血と呪い
奏が最初に感じたのは、何か硬いものを削るような、がりがりという音。ゆっくりと薄目を開ければ、闇の中に空いたような満月が見える。
そこは、初めて吸血鬼に襲われたときと同じように、どこかのビルの屋上だった。
「ん、起きたか?」
「……ッ⁉」
動こうとしたが、両手足が動かない。おそらくまた縛られているのだ。
倒れたまま首を左に向ければ、しゃがみ込んで何かをしている吸血鬼の男の背が見える。先ほどの音は、彼の手元からしていた。
「……何してるんですか」
「儀式の準備をしている。血を飲む際にはいつも必要なのだ」
奏の方を見ずに、彼はそのまま作業を続ける。奏の場所からではその表情は窺えないが、かなり真剣なのは雰囲気で分かった。
いつも、といことは前回も同じことをしていたのかもしれない。思い出すことはできないが、今はそんな時間はない。
奏は自分に注意が向いていないうちに逃げられないかともがいてみたが、拘束しているロープは解ける気配がなかった。さらに念を入れてか、力が入りにくいような縛られ方をしている。
彼女が思いついた唯一の方法は、鋼牙が自分を見つけ出してくれるまでの時間稼ぎだった。
「すぐに鋼牙さんが来ますよ。場所、この前と似ていますし」
「ふん……ご心配どうも。だが残念ながら、それはないな」
彼女の方を振り向いた吸血鬼の顔に、思わず奏は息を呑んだ。
彼の右目が、無理やり抉られたかのように窪んでいたのだ。本来眼球がある場所にそれはなく、木の洞のような、ぽっかりとした空間が空いているのが見える。
その分残された左目には、より煌々とした赤の輝きが宿っているような気がした。
「その目……」
「あぁ、これのことか」
昔にした悪戯がばれたような、そんな羞恥と苦々しさが混じった表情を浮かべ、隻眼の男は頬を掻く。
「この前、お前を仕留め損ねたろう。その時に罰を受けたのだ……恐ろしい方にな」
「……また、失敗しますよ」
キッと睨み付けるも、男は全く怯まなかった。むしろ奏の強気な態度に喜々としている様子さえ窺える。
「そうだといいな。だが、お前をさらった場所から、ここはかなり離れているぞ? それにここは背の高い建物が多い、そう易々とは見つからんさ」
そうして、自分が削っていた屋上の床を眺め、「ふむ」と小さく頷く。それは、儀式の準備とやらが完了したことを意味していた。
おもむろに立ち上がると、奏の腕を縛るロープを掴んで持ち上げる。
「ちょっ……離してくださいッ!」
縛られた状態の足で男を蹴りつけるが、全く効いていない。にやにやと、奏の微力な抵抗を面白がっている。
そのまま、男は先ほど自分が何かを書きつけていた場所まで奏を運ぶ。その時、奏は床に描かれた文字のようなものを目にした。
それは、アルファベットの「B」に似ていた。
「ルーン文字だ。俺もよくは知らんが、こうすることで『贖罪』の意味を成すらしい」
「贖罪って……血を吸うことのですか」
吸血鬼が血を吸うことに罪悪感を覚えるなど、初耳だった。
「違う。もっと大昔、吸血鬼が生まれる前の話だ」
男は首を振ると、奏をゆっくりと文字の上に置いた。まるで赤子を扱うかのような慎重さ。その違和感に対する答えが、ふと彼女の頭に浮かぶ。
「……供物」
「賢いな、その通りだ」
にたりと笑うと、吸血鬼はぐるりと体を反転させた。そして、まるで大空に浮かぶ月を仰ぐように、大きく両腕を広げる。
「吸血鬼の間に、ある伝説があってな。我々は、元は人間だったのだそうだ」
「……血を吸われた人が、吸血鬼になるんじゃ?」
「それは違うな。原初は、極悪人が呪いによって吸血鬼になったと言われている。それこそ他人の血で汚れた、犯罪者どもがな。そしてその呪いは、その者達の血族にまで及んだ。我々は光に嫌われ、闇の世界に閉じ込められたのだよ」
忌々し気に「呪い」という言葉を発する彼からは、確かに自らの境遇を悲しんでいる雰囲気がある。
「普通の人間と同じ道を歩むことを許されない。だがたった一つ、予言に従えば人に戻れるのだそうだ――厳重なしきたりを、忠実に守り続ければな」
「でも、私は普通の人と同じように生活している吸血鬼の人達を知ってますよ!」
蓮花の部下達は、血を吸うために人を殺さない。少量だけ血をもらい、決して人を殺めない。蓮花が言っていた。
「ハッ、それは予言に反する! そいつらは永遠に、人でも吸血鬼でもない中途半端な存在として一生を終えるのだろうよ」
月の光に縁どられた男の顔が、ゆっくりと奏の方へと向けられる。その目に湛えられた悲しみが、男を別人に見せた。
吸血鬼などではない、ただの人間に。
「太陽に呪われた我々は、その片割れである月に、自らの誠実さを示さねばならん。わざわざ月が見える場所まで行き、贖罪の文字を描き、余すことなくその血を飲み干すことでな」
そう言って、深く首を垂れる男。
「……許せ」
「……そんな、それ以外にも方法がありますよ! だって、あなただってそれが正しいとは思っていないんでしょう?」
「それは……」
顔を上げて、口ごもる男。苦し気に歪められた表情が、彼の苦悩を語っていた。
そんな彼に、奏は無理やり上体を上げて訴える。
自分が死ぬことに対する恐怖は、最早なかった。ただ、理不尽な呪いに悩み続けている者を、何とかしたいという思いがそれに打ち勝っていた。
「じゃあ、一緒に探しましょう……みんなで。そうすれば、きっと……」
「お前……」
男の声が震え、その表情がくしゃりと歪んだ。奏の真っ直ぐな視線から逃れるようにして、その顔が俯けられる。
「何で……何で、そんなに……」
えずくように、その肩が震えた。
この人も、根はいい人なんだ。同じようにして、他の人とも分かり合える――奏がそう考えた、その時だった。
「――バァカなんだよ」
「え……?」
瞬間、奏の背に強い衝撃が走った。気が付けば男に喉元を絞められ、屋上の床に叩きつけられている。
「あ、ぐっ……」
万力のような力が、奏の細い喉をぎりぎりと締め上げた。
「クハハ……お前、勘違いしてるぞ? 俺がいつ、人に戻りたいなどと言った」
狂気を秘めた瞳が、奏の顔の近くまで落ちてくる。動けぬ状態では、逃れることはできなかった。
「確かに、儀式はちゃんとするがな。そうしないと、クソ真面目な他の連中が煩いからな。だが……ハッ、呪い? バカを言うな、最高の力だろう!」
べろり、と伸びた舌が、奏の頬を舐める。錆びた鉄のような臭気が鼻を突いた。
「い、やっ……」
「良い表情だ。恐怖ってのは血の味を高める。お前がどうすれば一番怯えるか、ずっと考えてたんだ。クク……すっかり信じ切ってたな、えぇ?」
「そんな……」
騙された。自分の考えが甘かったことを、奏は痛感した。皆が鋼牙や霧﨑のように人間と馴染めるのだという考えは、淡い幻想だと思い知らされた。
そんな絶望の中で、最後に浮かぶのはあの優しげな笑み。
「鋼牙……さん……ッ」
「ハッ、来ないと言っているだろうが!」
否定された、彼女の希望。
怒りに、悔しさに、絶望に。こみ上げた熱い思いが、目頭から零れ出る。
目を閉じようにもそれは止まらない。
頬を伝ったそれが、冷たい床へと落ちる――その寸前。
「――勝手に決めてんじゃねぇぞコラ」
「な……ッ⁉」
鈍い音と共に、奏に掛かっていた重圧が消えた。薄目を開ける。
大きく上下する黒いスーツの背。短い髪は額に汗で張り付き、その男がどれだけ急いでいたのかが窺える。
「鋼牙……さん……?」
奏の声に反応して、金の双眸が彼女の方に向けられた。そして、ゆっくりと近づいてくる。
その男が最初の行動は、謝罪だった。
「スマンッ! 危険な目にはぜってぇ会わせねぇって約束したってのに!」
叫び、地面に擦りつけんばかりに頭を下げる鋼牙。あまりにも突然の出来事に、奏は少しの間困惑し――くしゃくしゃになった笑みを浮かべた。
「気にしてません。きっと助けに来てくれるって、信じてましたから」
「……へっ、ありがとな」
顔を上げ、苦笑する鋼牙。そのまま奏の上体を抱き起こすと、跡をつけていた涙を指で拭った。
「すぐに終わらせるから、ちょっと待ってな」
刹那、彼が右腕を振り上げる。それが、背後から振り下ろされた吸血鬼の一撃を受け止めた。
「……よぉ、随分とナメた真似してくれたじゃねぇか」
闇に溶け込むような、静かな声。
だがそこに滲む怒りを感じ取れない者は、ここにはいなかった。
ミシミシと音をたて、鋼牙の体が変化していく。
人のそれから、人ならざるものへと。
瞬く間に膨張した肉体が、人間としての限界を超えた。
顔を歪ませ、さらに腕に力を込める吸血鬼。しかし、それを掴む鋼牙の手は一向に下がる気配がない。伸びた獣の爪が、吸血鬼の生気の無い肌に食い込んでいく。
「ぐっ……この」
空いている方の腕で攻撃を試みる吸血鬼。しかし、それよりも鋼牙の方が早かった。
強烈な肘打ちが、痩身の男の胸に食い込んだ。
ありえない膂力に、吸血鬼の体が弾かれたようにして吹き飛んでいく。床を転がった後も、しばらく起き上がれないでいるようだった。
「何故……何故ここが分かった⁉」
唾を飛ばしながら叫ぶ男に、鋼牙は得意そうに自分の鼻を指して笑った。
「知らねぇのかよ、狼ってのは鼻が利くんだぜ? においの元になる物さえありゃあすぐ探せる」
「……においの元?」
思い返しても、奏が何かを鋼牙に渡したような覚えはない。ただ、何となく嫌な予感はした。
「ふ……備えあれば憂いなしってなぁ!」
鋼牙が、何かを懐から引っ張り出した。
それは、何か白い塊のよう。屋上に吹く風によって広げられたことで、ようやくその正体が判明した。
体操着のシャツ。胸のところに、小さく「八城 奏」とプリントされている。
「――はぁああああ⁉ ちょっ、何考えて……」
「おう、初めて会った時に失敬した」
「頭おかしいんじゃないですか⁉ その、ちゃんと洗濯してありますよね? せめて柔軟剤のいい香りですよね⁉」
「バカ野郎! そんなことしたらにおいが分からなくなるだろうが!」
「セリフが完全に性犯罪者のそれですけども⁉」
ここに来て、まさかの羞恥プレイ。
真っ赤になった顔を手で覆おうにも、手はしっかりと縛られている。がっくりとうなだれる奏の脳裏に、「いっそ死にたい」という考えがはっきりと浮かんだ。




