間、光次郎は大きく横に跳び転がった。
刃の貫いた木々の幹は爆散、撥ね飛ばされた残骸が降り注ぐ。
光次郎は転がった勢いのままに腕一本で跳ね起き、更に横に跳ぶ。果たして狂犬は懐にまで迫っていた。両の短剣を順手逆手と鮮やかに切り替えながら、刺突は篠突く雨、斬撃は跳ねる水滴と、上下左右切れ目なく攻撃を組み立ててくる。
『どうしたどうしたどうしたハァッハアアアッ!』
双眸が金色に輝いている。
正気ではない。いかに<魔人>と言えど異常に過ぎる。攻勢を何とか凌ぎながら光次郎は機を探る。
間合いの相性が悪い。よりによって狂犬が得意とするのは大太刀の外と内。中距離では優位を取られ、一度こちらの懐に入り込んだが最後、引きはがすのが難しい。
光次郎の剣は攻撃に重きを置く。相手を守勢に追い込むことで己の身を間接的に守るのだ。<魔人>は理不尽を行う、往々にして道理を覆すとはいえ、大太刀が守りに向くはずもない。
しかし不思議と落ち着いていた。不思議とかわし続けていた。
攻撃を見切れているとは言えないが、感じてはいた。殺意の流れとでも言おうか、肌を撫でてゆく冷たさの後をなぞるように刃が来るのだ。
一息だけ笑みが漏れた。鏡俊介のあの言語道断な力と比較すれば組みしやすいと思ってしまった。
軽い後方跳躍、ただし倒れ込みながら刃だけは残して。『ガチリンノカケラ』は身の丈ほどもある。狂犬は光次郎の姿を見失いつつ刃だけは胸板を断ち割ろうとしているのだ。
やはり反応は迅速だった。半身になりながら避け、斜め後方へと大きく距離を取った。恐るべきは、輝く瞳に未だ狂乱しかないことだ。ほぼ本能だけで動いているのだろう。
光次郎の姿を捉え直すや否や、すぐさま飛剣が降り注ぐ。
左の三本を避けつつ右の三本はまとめて叩き落し、光次郎は改めて構え直した。左半身、落とした腰の高さに備えた左手の甲に大太刀の峰を添えつつ右腕は大きく引く。
「さあ仕切り直しだ」
即座に来る確信があった。
予感通りに流星は飛来した。夜に紛れ、三つ。少し遅れてさらに三つ。軌道を変えて四つ。ぶちまけるように三十余り、同時に狂犬自体も突撃。
対して光次郎は更に低く腰を落とし、地に触れた切っ先を跳ね上げた。
奔るは月光。極限まで練り上げて放つ<曙光>ではなく、『月輪の欠片』の力を借りた飛斬である。
そして光次郎もまた、跳ね上げた大太刀を返す動きと右の踏み込みとを和合させ、担ぎ構えとなり突進した。
両者ともに先行させた射撃は露払い、本命は手に握る刃である。
光次郎は飛剣を躱さない。元より大きく横跳びしなければ対応できぬ範囲に撒かれている。躱してしまえばまた主導権を渡すことになる。
真正面は光の刃が撃ち落とすがそれでも側頭を、脇腹を、腕を、脚を、刃が抉ってゆく。特にごっそりと削れた脇腹と脚は大きい。人間であれば物理的に立つことすら出来ず転倒していただろう。
しかし光次郎は<魔人>である。命は削られようとも傷など即座に復元、一切の遅滞はない。残り少ないこの火が消える前に殺し切ればいい。
自然と口を衝いて出た両者の咆哮が重なった。狂乱の獣と捨て身の武者に今、後退は存在しない。
武者の一刀、全てを込めた袈裟斬り。蒼とも朱ともつかぬ光となり、夜を分かつ。
獣の双撃、常軌を逸した前傾姿勢。視認すらかなわぬ刃にて左右より貫き、上下を泣き別れさせんと。
勝ちか、負けか、相討ちか。
大太刀は獣を断ち割った。左肩から右腰まで抵抗すらなく。
その上で双刃は武者の腹を左右から突き破った。
――――相討ちか。
消えゆく<殺戮獣>を認識しながら光次郎はそう思った。
いい気分ではあった。消しておくべき者は屠れた。昔の記憶は戻らないままだがなかなか愉快には暮らした。剣も思い切り振るった。
思考は茫洋として、意外と何も浮かばないものだ。
そういえば、あいつは泣くだろうか。柊真朱。何かと鬱陶しい、剣豪派最弱。
あり得ない。怒ることはあっても泣きはしないだろう。逞しく生きて来た彼女は、逞しく生きてゆくだろう。
大きく息を吐く。自分は倒れてはいない。鼓動はある。腹も復元したようだ。
「死んだかと思ったが――――俺の勝ちか」
笑いが漏れた。
応えがあった。
「ええ、君の勝ちですよ、光次郎君」
いつから其処にいたのだろう。淡い紫の髪と瞳と着物の女、剣豪派代表であるライラックが微笑んでいた。
不思議といつもより優しく映る。気だるげに溶けている顔や悪戯っぽい表情であることが多いものの、そもそもこの女は寒気がするほど美しいというのに、今はそれを忘れさせる。
「何の用だ?」
この状態で更なる戦いを提示されたならば次こそ死ぬことになるだろう。それでも剣を振るう覚悟はあるが。
だが回答は思いもよらぬものだった。
「お祝いっす。君が<魔人>としての階梯を一つ上がったことへの」
「何だそれは、初耳だな」
「<魔人>とは、その力とはいかなるものであるのか。それをどこまで理解、体得しているかの基準です。よく分からないまま感性だけで体現してる人もいますけどね、師直さんとか」
後半は扇子が口元を隠し、悪戯心を乗せたまなざしになっていた。
「地力とこの理解こそが<魔人>の両輪。君は、試合ではまだ<童子切安綱>には及びません。ですが殺し合いなら大きな分がある。君は昨日よりも一回り以上敵を殺しやすく、殺されにくい」
「……察するに俺が死なずに済んだのはそのおかげか」
相討ちになったと錯覚したのは今までの戦いから来た経験によるものだ。共倒れが精々で、全てを尽くさなければ敗北すると無意識は判断していた。
そうならなかったのは<魔人>という存在への理解が進んだから。ああ、つまりは、と光次郎は得心した。本当に<魔人>と成れている者はほとんど存在しないのだろう。大半は階に足をかけただけに過ぎないのだ。
そして理解をもたらしたのはおそらく、鏡俊介との出鱈目な戦闘なのだろう。泥濘の中で悪夢にのたうつような感覚が自分を書き換えたに違いない。
もう一度、今度は小さく息を吐く。
「まだアホやってるアホはいるか?」
「沖に大ボスが浮かんでますが、今夜の君の出番はここまでっす」
それだけで光次郎は納得がいった。処刑人が向かったのだろう。
ならば終わりでいい。命を賭す光次郎とて無駄に死にたいわけではない。
「さらわれた子は無事か?」
「ええ、既に警察には送り届けましたよ。素也君たちがひっそり護衛もしているようです」
「やれやれだな」
座り込み、背を樹へと預ける。<魔人>であるから肉体は今からでも全力を出せるとはいえ、さすがに精神に疲労はある。
見上げた夜空には本物の月が煌々と。彩る雲が紫に浮いていた。
光が翳る。視界内にライラックが入り込んで来た。
「今日は本当に獅子奮迅でしたね」
「一年分は戦った気がするな」
言い換えれば、充実していた。悪くはない。悪くないと思えてしまう自分は長く生きられまい。
口の端が上がるのを抑えられない。
その意味を理解した上で、ライラックが慈愛に満ちた極上の笑顔で告げた。
「ご褒美にこのあたしが、ほっぺたくらいにならキスしてあげてもいいですよ?」
「要らんわ、失せろアホ」




