幕間「建国前夜」
『そろそろ<竪琴>の領域に穴を穿ちましょうか』
あの男はそう言った。
朗らかで優しげな男だ。きっと誰もが心惹かれる。
一目見て頬を染めはせずとも、幾度も話すうちに陥落する女は多いだろう。自分にとっては男というだけで嫌悪すべき対象だが。
『領域を丸ごと奪うのではなく、その中の一部。最低でも市、できれば県ひとつを支配下に置きたいですね』
ともあれ、あの男はそう告げたのだ。
『狙うのはもちろん、財団派です。各地に構成員が散らばっていて戦力集結に時間がかかりますし、そのおかげでそもそも戦況自体こちらが有利ですからね。最も容易く成し遂げられるでしょう』
本から顔を上げて夜空を見上げれば、西に細い月。紫にたなびく雲を切り裂く刃のようなそれが無性に眩くて、<夜魔>は目を細めた。
『ああ、奪うと言っても、そもそも財団派の拠点っていうのは強いて言うならメンバーの在籍している高校とかですからね。城を落とす、的なものではありません。その区域の<竪琴>をすべて排除し、こちらの人員を常駐させることによってイニシアティブをとる。それで第一段階成功となります』
美しい娘だ。<魔人>は比較的整った顔立ちであることが多いとはいえ、彼女は群を抜いている。
二十歳か、それには少し足りぬ程度だろうか。ほんのりと赤み差すすべらかな頬も、すっと通った鼻筋も、綺麗に梳られた肩までの黒髪も、ひとつひとつが精緻に形作られ、調和してそれ以上のものとなる。
『効果ですか? まず、<竪琴>に追われている人を保護できますね。そして何より<竪琴>の威信を低下させられる。今までの小競り合いとは異なる明確な敗北です。日和見している<魔人>の心はこちらに傾くでしょう』
肢体もまた、同様だ。決して長身ではないものの、すらりとした印象と蠱惑の陰影を両立させている。
身を飾るのは鮮血のようなカクテルドレス。前面は白い太ももの半ばまでを覗かせながらも波打つ側面から後方は膝下に届く仕様。胸元も大きく切れ込んで、撓む膨らみを半ば露にしており、背に至ってはほぼ剥き出しだ。
『そもそも日和見という時点で<竪琴>に従いたくないという気持ちが確実に存在しているのです。彼らは正確には、潜在的な反<竪琴>なのですよ』
そこに立っているだけで男を蕩かす様は、まさに<夜魔>か。
否。美貌に浮かぶ、すべてに苛立ち見下しているかのような表情はただ夜の享楽を運ぶだけの存在とは映らない。
ゆえに<夜魔>と、いつしか娘の呼び名は変わっていた。
『秩序というものは、どんなに混沌とした場所でも自然とそこに合った何らかの不文律として出来上がっているものです。陰中の陽、陽中の陰。混沌は秩序を内包し、秩序は混沌を懐に抱く。それは必然なのですよ。だというのに自分のルールを押し付けるならば、力が要ります。<竪琴>とは力を示すことで秩序の守り手を名乗る存在です。だからこそ、その力を大したものではないと示すことは大きな意味を持つ』
風が髪を揺らし、まだ手にしたままであった本のページをめくる。
夏の生ぬるい、ねっとりとした大気だ。心地よいとは言いがたいがそれでも僅かに涼しさはある。
小さな山の中腹、少しばかり開けた場所。<災>によって命を落とした人々の慰霊碑を背に、視線を落とせば煌く人工の光。
『奪取だけならば、今まででも十分可能ではあったのです。しかし厄介なのはそこからだ。なにせ、即座に取り返されてしまっては何の意味もない。守り抜かなければならない。それは正直、至難の業であろうと予測されていました。しかし貴女が来てくれた、<夜魔>』
男の声、口調は魅力的でありながら、それでも<夜魔>の嫌悪を乗り越えるほどではなかった。
計画に乗ったのは利害が一致したから、それだけのことに過ぎない。
『<竪琴>の強みは数、一人に対して五人、十人、二十人を投入できることにある。単純ですが実に恐ろしい。しかしこれには落とし穴があります。五人に対して二十五人は使えても、五十人に対して二百五十人は向かわせられない。なぜならば規模が大きくなりすぎる。社会の目に留まらないようにするのは至難の業だ。だからこそ貴女なのです、<夜魔>』
確かに、自分以外には不可能だろう。<夜魔>は冷たく笑う。
笑って、男の声を忘れることにする。あの人を安心させるような音、口調は不愉快だ。
替わりのように耳朶を打ったのは、記憶ではなく今ここにある現実からの声。
「あ、んずる、な」
かすれた、まるで知りもしない異国の言葉を無理に喋っているかのようなたどたどしい声。
横に並んだのは枯れ木のような男だった。
本当に骨と皮だけなのではなかろうかと思わせる風貌だ。半ば開き通しの口からは涎が垂れ、落ち窪んだ眼窩で双眸だけが爛々と輝いている。年など推測しようとするだけ馬鹿らしい。
身にまとうのは、おそらくはシャツとズボンの残骸であろうと思われる襤褸。辛うじて形は保っているだろうか。
人であったならば、きっと既に死んでいるに違いない。死体が歩いていると言われても違和感を覚えない。
何を好き好んでこんな姿をしているのか、<夜魔>には理解できなかった。
「何ひとつとして、心配などしていないわ、<妖刀>」
「そ、か」
歯茎を剥き出すのは笑ったのか、ただそうなっただけか。耐え難い悪臭の漂ってきそうな見てくれに反して、臭いはおろか気配すらない。何から何までもが亡霊じみている。
「やることは分かってるんでしょうね?」
「あんず、るな、と、いってい、る」
ゆうらりと<妖刀>は揺らめく。
ふらついたのではない。揺れたと思えば、宝石のような地の星々を背景として<夜魔>へと正面から向き直っていた。
「きさまの、きさまのぅ、か、て。かて。にんぎょ、うをのこし、ふ、ひひ……斬ればよい。斬ればよいのだろう」
『斬る』と、そう口にするときだけ、ぞっとするほどに舌が滑らかだ。
「きし、どもに、は……ちゃんぷ。やつは、ははっ、やつら、をくぅぎ、づけ。せいこ、す、するとも」
「……<王者>、ね……」
この作戦は、ただ<夜魔>が財団派から支配域の一部を奪い取るだけのものではない。同時に、残る五派のうち騎士派、魔女派、鳥船派にも攻撃を仕掛けることになっている。
まずは陽動、次いで刃をちらつかせることによって戦力をこちらへと向けさせないようにする役割を果たす予定だ。
いずれも中心となるのは<夜魔>たちと同じく引き抜かれてきた<闘争牙城>の常連、そして騎士派を担当するのが<王者>と呼ばれる男である。
<王者>とはすなわち『<闘争牙城>王者』。決闘を挑み、それを受けるという形式で<闘争牙城>は成り立つため、挑んでこなかった相手とは戦ってはいないが、それでも彼こそが<王者>であるとして扱われる。
しかし<夜魔>は小さなため息をつくのだ。
「あれ、<闘争牙城>で一番の馬鹿じゃないの。大丈夫な気がしないのだけど」
「ひひ、そうさ、なぁ……その、その、とぉり、さぁ……ひひひ、しか、し……わから、んか。おんな、にゃ、わ、からん」
ひひひと<妖刀>は笑ったかのような気配。相変わらずのたどたどしい口調からは、嘲っているのか否かも判別できない。
ただ少なくとも、女には、と言われたことは気に障った。
「分かりたくもないわ。あなたたちに合わせるとこっちの頭まで悪くなりそう。どうでもいいのよ。私が何とかする。だから何も心配なんてしてない。ねぇ?」
背後を振り向く。
そこには二十名にも及ぶ少年たちが控えていた。二十対の瞳が<夜魔>へと熱のこもった視線を集中させている。
しかし一様ではない。ただ一人を除き、半数は媚で、残る半数は煮えたぎるような憎悪を向けているのだ。
そのどちらをも<夜魔>は愛しげに嘲笑する。
「この子たちと未来の奴隷が蹂躙する。だから状況を整えるまで斬ってくれさえすればいいの、<妖刀>、<斬撃卿>、<斬撃狂>」
その笑みは底なしの沼のよう。その奥底に澱むものを推し量ろうとするだけで薄ら寒くなる。
証明であるかのように、控えた少年たちの顔がそれぞれに歪んだ。
変わらないのは<妖刀>のみ。ひひひと揺れる死体である。
「あん、び、ば、れん、つ」
来るべき時刻まで暇を潰すべく、手にした本に再び目を落とした<夜魔>の耳に届いたのはそんな言葉。
これ以上付き合う気はなかった。無視をする。
読み返しすぎてよれよれになった短編小説、その文章をまたもゆっくりとなぞってゆく横顔は愛憎入り混じりつつ。
高空で、ごう、と鳴った。
彼方から流れ込む気流がひゅるると唸る。
行われるであろう惨劇から顔を逸らすように、月がその横顔を雲の後ろへ隠してしまう。
それでも<夜魔>は文字を追うことをやめない。もう諳んじることさえできる作品にのめり込む。
知っている展開、知っている結末。何度繰り返そうと新たに溢れ出る感情をとどめ置くことができない。
ただ一つだけ自分を痛ましげに見つめるまなざしのあることを、気づくことができない。




