笛の音響くこの空に・十四
夜闇に遠雷の如く轟くものがある。
それだけで、出歩く人間はいなくなる。現在の日本では<災>の出現が少ないとはいえ、かつての記憶は家に閉じ籠ることこそ最良であると示すのだ。台風の日に海や川に出かけるような者たちも、こればかりは違えない。
無人の夜を初瀬光次郎は駆ける。
何事が起きているのかは分からない。だが直観が鏡俊介だと告げている。あれは沖へと人攫いを救いに行ったように見えた。そして海岸から森、山の方へと破壊が進み、そして先ほどの轟音だ。
行かねばならない、その思い以上に強烈に引き付けられる。願望もある。逃してしまったあれを今度こそ始末したい。
邪魔な木々を大太刀『ガチリンノカケラ』で伐採しながら雷鳴の聞こえた方へと向かう。
天には丸い月が在り、僅かな雲を侍らせて西へと歩みを進めている。その光もこの森からは切れ切れに覗くばかりであるが――――光次郎の、<魔人>の眼は違和感を見逃さなかった。
苔生した大木の幹に寄りかかり、眠る少女を腕に抱いた者が一人。
向こうも気付いたようで、意思に満ちた視線がこちらを向いた。
「やっぱりお前たちには大きな音に近づいて来る習性があるな」
そう言って、咳き込む。苦しそうに肩を揺らしながら。口許から漏れ出した血が消えない。そして少女は動かない。
そんな馬鹿なと光次郎は戸惑う。鏡俊介は死にかけているようにしか見えない。しかし<魔人>は死の瞬間まで十全な能力を発揮出来るはずなのだ。
様々な可能性が頭をよぎり、答えを絞るだけの時間はなかった。
「僕の言葉が通じるのかは分からないけど」
不思議なほどに静かな声だ。
「お前たちがこの子に害をなすことはないはずだ。連れていけ。帰してやれ。僕にはもうそれが出来るだけの力は残されていない」
「……お前」
「唸るな」
鏡俊介にとって自分は<魔人>を殺す化け物としか認識できないのだということを光次郎は思い出した。何かを言ったとしても邪魔にしかならないだろう。だから得物を消し、ただ近づくだけにした。
少女が素直に受け渡される。俊介はもう一度咳き込んだ。そして小さく笑った。見惚れるほどに透明な表情だった。
「その子を助けると友達と約束した。その最後の手段がよりによって<竪琴>とはね」
少女は子犬のようなものだ。この男は約束を果たすため、子犬のために命を懸けたのだ。
愚か。
愚か、なのだろうか。音楽で全ての争いを収めるなどという不可能なことを夢見て狂い、挙句の果てが人間一人のために死のうとしている。世界には何ら変わらぬ残酷が蔓延り、この男は何かを残し得たのだろうか。
「行くがいい。僕もまだ追っ手を少し足止めするくらいは出来るだろう」
後悔とは無縁であるようだった。透き通っているのは表情だけではない。眼差しだけではない。
背が震えた。
気が付けば、言葉を発していた。
「この子は絶対に送り返してやる。俺の命に代えてもな」
返事は期待せず、背を向けて駆け出す。追っ手とやらが何者かは分からないが少なくとも片手間にあしらえるような相手ではあるまい。
笛の音が聞こえた。
月夜に立ち昇る笛の音が、聞こえた。
不愉快な音を辿れば標的はいた。
笛の音だ。苔生した大樹に背を預け、一心に奏でている。
『よお、あいつはどうした? 逃がしたか。無駄だぞ、人間なんてすぐ追いつける』
呼びかけるも返事はない。こちらを見てもいない。目を閉じている。
穏やかな、顔だ。
九号は死ぬ前と死んだ後の人間の顔を数え切れぬほど知っている。
恐怖はありふれている。
闘志もよくある。
何が起きているのかも分からぬ呆けた顔もあった。
憎しみ、悲しみ、あとは笑った者もいた。
だが、気付いていないはずもないのに我関せずとばかりに振舞った奴は初めてだった。
怒りにか、身体が震えた。
『おい』
九号が好きなのは殺戮である。ゴミ処理ではない。
<ケルベロスファング>を突き付ける。
『おい! どうした、剣をとれ! まだ戦えるだろ、くっそふざけんなァァァァッ!!』
返事はない。ただ笛の音だけが緩やかに流れ続けている。
震えが止まらない。見下して来た輩もまた多いがそんなものは殺戮の味付け。これほど虚仮にされたのは初めてだった。
握る手に力が入らない。
『命乞いはどうした!? 笑え! 泣け! 死ね、死ね、死ねェッ!!』
得物を大きく振り上げる。それは大きな隙だった。腹を薙がれて上下に泣き別れていてもおかしくはなかっただろう。
だが笛の音が響く。調べは優しくも揺るぎなく。
『死ねェェェェェェェェッ!!!』
異常だ。震える。自分は今、刃を握っているのだろうか。
おかしい。既に殺して、滅多刺しにしていなければならない。何の反応もなくとも、せめて手応えくらいは愉しまないと。
この色褪せた灰色の世界には、そのくらいしか面白いものなどないのだから。
九号は知らない。考えたこともない。薄汚れた街、薄汚れた空、臭い男、臭い女。血の臭い、汚物の臭い。金切り声、怒鳴り声。そんなものが世界を構成している。
笛の音が響く。沁み徹ってゆく。
騒めく雑踏、どこかから聞こえて来る喜びの声、押し込めるように重く垂れさがる雲の切れ間から差し込む黄金。
濁った河の畔に並ぶ男女はなぜ笑っている。凍える風に身を寄せ合い、なぜそんな目をしている。
知らないはずだ。知らないはずなのに。
老いさらばえた男を疲れた顔の中年女が世話している。お前は何をしている。なぜそんな静かな顔をする。
夢破れて泣く女の傍らに、犬。じっと見つめている。
政治家が地元の酒場で陽気に肩を組んでいる。なぜそんな安酒に酔って腹の底から笑っているのだ。
頬が寒い。皮膚を剝がされてしまったようだ。これは何だ。
『俺に何をした!? <僭神>で何しやがった!!?』
応えはない。ただ笛の音が夜風に乗って遠くまで行くだけだ。
九号は鏡俊介のことをまるで理解していない。そして鏡俊介も九号のことをまったく理解していない。
俊介はただフルートを吹いているだけだ。異能もなく、強化もなく、いつものように。
いつものように、音楽と成っている。そして音楽は言葉の通じぬ、分かり合えぬ者たちをも繋ぐのだ。
目を向けていなかった景色を思い出させる。聞いていなかった声を思い出させる。すべての殻をすり抜けて、自身でも知らなかった己を呼び起こす。
魂揺さぶる情動に、九号の振り上げた手が震えた。
『おおおおおォォォォォォおおおおおおおおッッッ!!!』
咆哮を上げる。
認めナイ。
諦メナい。
揺るいデはナらナい。
『俺は<殺戮獣>九号ッッッ!! 殺す殺す殺すッ!!」
サツイ、さつい、殺意。確かに此処にある。てに、にぎり締めた得物の感覚がもどってきた。たしかに此処に在る。
鏡俊介が音楽であるならば、<殺戮獣>九号は殺意であった。
揺れ、ぼやける視界にもかかわらず、抜けてゆく力にもかかわらず、殺意はついに刃を振り下ろした。
それは過たず、鏡俊介の命の灯を消し去った。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッッッッ!!!!』
笛の音が止み、月下に原始の咆哮が響き渡った。
雄叫びが聞こえる。
ああ、鏡俊介が逝ったのかと、光次郎は覚った。
腕の中の少女は幸いにもまだ目覚めない。
そしてもう街中にまで退避できていた。とはいえ安心には早い。人前で仕掛けて来る<魔人>はまずいないとはいえ、今回の相手がそうではない保証はない。それこそ鏡俊介のように余人に認識させないようにする能力を持っていることはあり得る。
屋上を行く。この時間になってもまだ眠らぬ人々を眼下に跳躍する。
ひとまずこの財団派の中枢、<薄暮離宮>に連れて行くべきだろう。近場で最も安全なのはあそこだ。この状況でも<魔人>はそれなりにいるであろうし、何よりオーチェがいる。
そちらへと足を向けようとしたところで横合いから声がかかった。
「光次郎さん!」
それが誰のものなのか、すぐには思い至らなかった。少女を庇いつつ警戒とともに振り向き、顔を確認してようやく気付いた。
中肉中背と言うにはやや高めの背丈、精悍ではあるが人の好さが勝る顔。<三剣使い>、最上素也だ。
僅かに遅れてその<剣>である三名もやって来た。
「その子は攫われてた子ですか? <奏者>はどうなりました?」
息せき切って尋ねて来る。察するにオーチェから説明を受けた後、飛び出して来たのだろう。
来させないようにと忠告したはずだ、と玲奈に言いかけて、さすがに可哀そうなのでやめた。青い顔で唇を噛み締めているところを見ると、おそらく止める間もなかったのだろう。
「あいつは……多分死んだ。こいつは返してやってくれと頼まれた。そうだな、ちょうどいい。お前が引き継いでくれ。よく考えたらオーチェ経由で返すことになるはずだからな」
財団派は、<災>に対抗する組織としての裏の顔を持つ、という設定で一般社会と繋がっている。こっそり自宅に放り込んでくるよりも流れとしては自然だろう。
<三剣使い>を殺さんばかりの強い視線で射竦めんとする。
「ただし、俺は命に代えてもこいつを無事送り届けると約束した。だから何かあったらお前腹切れ。俺も後から切る」
「ちょっとアンタなに勝手なこと言ってんの!?」
いきり立ったのは髪を右のサイドテールに結った少女だ。気の強いトラブルメイカーと誰かが評していたのを覚えている。玲奈も最後の一人も動揺を見せているので気持ちは同じなのだろう。
そして、彼女を制止したのは<三剣使い>自身だった。
「まだよく呑み込めてないけど、分かりました。俺も命を懸けます」
真っ向から不敵に視線を迎え撃ってくるのは、なるほど、英雄の器だろう。
自分の胸に渦巻く思いを光次郎は如何とも弁別しがたく思う。
「任せたぞ。こっちはまだやることがある」
「はい」
もう問いはなかった。互いに為すべきことを見据え、駆け出した。




