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せいくらべ・十二






 無限の虚空を思わせる部屋。

「お馬鹿さぁん」

 薄闇の中に浮かぶレヴィアの映像が甘く罵倒する。

 いつものように男を狂わせる美貌と姿態で、もっとも些かの不機嫌そうな色を隠す様子はない。

「エリスってば、ほんとにほんとにお馬鹿さぁん」

「返す言葉もないな」

 こちらも映像の、エリシエルが小さく頭を振った。凛とした佇まいに翳りこそないが、幾分消沈しているようではあった。

 しかしその程度のことでレヴィアが舌鋒を緩めることはない。

「だからこちらへ寄越せと言ったのよ。魔女派うちはああいう子のためにあるのに」

 魔女派は<竪琴ライラ>の中でも異色である。暴力と退廃に満ちた、しかし一定の秩序は守られる場所だ。

 <竪琴ライラ>の汚名の大半を担う魔女派は、そうでありながら嫌っているはずのオーチェですら無くせとは言わない。

 必要だからだ。

 誰もが行儀よく生きられるわけではない。力を振るいたくて堪らない者、欲望を抑えきれない者はどうしても存在してくる。一過性の衝動であれば時間や環境が変えてくれるかもしれないが、根本から力と衝動が刻まれているような人間、<魔人>は最後まで馴染まない。

 ではそのような存在はことごとく消えてしまえばよいというのだろうか。彼らも人としての多様性の一端を担っているだけだというのに。

 無論のこと、社会の害悪にしかならない者はある。排除するしかない<魔人>はいる。善悪を持ち合わせながらごく当たり前に生きているだけの人間が食い物にされることは魔女派も許容しない。

 魔女派は暴力を暴力のままに、欲望を欲望のままに統制する。混沌とせめぎ合いの中に一本の太い秩序を通す。正義を背負ってなどやっていけないという<魔人>たちの受け皿となり、強者の矜持と義務という理でもって領域に君臨するのだ。

「大人しく暮らしてるだけの<魔人>(しろうとさん)には親切に、はしゃぎ過ぎた馬鹿は吊るせ。これさえ守れば楽園パライソなのに、扱いがひどいですわぁ。あの子ならきっとうまくやっていけたのに」

「この期に及んでだが、私は必ずしもそうは思わない」

 エリシエルが呟くように言った。

「あいつはそう単純ではない」

「虚しい言葉ですわねぇ……そうであろうとなかろうと、事態は動いてしまいましたわぁ。局面は既に、これをどう処理するかの過程に……」

「問題ありません」

 頭上で交わされるやりとりへとこの部屋の主は、ステイシアは静かに口を挟んだ。

「彼は元々当領域で<魔人>になりました。少々問題も起こしていたため、以前から記されています。ですから、あとは大丈夫です」

 そして責めも窘めもせず、寂しげに双眸を伏せた。








 夜の中、山嶺を行く。

 夜の山は闇である。獣か<魔人>でもなければ十全な行動はできまい。

 標高千メートルを超えようと、切り立った崖が立ちはだかっていようと、<魔人>の前には障害とならない。駆ける足を緩める必要すらなく走破する。

 徹にとって敏捷さは最も苦手とする分野だ。まともに追われればすぐに肉薄されることは火を見るよりも明らかだった。だから見つからぬよう、気づかれる前にできるだけ距離を稼いでおけるよう、山を駆け抜けるのである。徹は、そう認識していた。

 木々が左右を流れてゆく。真夏だが高地であるおかげか少しは暑さもましには感じられた。

 徹にとっては懐かしい経路だ。<魔人>となって、娘を殺した男を殺すポーズのために今とは正反対の方向に向かったのだ。

 先ほど騎士派領域を脱出し、神官派領域に入った。上月茜に示された合流地点は神官派領域を越えた更に向こうとなる。それだけの距離をわざわざ移動しなければならないというのはつまり、<横笛フルート>が神官派を極力避けているという情報はどうやら事実であるようだった。

 ともあれ少しは安全になったと考えていいだろう。<竪琴ライラ>の六派は余程のことがない限り他派領域まで進入しない。ここから先、追って来るとするなら神官派の<魔人>だ。

 以前ならむしろ危険だった。神官派<魔人>の力量は極端だ。全体的に見た場合、騎士派ならば落ちこぼれと評するしかない者が多い――――実際騎士派の脱落者はほぼ神官派に移籍している――――のだが、上だけを見たなら騎士派を凌駕する。そしてよりによって極めて足の速い<魔人>がトップクラスに二人も存在していた。

 一方は英雄ヒーロー赤穂裕徳、単独で動いての事件解決頻度なら<竪琴ライラ>最高とまで言われた少年。

 そしてもう一方は深崎陣。<猟兵>(イェーガー)とあだ名される手練れだ。

 この二人がいたならば今頃生きた心地もしなかったろう。

 しかし英雄ヒーローは死に、<猟兵>(イェーガー)は四月あたりからまったく名を聞かない。前者はもちろん、活動できないでいるのであろう後者も恐れる必要はないと考えられる。

 神官派は事態を片付けるのに最適な人員を送るとは言われるが、逃げる相手を複数で追うならば最速のメンバーが足止め程度ならばできるだけの力があるか、あるいは最初から足並みが揃っていなければ意味がない。

 唯一警戒するとすれば、最近力を伸ばしてきたという武島洸。単純な速さだけならば先の英雄ヒーローの全力に匹敵、つまりは神官派最速に達しているという。彼に追いつかれ、時間を稼がれる展開だけはまずい。その場合は無理をしてでも速攻撃破を試みるべきだろう。

 もっとも、すべては気づかれてしまってからの話。まず露見するまでにもかなりの時間は稼げる。自分は騎士派で信用を築いていた。名も覚えていないあの少年が偽りの恋人を即座に告発できなかったように、自分もまたこの信用で時を引き延ばせる。

 やがて騎士派が気づき、神官派に伝え、それからようやく見つけ出そうとして、捕捉できたならば追い始める。幾段階ものタイムラグを経るうちに神官派領域も抜けられるはずだと徹は踏んでいた。

 目的地である財団派領域は混乱の渦中にある。自分への対応などしている暇はあるまい。

 瑕疵もあるが、徹にとっての道理で考えれば妥当な推測だった。

 しかしその妥当は撥ねつけられる。

 夜空が灰色になった。星々の輝きが失せた。樹木は薄墨で描かれたかのよう。何より、すべてから生命の息吹が消え去った。

 異変に気づいたと同時に、不可視の壁に激突。転倒こそしなかったがたたらを踏んだ。

「ここは半径20メートルほどの独立閉鎖空間とでも言うべきものだ。現実を鋳型にしているから形は残っているが、生きているものは僕と君だけだ。僕を殺さない限り、君はここから出られない。諦めてもらえるとお互いに面倒がなくて助かる」

 斜め後ろから声がした。びくりとして振り向けば、一人の青年の姿があった。

 昨夜も見た顔だった。腹立たしかった顔だった。

 二十代半ばと思しき容貌は見目好いものではない代わりに悪くもない。背丈も、日本人男性としては長身に分類されはするが珍しいわけでもない。平凡な容姿とはよく観察すれば没個性ではないものの、気に留められなければ結局平凡の一言で済まされてしまうものだ。

 むしろコートの方が目立つかもしれない。この季節に纏うなど正気の沙汰ではないというだけではなく、右袖だけ異様に大きく広がった、奇妙な仕立てになっているのである。

「………………馬鹿な」

 絶句し、息だけが漏れ、それからようやく搾り出す。

 脅威として忘れていたわけではなかった。だが追跡者として極めて不向きであるはずだったから、排除していた。

 処刑人、名和雅年がそこに立っていた。

「なぜ……どうして貴様がこんなところにいるんだ、<呑み込むもの(リヴァイアサン)>!?」

 これは幻だろうか。夜をさえ、闇をすら侵蝕した灰色の中に在るその姿は、現のものと認識しがたくあった。

 しかし偽りの存在であるにしては、あまりにも重々しい質量を思わせるのだ。

 そして呆気なく回答がなされた。

「名前は忘れたが、疾駆方筆頭マスターダガーの彼の手柄だよ。最後に話したときの君の様子がおかしかったと即座にエリシエルに報告をしていたんだ。その後いつ君を捕捉して離反を知ったのかまではこちらでは把握していないが、どちらへ向かってどのルートを採っているのかさえ分かればあとは問題ない。待ち構えておくことくらいはできる」

 事務的な、しかもお座なりな説明だ。

 けれどもそれを耳にした徹は身を強張らせていた。

 夕方に一輝に会ったことは覚えている。なるほど確かにあのとき自分はいかにも挙動不審だっただろう。事実、いぶかしげではあった。それでも疑問はそのまま呑み込み、重要な用件に話を移してくれたはずだ。まさか、あれは演技だったのだろうか。

 そこまで考え、思い出してしまった。

 刃のような口調の彼は、当然として語られる因果に対しても強いて疑問を呈する役割を自らに任じていなかったか。そんな彼が果たして違和感や疑問を気のせいと片付けてしまうだろうか。

「は、はは……」

 口の端が歪んだ。

 処刑人の言ったことはおそらく事実なのだろう。なんという失態を犯してしまったものか。

 いや、この際それはいい。起こってしまった過去を悔いても未来は開けない。

 徹は全力で計算を始めた。

「……しかしそれにしても早過ぎる。ルートが分かっても、そもそも何十キロ単位の誤差が生まれるはずだ。俺が神官派領域に入ってまだ半時間も経ってないぞ。どうやってここまで近づいた?」

 一帯はすべて山林。連なる山々のどこを通るかなど読みようもないはずだ。いかに<魔人>の知覚が必要時には鋭敏化するといえ、遠く離れた場所の靴音を拾い上げられるものだろうか。獣や木々の音に満ちた中で、靴音だけを。

 そのように、徹は音だと思った。視覚は山向こうでは意味をなさないし、嗅覚とはさすがに考えづらい。当然といえば当然の判断である。

 だから、あまりにも理不尽な答えに怒りすら覚える破目になった。

「領域内であればステイシアは君の位置を精密に割り出せる。近くまで来れば僕も位置と大きさと種類程度なら自前で察知できる。<魔人>の存在は大質量にも似て、局地的に世界を歪ませる」

 淡々と述べられたのは、具体的にはどういう機序であるのかが徹には理解できない手法だ。

 そして口にした言葉を示すものなのか、また別の何かであるのか、処刑人の周囲が僅かに揺らめいていることに気づいた。

「待て、勘違いしている。俺……私は<竪琴ライラ>を裏切るわけではないんだ」

 この状況をどうやって打開すべきか。策を練るため、まずは時間を稼がなくてはならない。

「<横笛フルート>に潜り込んで内側から掌握、改革して<竪琴ライラ>と敵対しないようにするのが目的なんだ」

 もちろん、この場で考えた出まかせである。しかし自動的にその偽りを本心であると自ら信じ込んでゆく。

「<竪琴ライラ>と<横笛フルート>の争いは泥沼に嵌まりかけている。このままでは双方に多くの死者が出しながらいつ終わるかも見えないだろう。だから一計を案じたんだ」

 処刑人は動かない。聞いてはいるのだろうが、冷淡なまでに事務的なまなざしがこちらへと据えられているままだ。

 その興味を動かせているのかいないのか、いずれにせよ徹は語り続けるしかない。

「敵を騙すにはまず味方からというだろう? この意図がどこからか漏れてしまっては狙いが水泡に帰すからね、離反のような形で黙って出てくることになっただけなんだ」

「――――君はおそらく、しばらくの間は<横笛フルート>で活躍できるだろう」

 同じまなざしのままで、処刑人が無感動に告げる。

「なぜか君に心酔する者が現れて一勢力を作り、なぜかより強大な勢力に勝ち、首尾よく<横笛フルート>でも片手の指に入る権勢を得たと君は思うことになるだろう」

 淡々としているため分かりづらいが、その言葉は皮肉である。

 徹も気づいた。

「何が言いたい?」

「騎士派の幹部が裏切った、という形になる君は<横笛フルート>にとって得がたい神輿だ。その宣伝効果が大きく確保されているうちは喜んで接待してくれるだろうね。さすがに<竪琴ライラ>にとっても大きな害だ」

 力、環境、正当性。何でも構わないが<横笛フルート>は自分たちの方に優位があると示したい。そんなとき、寝返りは最高の糧になる。しかも屈強、清廉で知られた騎士派からとなれば格別だ。神輿として高く担ぎ上げるのは当然だろう。

「それはつまり、俺が実力で<横笛フルート>を掌握するのは無理だと言っているのかな?」

 湧き起こった怒りそのものは本物だ。徹は自分の設定を既に信じ込んでいる。

 しかしあくまでも表面的には余裕を滲ませつつ、やれやれとため息をついてみせた。

「随分となめられたものだ。しかしいいのかね? 私を処分しに来たんだろう? 獲物を前にしてお喋りなのは三流だというがね」

「三流で特に僕が困るわけじゃない。君が困るのなら、それは申し訳ない」

 煽ってみても、処刑人は苛立つどころか眉ひとつ動かさない。

 そして告げた。

「それで、まだ訊きたいことはあるだろうか。支障ない範囲で君の疑問に答えることも今回の仕事のうちだが、個人的にはそろそろ打ち切りたい」

「疑問ね……」

 韜晦するふりをして、しかし徹の内心は嵐の如くだった。

 処刑人の何もかもを捉えられない。そこに確かにあるのに、触れるものすべてを呑み込んで曖昧にしてしまうような、底なしの不気味が総身を満たしていた。

 ここをどう脱すべきか。計算が終わらないというよりも、答え自体は最初から見えている。目の前のこの男を殺さなければ出られないというなら、そうするしかないのだ。

 無論、脱出不能というのがはったりという可能性もある。しかし先ほど行く手を不可視の壁に遮られたのは確かであり、仮に他の方向が開いていたとしても、この男に背など向けたなら死あるのみだとしか思えなかった。

「……そうだ、ケイはどうしてる?」

 なおも引き延ばす。せめて何かヒントが欲しい。脱出の足がかりか、付け入る箇所が。

 こんな切羽詰った状況でなければ疑問は次々と出て来たのだろうが、咄嗟に思いついたのはそんなものでしかなかった。

「四辻君なら君を連れ戻すために追っていたらしいが、さすがに間に合わなかったようだ。おそらく君にとっては不運なことに」

 必死に活路を見出そうとしていた。だから最後の言葉を聞き逃した。追って来ていたが間に合わなかったという、不要な情報として流してしまった。

 そして同時に、明らかに時間稼ぎだったと覚られてしまった。

「よく言われることだが、一度裏切った者は何度でも裏切る可能性が高い。僕は彼の思いを叶えない」

 処刑人が一歩を踏み出した。

「では死ね」

 弾かれたように徹は跳び退る。手には戦鎚『ミーティア』、雷は既に纏わせて。

 唇を噛み締める。やるしかない。信じられるものは今や一つ。自分自身の力だけだ。

 既に力の理に生きることにしたのだということを思い出す。自分にはまだ、束縛から解き放たれていない力が眠っている。それを解放してやることさえできればいい。

 肌が熱い。反して芯は凍えている。

 名和雅年。<呑み込むもの(リヴァイアサン)>、<竪琴ライラ>の処刑人。<魔人>たちはその力量を日本屈指と囁き合う。

 実際には分からない。経てきた殺しの実績と、神官派の<魔人>を幾度か手合わせで叩きのめしたときの様子だけが実力を示す全てだ。

 分からない。変わらぬ無感動なまなざしからは何も読み取れない。

 怯えるな。自らに呼びかける。

 五つの雷球が中空に浮かび上がり、螺旋を描いて標的へと殺到した。その一つでさえ優秀な砲撃方ボウの全力に値する。しかも砲撃戦として考えれば距離は至近、対応は困難を極める。

 だというのに処刑人は歩みを止めない。紫電が照らす顔には緊張も恐怖も倦怠もなく、ただ黙々と作業を進める意思だけが見えた。

 顔面に迫った一つを横から右掌が破壊、返す甲がもう一つを破壊、同時に右肘が更に一つを破壊。そのまま四つ目をコートの裾で叩き落す動きを兼ねて左半身となり、脇に拳を構える形へと移行する。そして脚へ向かった最後の一つは左掌で受けてこともあろうか握り潰した。

 そこから一歩。二十メートルに満たない距離など、その気になれば<魔人>には当たり前のように一歩で足りる。

 しかし徹もその一歩を待ち構えていた。

 戦鎚は絶大な破壊力を発揮できる武器である。その重さはあらゆる防護をその上から叩き潰す。替わりに真価を発揮するには振るわれるための軌道が確保されている必要がある。加速、撓り、伸び、それらが作り上げる破壊の最高点に標的を置く必要があるのだ。

 放った雷が潰されることなど折込み済み、既に戦鎚は振り上げられている。

 処刑人が自分自身を狙ってくるのか、それとも『ミーティア』を迎撃しようとするのかは分からない。いずれにせよ、渾身の力で振り下ろされる戦鎚の威力は何にも勝る。ぶつかり合いとなれば凌駕できる。

 果たして一歩を踏み込んだ処刑人は、徹が思っていたよりも僅かにだけ懐の内側にいた。放たれたはずの拳はいつしか開かれ、戦鎚の柄に触れ、押していた。右上方から袈裟に振り下ろされる『ミーティア』を右へと弾き飛ばしたのである。

 動きは止まらない。徹の視界に映ってだけはいた。戦鎚を弾いた形からそのまま、処刑人の右腕は肘を頂点とした三角を形成、僅かに身を沈めた。

 その肘は言わば穂先である。穂先が徹の胸骨に触れた瞬間、地を蹴る足から身体を徹して叩き込まれた重く長い衝撃と、右拳に左掌を打ち付けることで得られた鋭く短い衝撃とが重ねられた。

 胸板が文字通りに破れる。とてつもない重さと浸透する破壊が徹を貫き、背へ抜けた。

 それは理に適う卓絶した業だったのか、それとも強引な一撃でしかなかったのか。前者であれば戦慄を禁じ得ず、後者であったならなお恐ろしい。

 即死だったろう、もし<魔人>でなかったならば。

 声など出るはずもない。<魔人>でなかったならば。

「あ」

 吹き飛ばされながら、痛みよりも何よりも徹を襲ったのは恐怖だった。

 処刑人のまなざしは今もって変わらない。淡々と作業を行うだけの、日々の仕事をこなすだけのものでしかない。

 これが何より怖かった。

「あああああああああああああああああああっ!!!?」

 徹とて砲撃方筆頭マスターボウである。まだ死なない。まだ、終わりではない。肉体は滞りなく復元される。

 しかし勝てない。自分などとは棲んでいる領域が違う。たった一合だったが、それだけでも圧倒的過ぎることが理解できてしまう。

 おそらくは業だけでも自分を制することができる。その上で凄まじいまでの膂力を有し、反撃が叶ったとしても絶望的な防護能力と耐久力を打ち崩さなければならないのだ。

 これではまるきり怪奇譚ホラーの住人。不死身の怪物と哀れな犠牲者である。

 不可視の境界に打ちつけられる。

 逃げたいのに逃げられない。生き残るには怪物を屠らなければならない。

 怪物は、処刑人は腰を落として盾のように構えた右腕の向こうからこちらを見ていた。

 信じるのだ。自分を信じるのだ。

 凌駕解放オーバードライブの真の姿。それだけがきっと打開してくれる。

 だが、どうすればいいというのだろうか。

 無限の可能性という言葉は美しく希望に満ちて、何も教えてはくれない。

「俺は強い」

 信じる。

「俺の雷は強い」

 信じる。

「俺はどこまでも行ける!」

 信じ切る。

 考えるのだ。処刑人が即座に追撃してこないのはなぜか。

 警戒している。あるいは自分に秘められた力を知っているのかもしれない。

 新たな凌駕解放オーバードライブ。真の凌駕解放オーバードライブ

 それを得るためにはまず、捨てなければならない。

 希薄な根拠に飛躍する論理。徹が繰り広げるものは、信じ込むという意味で空想ですらなく妄想に近い。

 それでも縋るしかなかった。

 捨てる。

 まずは四辻圭への親愛と信頼を。

 次にエリシエルへの敬服と憧憬を。

 一輝と聡司への戦友たる連帯意識を。

 砲撃方ボウたちへの責任を。

 騎士派への愛情を。

 自分を縛っていたはずのものを一つ一つ否定してゆく。偽りであったと打ち消してゆく。自分を騙すのは得意であったから。

「俺は自由だ! 見せてやる、俺の本当の力を!!」

 咆哮。

 紫電を『ミーティア』に収束させる。

 雷光が弾ける。

 戦鎚を振りかぶる。

 振りかぶって、唇だけが震える。声が出ない。

 自由になった。解放された。

 孤高の頂に自分はいる――――はずだった。

 地面がなくなってしまったように思えた。楼閣が存在していたのは砂上ですらなかった。奈落が自分を呑み込むようだった。

 ただ孤独だった。




 兼任徹は本当に騎士派よりも力の理を選んだのだろうか。独り立ち、他者を蹴散らしながら背比べをすることを望んだのだろうか。

 騎士派には帰れなくなったと思い込んで、また逃げて来ただけではなかったか。かつてのように、逃亡に理由を作っただけではないのか。

 幼い頃から本心を実行することは許されなかった。

 遊びたいときに勉学を強いられ、優等生であることを期待され、親元を離れることで箍が外れはしたものの、常に望みの全てを行うことはできなかった。

 呪いのように心を縛るものがあった。楽しいはずの日常も必ず、心の二割が冷えていた。冷えていることを覆い隠し、全霊で楽しんでいるのだと自分自身に言い聞かせた。楽しかったと記憶を創り続けた。

 だから何か一つに懸けることはできない。命を費やすに値するものがない。本気ではないもの如きが理由で自分が脅かされるなど我慢ならない。

 何もかもが中途半端で、流されるままに状況が移り、逃げ出しては自らを偽って過ごして来た。

 人生を謳歌していた大学時代。それ自体が既に、厳密には捏造された記憶である。楽しかったという言葉がひたすらに繰り返され、頭を染め尽くす。

 徹が騎士派へと来た経緯は実に身勝手なものだ。在籍し続けていたのも、砲撃方筆頭マスターボウという役を勤め続けていたのも、すべて自分のためである。

 しかし愛していたこともまた事実、ようやく手に入れかけていた本物だった。だからエリシエルは圭の代わりに会合へ出し、ステイシアは徹の怒りに微笑んだのである。

 徹は自分を騙すことに慣れ過ぎていた。そしてそうであることも自覚していた。だから偽りも本物も区別がつかなくなっていた。

 それでも心の奥底から警告は出ていたのだ。騎士派を裏切って性悪な少女の言葉など信じていいのかと。

 だが、逃げたい気持ちは何よりも強かった。吊り下げられた雄々しい弱肉強食の理は、逃げるという事実を覆い隠してくれる強烈な餌だった。だからこれでいいのだと自分に騙されたのだ。




 今、徹には何もなかった。

 そして処刑人は待たない。いつの間にか目の前にいて、右の巨拳が欠片の容赦もなく徹を貫いていた。

 徹は渦を幻視した。底の知れぬ深淵へと引き摺り込む、暗い暗い渦だ。

「俺は……どうすればよかったというんだ……どうして邪魔ばかりされるんだ、どうして俺ばかりこんな目に遭うんだ」

 掠れた声。虚空を睨む双眸に、既に輝きはない。呪詛を向ける相手は、あるのかどうかも分からぬ運命か、目の前の男か。

 処刑人は告げる。

「ステイシアが言うには、君は迷子らしい」

 兼任徹という存在は騎士派へ行く前よりハシュメールの<魔人>帳に記されている。そして神官派から騎士派への情報提供は密に行われる。四辻圭は最初から徹の背景を全て承知した上で目の前に現れたのだ。

 生き方を見失っているのならば、迷子になっているのならば、まずは新たな故郷を作ってやればいい。諸々の問題は、帰属すべき場所を得て、それからゆっくりと解決してゆけばいい。エリシエルと圭はその思いで受け入れたのである。

「四辻君は優しい子だよ。贖うことにはなっただろうが、君はまだ彼の定めた門をくぐってはいなかった」

 処刑人の口調はどこまでも平坦で、まなざしには微塵の情もない。

 だからこそ事実なのだと魂に沁みた。

「あ、ああああああ」

 漏れる嗚咽。後悔はあまりに遅く、死した<魔人>は塵も残さない。

 誰一人として思い報われることなく、裏切りの始末はついた。






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