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<夜魔>抄・十




 不思議と落ち着いていた。

 灰色の道路、灰色の建物、仰げば夜だというのに灰色と思える空。

 駅の脇、駐輪場を挟んで広がる芝生も今は色が抜け果てている。

 風もない。遠くよりの靴音が静寂を引き締め、鼓動とは異なる拍子であるのに子守唄のように響いた。

 鮮烈な赤いドレスで<夜魔リリス>は伏目に佇み、時を待つ。

 <帝国>(エンパイア)は崩壊した。臣下なくして女帝などと名乗れようものか。

 左手の読み古した本一冊だけを供に一人の<魔人>へと戻り、だというのにむしろ清しい。

 もっと早く皆を真っ当に統制していればまた結果は違っただろうか。思い、即座にそれはないと否定する。皆を助けるためにあれほど耐え忍び続けて来た相馬小五郎、あれだけの男が、処刑人が来たと察した途端に死を当然のものとして受け入れた理由がよく分かる。

 <呑み込むもの(リヴァイアサン)>はいかな戦力をも呑み込み、殲滅するのだ。

 勝ち目はあるか。これは自問するまでもなく、ない。たった一つを除いてだが。

 凌駕解放オーバードライブ、<落艶エデン>。

 あれに取り込むことさえできれば、すべてを覆せる。

 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。

 <夜魔リリス>は待つ。

 何も考えなくていい。来るのは自分を殺す処刑人。何も疑う必要はない。敵意、殺意は信じられる。

 やがて見えるロングコートの姿。この真夏であるのに。大きく開いた右の袖、そこから覗く巨大な籠手。

 このとき初めて、<夜魔リリス>は処刑人の顔を見た。どこまでも事務的で、処理すべき書類に目を通そうとしているだけの眼差しが、男であることへの不快感を和らげてくれる。

「<夜魔リリス>と呼ばれているわ、<呑み込むもの(リヴァイアサン)>。以後、お見知りおきを」

 スカートの裾を摘み、優雅に一礼(カーテシー)。これは誇りである。たとえ不利となっても、礼を示すべき相手と思えば行う。

 するとまるで返礼であるかのように、初めて処刑人の歩みが止まった。

「申し訳ないが、以後はない」

 平坦ながら律儀にもそんなことを告げたのだ。

 意表を突かれ、<夜魔リリス>は数呼吸の間、声を失った。

 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。

「この世界はあなたが死ぬか、あなた以外がすべて死なないと解除されない。そうだったかしら」

「ここは半径10キロメートルほどの独立閉鎖空間とでも言うべきものだ。現実を鋳型にしているから形は残っているが、生きているものは既に僕と君だけだ。僕を殺さない限り、君はここから出られない」

「何がどう転んでも、以後はないということね」

 僥倖だった。時間を稼ぎたい<夜魔リリス>にとっては、他愛ないやり取りであっても会話が成立するならば活かさぬ手はない。

 微笑を浮かべ、続ける。

「でも驚いたわ。処刑人というくらいだからただ殺していくだけかと思っていたのだけれど」

「間違ってはいない」

 ほとんどの男を篭絡する笑顔も処刑人には通じない。構えこそとっていないが、油断などできたものではない。その腕を振るうだけで一撃の下に<魔人>を屠っていたことは<夜魔リリス>も確認している。この次の瞬間に殺されていてもおかしくないのだ。

 しかし、悪寒に冒されそうな意識を鎧い直す。

 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。

「何か訊きたいことでもあるの?」

 ただ殺すだけが処刑人であるのなら、この会話には理由があるということだ。

 果たして、処刑人が初めて瞳に興味の色を覗かせた。

「君の戦格クラスについてだ」

「なるほどね」

 <夜魔リリス>は得心した。<帝国>(エンパイア)を作り上げた異能を知りたいのだと判断したのである。

 <竪琴ライラ>にとっては目障りな能力だろう。第二の<帝国>(エンパイア)を出さないために、あるいは出してしまったときのために知っておきたいのだろうと。

 が、その予想は裏切られた。

「一方はおそらく<タイラント>だろうと思うが、もう一方が分からない」

 処刑人はいとも容易く言い当ててのけた。

 鎌をかけているのか、平坦な表情からは読み取れないが、そもそも<タイラント>の名を知っている時点でどちらであっても大差ない。

 自分を<魔人>にした魔神、どのような存在であったのかはよく覚えてはいないが、この戦格クラスを持つのは二人目だと言っていた。

 とぼけることも頭をよぎったが、やめておく。話は弾ませておいた方が長く続くだろう。

「よく知っているわね」

「先ほどまでの様子からするに皆、君に喜んで従っていたわけではないようだ。君との力の繋がりがあったようでもあるし」

「……なんですって」

 思わず呟いたものの、よくよく考えてみれば逆らうことで耐え難い苦痛が自動的に発生するのだから、それを与えるために力が通じていて不思議はない。

 しかし自分にすら感じ取れないものをなぜ処刑人が把握しているのだろうか。

 問う間もなく淡々とした声が続く。

「魔神は個々の意思を尊重する。間接的にでも他者を従わせる異能を持つ戦格クラスなど、作るのは一柱しかいない。そして戦格クラスも一つしかない」

 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。

「<金星結社パンデモニウム>の首領補佐、<軍王パイモン>はその能力で結社とは別の軍団を作り上げているそうだ。君のものもそれと同じと踏んだ」

 思わぬ大きな名に<夜魔リリス>はたじろいだ。

 <金星結社パンデモニウム>の名は知っている。中東から欧州、北アフリカにかけて暗躍している<魔人>集団だ。何の主張もなく、理想もなく、ただ秩序を破壊し人を殺すだけの、最も忌まわしい存在。

 どのような者が所属しているのか、一部を除いては知られていない。しかし<軍王パイモン>は有名だ。首領たる<明星ルシファー>の下、<金星結社パンデモニウム>を統括しているという。

 それだけに疑問も湧く。<軍王パイモン>はまさに名のみが有名、自身は表にほとんど出ない。指し手とはそうあるべきであり、核となる異能など広めさせてはならない。ましてや<金星結社パンデモニウム>である。本当に<タイラント>であれば仲間にすら知らせぬはずと、<夜魔リリス>は震えた。

 ありえないのだ、あの異能の条件は他人に知られぬよう、万全の注意を払うはずである。

「その<軍王パイモン>は自分の能力を言いふらしてでもいるの?」

 処刑人は他者を従わせる異能としか言ってはいない。完全な条件を知っているとは限らない。そう自分に言い聞かせて心を落ち着ける。

 果たして答えは曖昧なものだった。

「いや、隠してはいるんだろうが。あいにく僕の院生時代の恩師は魔神学の第一人者でね。知っていたのか推測したのかは分からないが、何にせよこの分野であの人より博識な人はいないよ」

 だが続いた言葉は異なる方向から<夜魔リリス>を貫いた。

「<金星結社パンデモニウム>はあくまでも個だ。表面的に協調することはあっても他のメンバーは敵、<無価値ベリアル>はおそらく<軍王パイモン>の能力を見極めるためにという意味でも君を利用したのかもしれない」

「……そんなことを私に言ってどうするの? 動揺でもさせたいのかしら」

 声は震えずに済んだ。処刑人の言葉に嘘がないなら、その洞察もきっと正しいだろう。<無価値ベリアル>には男であること以上の嫌悪を感じていた。あの爽やかな笑顔をおぞましいものとして感じたのはそれが理由であれば不思議はない。自分にとって最も許すべからざることだからだ。

 どうして、と思う。

 私はただ、と思う。

 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。

 過ぎった懊悩は一呼吸だけ。勝たなければここで全てが終わる。

「……まあ、いいわ。それで私のもう一つの戦格クラスについて知りたいのだったかしら」

 もう少しだ、もう少し引き延ばさなければならない。

「でも私がその質問に答える必要はないわ。交渉なら、何か私にとっての利を提示するのが筋ではない?」

「交渉ではないよ」

 処刑人の表情は読めない。だが、先ほどまでに比べて双眸が熱を帯びているように思えた。

 <夜魔リリス>はくちびるの弧を誘うように大きくした。

「それなら、恫喝?」

「恫喝でもないね。答えようが答えまいが君を殺すことに違いない」

「それなら何なのかしら」

「ただの興味だ。答えたくないならそれでいい」

 尋ねておきながら、なんとも気のないことを言う。だがやはり、事務的な色が薄れ、人らしい興味が覗いていた。確かに言葉通りではあるのだが。

 迷う。

 答えればそこで会話は終わってしまうかもしれない。逆に、答えず、食い下がられなければもっと早く終わるだろう。

 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。

 まだ時間は必要だ。もう少し引き延ばさなければ。

 決めた。

「申し訳ないけれど、もう一つの戦格クラスは私自身にも分からないの。何か異能があるようにも思えないのだけれど」

 本当のことであるが、むしろとぼけていると受け取られることを<夜魔リリス>は望んでいた。そうすれば真実を引き出そうとしての駆け引きが始まるはずだ。実際には本当のことなのだから、はぐらかすにも限度はあるが。

 処刑人の表情は動かなかった。ただ、ひどく落ち着いた声で問うて来た。

「名前くらいは分かるかな?」

「……<エンブリオ>と言っていたかしらね」

 <魔人>と成ったときの記憶はほとんどない。何もかもがぼやけて、しかしその名はしかと思えていた。

 回答は反射的に、しかしこの程度ならば問題あるまいと後から判断する。

 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。

「そうか。ありがとう」

 虚を突かれた。

 当たり前のような礼の言葉に、<夜魔リリス>は言葉を失った。

 それは久しく耳にしなかった響きだ。懐かしい、かつての記憶が疼く。色褪せ、擦り切れ、よくは思い出せないけれど胸を締めつける。

 自分を殺しに来たというのに、もうまなざしから熱は失せ、揺るぎない敵でしかないというのに、口にしたのはそんな処刑人。

 ほんの一呼吸の間だけ、心が透明になる。駆け引きも何もなく、くすりと自然な笑みが漏れていた。

「どういたしまして。あなたは……変な人ね」

「返答に困る評価だ」

 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。

 再び動悸が激しくなってゆく。完成は近い。

 恐怖は常に身を侵そうとし、意思でそれを捻じ伏せる。

 視界の中、処刑人はゆっくりと腰を落として、右腕を引き絞ってゆく。

 背筋が凍った。間に合わない、思い、しかし重々しい姿はそこで動きを止めた。

 止めただけだ。力は更に研ぎ澄まされてゆく。

 解き放つのはいずれが早いのか、<夜魔リリス>にとっては鼓動の一つ一つが賭けだった。

 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。

 落ちた。

 落ちた。

 落ちた。

 落ちた。

 背を痺れが駆け登った。

 楽園が、降りて来る。

 極限まで時が停滞する。その中で<夜魔リリス>の意識は謡った。


 “何も怖がらないで”


 “ここは常春、ここは楽園”


 “誰もあなたを傷つけない、飢えもあなたを冒さない”


 “ただ幸福に、ただ笑い合いましょう”


 “ここには既に知恵の実はないから”




「<落艶エデン>」




 <落艶エデン>は対象に直接作用する。軌道など存在しない。

 そして与えるものは負傷や苦痛ではなく、快楽だ。立つことすらかなわなくなり、無様に突っ伏す敵を<夜魔リリス>は悠々と下すのだ。

 発動した以上は防げない。今回も終わる。

 心理的には逆転に等しく、浮き立つ心で勝利を確信し。

 視界の中で処刑人の体勢が変わっていた。

 停滞した時の中で既に拳を打ち出し終わっていたのだ。

 同時に、行使したはずの力が砕かれていた。

 <落艶エデン>に軌道はない。<落艶エデン>には干渉しようがない。そのはずだというのに。

 <夜魔リリス>は処刑人の拳が<落艶エデン>へと触れたのが分かった。

 そして砕いたのはあくまでもただの拳撃だった。消去したのでも無効化したのでもなく、殴り壊したのだ。

 景色が揺らいだ。止まったと感じていた時が動き出す。

 膝が崩れ、へたり込んでいる自分に気付く。

 処刑人は再度の構えを取っている。腰を落とし、右腕を引き絞り、一歩と一撃で殺してのけるのだろう。

「……そういうこと」

 蒼白な頬を冷汗が伝う。今更ながらに気付いた。

「<落艶エデン>を待っていたのね、あなた」

 この灰色の世界で鮮やかな色彩を与えるあの花の存在が目に入っていなかったはずはない。

 にもかかわらず、なぜ無視していたのか。

「君の凌駕解放オーバードライブを確認することは今回の仕事の一つだ。収束し切れていない力が花として漏れていたが、念のためにあれも残しておいた」

 落ちる花は発動までの秒読み、消されたところで何の問題もない。そんなことまで察知していたというのだ。

 <夜魔リリス>は身も息も凍らせた。双眸ばかりが見開かれ、全身の感覚が失せた。

「……あなたには何が見えているの?」

 掠れた声しか出なかった。

 標的を一人も逃したことがない理由が今になって確信できる。悪名高き<竪琴ライラ>の処刑人が出張るような相手がただの<魔人>であるはずがない。自分のように発動したならばそれで勝負がついてしまうはずの力を持つ者や、あるいはあらゆる特異を消去するような者もいたのかもしれない。しかしおそらく処刑人にとってはその全てがただの殴り合いに等しいのだ。

『お前らこそが<魔人>なのか、それとも<魔人>を超えているのか!』

 <贋金メッキ>の叫びは<夜魔リリス>にも聞こえていた。

 あれこそが正鵠を射ているのだろう。立っている場所そのものが違う。見えている世界そのものが異なる。

 処刑人はどこまでも冷徹にこちらを見ている。気負いもなく、油断もなく、目的を果たそうとしている。

 奇跡の余地などない。

 勝てない。

 その四文字が自身に染み透ったとき、これで終わりと覚ったとき、<夜魔リリス>の胸に溢れ出す思いがあった。

「待って! 負けを認めるわ。<タイラント>について知ってるならこれも知っているでしょう? 支配の異能は自分を負かした相手には逆にはたらく、私があなたに逆らえなくなるの!」

 まくし立てる。語調も強まってゆく。

「何だってしてあげる、後で殺してくれていい、だから……」

 掻き口説く。

 ぽろぽろと、頬を転げ落ちるものがある。

「――――だから誰かもう一度、私を愛して」
















 旧い家に二卵性の双子があった。

 妹に裏切られた姉は命だけは取り留めて病院にいた。

 首から上は酷いものだ。皮膚はあらかた失われ、美しかった髪もほぼ抜け落ち、両目は失明。口腔や気道も冒されて、呼吸は切開した気管から、栄養は静脈に繋がれたチューブから。嗅覚もなくなり、耳だけが健在だった。

 男性が近づくだけで怯え、触れられるだけで暴れた。

 眠れぬほどに痛い。なのに涙も流れない。何もかもが分からない。そんな状態が半年以上続いた。

 それでも、心も身体も快復はして来るものだ。面会も許され、見舞いが来るようにもなった。

 勿論、喋れない、表情も何もあったものではないから、ただ聞こえているだけだが。

 多かったのはやはり両親だ。いや、家族なのだからきっと以前から来ていたはずだが、記憶が曖昧でまったく覚えていなかった。

 聞こえるのは重苦しい溜息と、腫れ物を扱う声。

 当然だと姉は思った。どう接していいのか分からないのだろうと、善意に解釈した。

 面識のあった男性たちも来た。

 姉は吐き気をこらえた。忌まわしい記憶が自分の中を掻き回したが、強靭な意志で押さえ込んだ。見舞いに来てくれているのだから、粗相をしてはならない。こんな姿になっても気品だけは失うまいと。

 聴覚が発達してゆく。ほんの小さな息遣いの差異や、ドアの向こうの声までも聞き取れるようになってゆく。

 男性たちが、勿体ないと口にするのも聞こえていた。

 姉はかつての自らの容姿の、異性にとっての価値を理解していた。だから彼らが嘆くのも仕方がない、二度とは来ないことも仕方がない。

 そして友人たちが来た。

 彼女らは泣いた。こんなのひどい、と。

 様々な話を聞いた。妹が行方不明となっているのもこのとき知った。

 元気になってね、待ってるから。そう言い残し、友人たちは病室を出た。

 ドアが閉まった。

 漏れるような笑い声が聞こえた。

 聞こえてしまうのだ。

『笑っちゃ悪いよ』

『いや、だっていい気味じゃん。ちょっと可愛いからってさ。あんたもムカつくっていつも言ってなかったけ?』

『そうだけどさ、あれは可哀想だわ。二度と見たくないレベル』

 友人のはずだった。

 何でも話せる関係のはずだった。

 自分のことを好きだと言っていた。

『なんか変な臭いするしさ、もう吐くかと思った』

『ああ、それでもう帰ろうとか言い出したんだ。もうちょっと見てたかったのに』

『趣味わるっ』

 声はまだ出ない。涙は二度と出ない。

 漏れる空気の音、行き場のない情動に壊される。呼吸ができない。顔を、身体を掻き毟る。

 姉はあまりに善良だったのだ。人は善きものであると、世界が優しい光に満ちていると信じ込んでしまうほどに。

 妹のことは恨んではいたが憎み切れなかった。自分が追い詰めてしまっていたのではないかという思いが消えなかった。

 男性は恐ろしく、あの少年たちを憎みもしたが、決してそれを普遍化してしまってはならないと理解していた。

 けれどすべてはもう崖のきわ、一押しで何もかもが終わる。

 罅割れる。崩れ落ちる。

 どこまでも優しい色をしていた心が、荒れ果ててなお必死に保ち続けていた精神が枯れてゆく。希望が尽きてもまだ毅然とあった光が掻き消えた。

 替わりに湧き出したのは底無しの憎悪だ。

 許さない。

 最初は顎が震えただけだった。

「……ぅるぁ……」

 かすかな声が響いた。

 自らの喉を掴み、挿入された管から抜ける空気を止める。

「……るさなぃ」

 血が溢れた。掻き毟った顔からも身体からも、喉からも口からも。

「許さない」

 好きだと言っていたはずなのに。

 かつての鈴を転がすような声はない。奈落から呼ぶ亡者の響きが迸る。

「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない!!」

 憎悪は噴出孔を一点に定めた。

 妹のことなど忘れた。男への恐怖と嫌悪を遥かに凌駕して、何よりも強く呪った。

 女という女はすべて死んでしまえ。

 そしてそれでもなお、姉の魂は朽ち果てていなかったのだ。

 だからこそ悲劇となった。






 二律背反。

 かつて<妖刀ムラマサ>が口にした通り、<夜魔リリス>は常に両立し得ぬ二つを抱えている。

 心には男への嫌悪と女への憎悪を抱えながら、もう朧になってしまった昔の情景へと魂が手を伸ばす。

 手にした本が落ちる。そこには愛がある。女の美貌が失われたならば、それを見ずに済むよう己の目を突き潰す男の話がある。

 嫌悪と憎悪の狭間で<夜魔リリス>は求めるのだ。自分にとっての彼さえいればそれでよかったのに、と。

 その願いはとうに叶っているはずだった。横山誠の献身は充分に値するものだった。

 しかし<夜魔リリス>は信じられない。自分に対して好意的な者の言葉は雑音のように通り抜けてしまう。口では何とでも言える。泣いて見せることさえ容易い。もう裏切りに傷つきたくない。

 だから敵がいい。害意を抱く者、殺そうとする者、その敵意、殺意なら信じられる。あるいはせめて無関心であれば。

 愛してと<夜魔リリス>は言ったが、応えたならば途端に偽りにしか思えなくなる。既に叶っていた望みが満たされることは決してない。ひたすらに苦しみ、他者を苦しめ、巻き込みながら破滅へと向かうだけなのだ。

 処刑人、名和雅年はそれを知らない。

 ただ誠実に行動した。

 <夜魔リリス>から伸びた繋がりを拳にて粉砕、変わらぬ口調で告げる。

「断る」

「あ……」

 <夜魔リリス>が漏らした声の意味はもはや誰にも分からない。

 死病に抗い続けた蒼白な頬に疲れきった瞳。笑ったような、泣き出しそうな吐息。

 震える足で立ち上がる。

 よろめき、踏み止まり、改めて優雅に一礼(カーテシー)

「お願いがあります」

 儚い微笑みを浮かべ、告げた。

「もう疲れたの。私を殺して頂けませんか」

 処刑人のまなざし、表情は変わらない。構えは微動だにしない。冷徹な殺意をもってこのときも在った。

「元よりそのつもりだ」

 <夜魔リリス>は渦を幻視した。底の知れぬ深淵へと引き摺り込む、暗い暗い渦だ。そこには全ての色があった。何もかもが混じり合い、だから暗いのだ。

 もうずっと、何も分からない。

 何がしたかったのか、どこへ行きたかったのか。

 処刑人が動いた。

 死した<魔人>は塵も残らない。

 心も何も残らない。

 苦しみもまた、残ることはない。






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