陰に潜む者
「……こんな、こんな馬鹿に俺が……ッ!」
吸血鬼の男――碓氷 京は、怒りのままに拳を床に叩きつけた。
ここ数日の間、彼は自分の狙っているターゲットの近くに、別の人外がいると知った。
それも、それは一人ではなかった。おそらくは以前自分の捕食の邪魔をした男だと思われたが、他にも似たような格好をした男達を見た。
奇しくも、彼らは碓氷と同じ吸血鬼。
それを知った時、彼は自分の中に言い知れぬ怒りがこみあげてくるのを感じた。人間に歩み寄ろうとする同胞が、彼には許せなかった。
今まで自分を、自分の仲間を散々虐げてきた無知な人間達。その迫害の歴史を忘れ、人に尻尾を振るような真似が、彼にすれば裏切りに類する行為だったのだ。
何とかして彼らに、自分達の生き方を見せつけたかった。高潔な吸血鬼がどうあるべきか、自分が示してやらねばと決意した。
その決意が今、脆くも崩れ去ろうとしていた。
■
「さぁて……覚悟はできてんだろうな?」
人狼は、それに気付くことなく不敵に笑う。
剥きだした牙が、月光に照らし出された。
半人半獣の身と化した鋼牙が、首を回しながら碓氷へと近づいていく。少女の声が響いたのはその時だ。
「あの、鋼牙さん……鋼牙さん!」
「ん……どしたぁ?」
鋼牙という人狼の顔が、少女の方に向けられる。縦長の瞳に怯む様子も見せず、その少女は彼に話しかける。
「その人……殺さないでください!」
「……はぁ?」
狼の顔になっても、鋼牙の感情表現は読み取れた。それは困惑。金の瞳が、怪訝そうに歪められた。
「いや……んなこと言われてもなぁ」
碓氷にしても、それは意味の分からぬ言葉だった。
だが、今はそれを考えている場合ではない。
少女に気を取られているうちが好機だ。碓氷は、何の前触れもなく空へと舞い上がろうとした。
吸血鬼である彼の身体能力は、当然人のそれを凌駕する。だから、一度の跳躍で数メートル程度のフェンスなど容易く飛び越えられる――はずだった。
「だから――甘く見られちゃあ、困るんだっての」
フェンスの端に届く寸前というところで、何かが月に輝きを遮った。
鋼牙だ。
「ぐはぁ⁉」
腹から地面に叩きつけられた碓氷は、肺に溜められていた空気を全て吐き出した。首を動かし見上げれば、その背に足を乗せる鋼牙の姿がある。
空気を求めて喘ぐその背に、更なる重圧が加えられた。今にも背骨が折れるのではないか。そう感じるほどの激痛が全身を廻る。
「がぁ……分かった! 俺が悪かった、だから見逃してくれ頼む!」
本心だった。もう抵抗する気力もない。
だが、そんな望みなど許されるはずもない。
「何を今更……諦めろ。もうお前は終わりだ」
案の定、鋼牙は命乞いをよしとしなかった。一瞬だけ、その足に込められた力が緩まる。碓氷は、それが背骨を踏み砕くための動作だと確信した。
「鋼牙さんッ!」
背後から聞こえた、もはや悲鳴に近い声。
それが、彼の命を救った。
鋼牙が苛立つようにして、獣毛に覆われた頬をがりがりと掻く。
「おい! 自分の言ってること分かってんのかよ? 今仕留めないと、こいつはまた誰かを殺すんだぞ!」
自らに向けられた怒声に、奏という少女が身を竦めた。それでも、その目に宿された意志は消えない。
鋼牙を睨み返し、自らの思いを言葉にして叫ぶ。
「その人は、ただ人間に戻りたかった! ただそれだけなんですよ!」
「……演技だと言ったろうが」
苦々しい表情で、碓氷が呟いた。ここまで一心に信じられれば、演技だとしても罪悪感が生まれる。それでも、少女は疑わなかった。
「そうですね――人を殺すのが楽しい、そういう演技をしないとあなたは人なんて殺せないんですから」
「っ……⁉」
碓氷は、一瞬時が止まったかのような錯覚を覚えた。
それが、見当はずれのはったりではなく、事実を示していたから。
「あなたは人なんて殺したことがない、そうですよね?」
「……どういうことだ?」
怪訝そうに碓氷の方を窺う鋼牙に説明するため、奏はさらに次の句を継ぐ。
「この人は、血を吸う時はちゃんと儀式っていうのを行うそうなんです。でも、前に起こった事件はそんなことをした跡はないはずなんです。だって、そんなのがあったら、ニュースで言わないわけがないじゃないですか」
「……それだけで、殺していないってのか」
「あとは……目、ですかね」
その言葉に、碓氷は慌てて自分の目元を押さえた。
何を言い出すかと少女を凝視すれば、何となく気恥ずかしくなったのか、彼女は小さく俯いてしまった。
「その、演技だって言っている時の方が……目が、小さく揺れていて。ウソを言っているのかな、って……」
完全に勘ですけど、という呟きが、小さく聞こえた気がした。
それというのも、その呟きと鋼牙の溜め息が重なったからだ。
「おい、馬鹿げたこと聞いてるのは分かってるんだけどよ……本当か?」
その問いに、碓氷は何も答えなかった。
少女を襲おうとしたのは事実だ。むしろ、許されて生き恥をさらすより、死んでしまおうとさえ思った。
どうせ失敗すれば、死が待っているのだから。
何も言わぬ碓氷に、鋼牙が呆れたように荒っぽく頭を掻く。
「ったく、本物のバカかよ……いや、俺もか。おいあんた、歯食いしばれ」
「な、何を……」
言われた意味を理解できずに目をしばたたかせる碓氷。一拍遅れて、頭の中で大きな鐘が鳴らされたような、重く鈍い衝撃が響いた。
朦朧とし始めた意識に、二人の声が辛うじて届く。
「鋼牙さん!」
「心配すんな、気絶させただけだっての……あぁ、蓮花に何言われるか」
彼が最後に見たのは、本当に困った様子で頭を抱える人狼の姿だった。
■
「ほら、これでもう動けるだろ」
鋼牙が、奏の両手足を拘束するロープを爪で引き裂いた。ようやく満足に動かせるようになった体を、奏はゆっくりと動かしていく。
「ありがとうございます……その、ごめんなさい。何も知らない私が、わがまま言っちゃって」
「いや、確かにこいつからは血の臭いがしなかったから、気になってはいたんだ。まぁ、どっちにしてもお前を襲ったわけだから、始末するつもりだったんだけどな」
警戒しているのか、鋼牙は未だに変身を解こうとしない。
彼は倒れる吸血鬼の方へと目を向けた。
一瞬、奏は彼が気を変えて男を始末しようとするのではないかと思った。気が付けば、その危惧が言葉として表れていた。
「……あの人、どうなるんですか」
「んあ? 人を殺してねぇから……どうだろうな。でもまぁ、いろいろと聞くことはあるけどな」
聞けば、あの吸血鬼はこのまま蓮花のところに連れて行かれることになるらしい。そのための連絡だろう、携帯電話を取り出す。
「とりあえず、万が一のことも考えて何人か応援を呼ぶ。お前も、ちゃんと家まで送ってやらなきゃな」
「あ、ありがとうございます」
何の気なしに呟いた言葉なのだろうが、何となくくすぐったい気もする。つい、と顔を逸らした時に、吸血鬼が僅かに身じろぎしたのが見えた。
しかし、彼は逃げようとはしなかった。体を起こすと、フェンスに寄りかかるようにして座る。鋼牙も横目でそれを確認していた。
「……なぜ逃げないのか、不思議か?」
吸血鬼が二人の様子を見て苦笑する。
「逃げたら許さねぇからな」
一応、といった様子で鋼牙が告げると、彼は苦笑をより深める。
「分かっている。どうにでもするといい」
「……ちょっと、いいですか」
奏は静かな面持ちで座る男へと足を踏みだした。この時、もし男が奏に対して攻撃の意志を持っていたら鋼牙でも止めることはできなかっただろう。
だが、男は身じろぎ一つしなかった。
「人と一緒に生きようとは、思わないんですか」
「今まで我々を害してきた者達と、共に歩んでいくなど御免だ。今ではそう考える者の方が少ないらしいがな」
「でも、何で急に人を襲おうと思ったんですか? 今までは違う方法で血を飲んでたんですよね」
「……我々の在り方を、変えようとしている方がいるのだ。本来の吸血鬼としての誇りを取り戻そうとしている方が。だが……」
そう言って、彼は奏の方に顔を向ける。それは、あの時見せた、彼の本当の表情だった。
「お前のような人間もいるならば、もしかすると、別の生き方もあるのかもしれんな」
「そうですよ。諦めなければきっと――」
奏がそこまで言いかけた時だ。
「――ッ⁉ 離れろッ!」
「きゃあ⁉」
血相を変えた吸血鬼が、奏を思いっきり突き飛ばした。転がり、何があったのかと顔を上げる。そこで見た光景に、絶句せざるを得なかった。
「ぐっ……あぁあああ!」
全身に炎を纏い、床をのたうち回る吸血鬼。ばたばたと転がって火を消そうとするも、むしろ業火の勢いは増しているようにも見える。
その額には、刻印のように刻まれた文字が怪しげな輝きを放っている。吸血鬼が儀式に使っていた、あのルーン文字に酷似していた。
「おい、下がれ!」
助けようとした奏を、駆け寄って来た鋼牙が押し留める。その顔に浮かぶ困惑が、彼も予想していなかった事態だということを語っていた。
「鋼牙さん! 何で、あれ……」
「口封じだろうな……もう、手遅れだ」
見れば、既に吸血鬼の男の動きは弱々しいものになっている。火が消えた時には、とうに絶命していた。
その後、すぐに鋼牙の呼んだ黒服達が奏達のもとに駆け付けた。あまり事が公にならないように、と彼らは後処理を行い、奏は鋼牙によって家まで送り届けられた。
これが、立て続けに発生した変死体事件の顛末である。
だが、見え隠れする黒幕の影に、その時には奏すらも予感していた。
――これは、より大きな騒動の始まりに過ぎなかったのだと。




