暗転
状況に変化があったのは、数日後だった。
それまでは日ごとに、霧﨑の部下である黒服の男が交代で護衛し、鋼牙と同じように、常に周囲を見張ってくれていた。驚いたことに、彼らも吸血鬼であるとか。
どうやら闇の生き物の中では吸血鬼が最も繁栄しており、人狼やその他の種はあまりいないらしい。確かに、鋼牙以外の黒服は皆一様にサングラスを付けていた。
疑問に思って鋼牙に聞いたのだが、吸血鬼が日光を浴びられないというのも微妙に違うらしい。流石に長時間直射日光に晒されると倒れるそうだが、日陰に居れば問題はないとのことだった。それでも何となく気を遣って、奏も日影が多いところを利用して登下校を行っている。
その日も何事もなく授業が終わり、部活動もないのであとは帰るだけ。
ホームルームも終わり、生徒が次々と教室から出ていく中。何気なく見やった奏の視線は、何かの作業に没頭する天里の姿を認めた。机に向かい、ああでもないこうでもないと書いては消してを繰り返しているように思える。
「……天里、それ何?」
奏の方を振り向くと、彼女ははにかんだような笑みを浮かべる。奏の前に出されたのは、皺のついた楽譜だった。
「ほら、学祭用に曲を作るって、私言ったじゃん。それだよ」
「わ、すごい! 見せて見せて」
しかし、天里はすぐに譜面を裏返してしまう。一瞬だけ見えた五線譜の羅列は、指の跡が付いた箇所がいくつも見受けられたように思えた。
「だーめ、出来上がってから。完成してないものを見せるのは恥ずかしいの」
「えぇー」
結局見せることになるのだからいいではないかと主張したが、天里の意志は変わらなかった。しかし、彼女は一生懸命やってくれているのだろう。少しでも良いものしようと、真剣に頭を悩ませている。
彼女のその真摯な姿勢が、奏には嬉しかった。
「ほら、考えがまとまらないから帰った帰った!」
「ちぇー……あれ、渚ちゃんは?」
「あぁ、渚は今日遅くなるってさ。何か、レベルの高い大学行く人用に補習が始まるとかで、その説明会」
「あー……そういえば、そんなのあったねー」
自分には関係ないや、と奏はすっかり忘れていた。二年生も後半というこの時期、そろそろ進路を考えなくてはいけない。
「奏は大学どうするの? 勉強できるし、てっきり渚と一緒に補習受けると思ってたのに」
「うーん……まだあんまり考えてないかな」
呑気だな、と天里に苦笑された。
「流石にまだ大学は決めなくてもいいだろうけど、何となくは考えておいた方がいいんじゃない?」
「そうだよね……あ、じゃあ私そろそろ行くね」
「おう、じゃあなー」
手を振り、奏は人気のすっかりなくなった教室を出る。後ろを見れば、天里の手が譜面をなぞるように動いているのが見えた。
日が沈んだ後の空は、既に黒く染まりつつあった。夏の残暑もすっかりなくなり、気が付けば日が暮れるのも早くなっている。
時間は、自分が立ち止まっていても待ってくれはしない。
「進路かー……」
いつも通りの通学路で、奏は先ほどの天里の言葉を思い出した。
天里も渚も、自分の道を見つけようとしている。いや、もうそれに向けて歩き始めているのかもしれない。
自分ができること、やりたいこと。
思い返してみても、そこまで強い願望は彼女の中にはなかった。
それでも、何かを見つけなければならないような気がして、必死に記憶の箱をひっくり返していた。
だから、突然着信があった時は驚いて転びそうになった。相手は、案の定鋼牙だ。
嫌な予感がした。
「……どうか、しましたか?」
「――止まるな。自然に、歩き続けてくれ」
いつもより硬い彼の口調が、薄れていた奏の警戒心を引き上げた。後ろを振り向きたい衝動に駆られたが、彼に言われた通りそのまま歩き続ける。
以前吸血鬼に襲われたときの恐怖が、彼女の中で甦っていく。消したはずの染みが、浮き上がってくるかのように。
「近くに、あいつの気配がある……血の臭いも消さずに出てくるとか、あの野郎舐めてんのか」
「そ、それって……」
「大丈夫だ。俺が捕まえる」
安心しろという電話越しの声に、少しだけ落ち着きを取り戻すことが出来た。それでも、未だ動悸は収まらない。早鐘のように、鼓動を刻み続ける。
声で気付かれるから、という理由で通話は中断された。歩き続けている間、いつ背後から襲い掛かられるのかと気が気ではない。
そんな状態で流れる時間は非常にゆっくりと感じられ、実際には五分と経っていないのだろうが、奏には何十分も歩いているように感じられた。
不意に聞こえた、遠くない場所でアスファルトと靴が擦れる音。
背後で、何かが動くのを感じた。
「鋼牙さん――ッ」
堪えられぬ緊張に、奏は思わずぎゅっと目を瞑った。
瞬間。
「――ぎゃあッ!?」
何かがぶつかるくぐもった音と、男の短い悲鳴。
同時、奏は背後を振り向く。
見れば、狼人間に変異した鋼牙がやせ細った男を、地面に叩きつけたところだった。以前とは違い、その男はサングラスをしていた。それでも男は往生際悪くじたばたともがいている。
一瞬だけ、男の傾いたサングラスから覗く赤い目が、奏の方を向いた。
「――走れッ!」
拘束を解かれることを案じてか、鋼牙が叫ぶ。それに弾かれたように、奏の身体は動き出していた。
全力疾走。こんなに一生懸命なのはいつ振りだろうかと、そんな考えと同時に脳裏をよぎる何か。
――おかしい。
男と目があった一瞬に、抱いた違和感。
その正体に手が届きそうで、もう少しというところでそれが逃げていくもどかしさ。
何がおかしいのか、分からない。
奏が息を切らして膝に手を突いたのを見計らうかのように、着信が入る。
「――へっ、やったな」
息を弾ませた鋼牙の声が、携帯電話から流れる。どうやら男を完全に無力化したらしい。
「もう、大丈夫なんですか?」
「おう――テメェ暴れんな!」
怒声に続き、かしゃん、と硬質な音が響く。おそらく、男のサングラスが落ちたのだろう。
鋼牙の息を呑む声が聞こえたのは、その直後だった。
「――ウソだろ……」
「鋼牙、さん……?」
不安になった奏が、必死に向こうの声を聞き取ろうと耳を携帯電話に押し付ける。それに気を取られ過ぎて、周囲には何の注意も払っていなかった。
「違う――こいつじゃねぇ! クソッ、おい聞こえるか!? 今すぐこっちに戻れ! おい!」
暗闇に、鋼牙の声だけが虚しく響く。地面に転がった携帯電話は、くたびれたブーツによって踏み砕かれた。
「ははっ……また会えたなぁ、お嬢ちゃん?」
男は、腕の中で弱々しくなっていく動きを楽しむように、その真紅の目を弓なりに歪ませた。
一瞬の内に羽交い絞めにされ、前回と同じように薬品を塗布した布を押し当てられた奏。その抵抗も虚しく、ゆっくりと意識が遠ざかっていく。
ほどなくして閉ざされた瞼から、漏れる一筋の涙。頬を伝って落ちたそれは、音もなく地面に落ち、砕けた。




