埋もれた過去
「……つまり、小町ちゃんのお兄さんが鋼牙さんだったわけですね」
ゆっくりと、押し出されるように出てくる言葉の先には正座させられた鋼牙。奏の方を見ないようにするため、彼女には背を向けた状態だ。
しかしそれならば、鋼牙が昨夜、奏にした説明はどうなるのか。彼の話では、家族の元を自分から離れ、妹からも逃げたはずだった。
奏が黙ったことで何となく察したらしく、鋼牙が口を開く。
「まぁ、いろいろと事情ってもんがあんだよ……それより、何で小町とお前が一緒にいるんだ?」
「高校まで案内したお礼ですよ。誰かさんが描いた適当な地図のせいです」
誰かさん、という部分を強調された鋼牙が肩を竦める。
「……眠かったんだって。ほら、昨日遅くまで見張ってただろ」
「それは……そうですけど」
それを持ち出されてしまうと奏としては分が悪い。何も言えなくなってしまい、気まずい空気がながれ始めたその時。
とたとたと、小走りに廊下を駆けてくる足音が聞こえた。現れたのは、盆に湯気を立てる茶碗を三つ乗せた小町。にやにやと笑みを浮かべているのは気のせいだろうか。
「おまたせー……ありゃ、何にもなってないや」
なってないって何だ――半目の奏と、どうやら鋼牙の意見が一致したらしい。正面に立つ小町に、鋼牙は座るよう指示する。
「……一応聞くんだが、碗が三つあるってことは俺がここに居るのを知っていたわけだ」
「そりゃあ、お兄ちゃんが部屋に入るの見えたし」
「止めろよ! ここに、こいつがこの状態でいるのが分かってたんなら! おかげでお兄ちゃん、顔がへこむところだったぞ!」
鋼牙の叫びに、小町は急に眉を下げた悲しげな表情になる。
「そっか……ゴメンね。ボク、お兄ちゃんがお姉ちゃんと仲良くなってくれたらなって思って、それで……」
顔を俯かせ、ひっく、と小さく肩を震わせる小町。
「こ、小町……すまねぇ、言い過ぎた! 俺のことを思ってだとは分からなかったんだ」
ひしっ、と彼女を抱きしめる鋼牙。しかしその瞬間、小町が顔を上げた。その表情は、かなり悪い笑みを浮かべていることに奏は気が付く。ついでに、推測が正しければ彼女の口は「ハッ、ちょろい」と動いたはず。
「……ここに悪魔がいるよ」
それも、かなりタチの悪いものが。
「というか、小町ちゃん別にいいんだ? もう中三なのに、その」
――兄に抱き付かれて。
しかしそこから先を言うことが憚られて、思わず奏は口ごもる。すると、小町が器用に鋼牙の束縛から抜け出した。
「別に、同性だし問題ないんじゃない?」
――は?
「…………鋼牙さんってコッチだったんですか?」
「んなわけあるか」
かなりの時間頭を悩ませた上に出した答えは、即座に否定された。
「……えぇ? いや、だってこの部屋」
戸惑う奏の前をすり抜け、小町がベッドの上に座る。そして近くにあった猫のぬいぐるみを引き寄せ、その上に自分の顎を乗せた。
そのまま天使とさえ形容できる笑みを、小さく傾ける。
「男の子がぬいぐるみ好きじゃ、変?」
「……いや、もういいよ」
彼女の性別も、「羨ましいなあのぬいぐるみ」と嫉妬を露わにする鋼牙も。
――いや、一つだけ、どうでもよくないことがある。
「小町ちゃんが男なら、今の私と一緒にいるのは駄目じゃない⁉」
服が透けた状態でも、小町なら同性だと考えてあまり気にしなかった。だが、性別が男となれば話は別。今でこそ鋼牙が気を利かせて付けた暖房でほとんど乾いてはいるが、それまではずっと一緒だったのだ。
しかし、小町は問題ないという態度。ピースサインを突き出して、一言。
「だって、僕の方が可愛いもん」
――流石に、イラッときた。
「待て待て、落ち着け奏! 仕方ねぇ、だって事実なん――げふっ⁉」
後ろから押さえようとする鋼牙に頭突きで沈めた後、どうにか奏は怒りを鎮めようと努める。
「相手は中学生……そう、お姉ちゃんの私が怒ってはダメ。そう、大らかな心を持って全てを許すの……」
「あはは、胸はないけどねー」
「このッ……」
「だからダメだって――何でまた俺⁉」
理不尽に踏まれた鋼牙の悲鳴。奏が傘を貸してもらって部屋を出たのは、こんなやり取りがあと数回続いた後だった。
◆
「――なぁおい、機嫌直せよ。小町も悪気があったわけじゃねぇんだって」
「いや、多分あれは純度百パーセント混じり気なしの悪意ですよ」
唇を尖らせ、奏は隣を歩く鋼牙に反論する。
「こんなこと言いたくないですけど、小町ちゃんのこと甘やかし過ぎじゃないですか? あのままだと、相当わがままに育ちますよ」
先ほどのやり取りを思い返せば、もう手遅れなような気もしないではないが。完全に鋼牙を手玉に取っているあたり、よけいにタチが悪い。
彼女の言葉に、鋼牙は渋い表情で唸る。
「……どうも、厳しくってのが難しいんだよなぁ」
そう言って頭を掻く鋼牙。その動きで、彼が手に持っている黒い傘が小刻みに揺れた。
「さっきの話だけどよ……小町は、別に俺の血縁でも何でもねぇんだ。義弟ってのか。ぶっちゃけ、元は赤の他人だ」
「じゃあ、何で――」
その先の言葉を、奏は飲み込んだ。鋼牙に向けた視線が、彼の硬い表情を捉えたからだ。おそらく、口にすべき言葉とそうでないものの線引きを悩んでいるのだ。
一瞬、二人の傘を叩く雨音だけが、唯一の音になった。
「あいつの両親は……吸血鬼に、殺されてる」
「……」
何となく予期していた言葉ではあったが、だからといって動揺しないわけではない。一緒にいる間には、小町はそんなそぶりを全く見せなかったのだから。
「二年くらい前か。たまたま、吸血鬼の気配を感じて追っていたんだ。それで入った家ってのが、小町の家だった」
「それ時には、もう……?」
おそるおそる尋ねた奏に、鋼牙は悲しそうに頷いた。金色の瞳が、その過去の光景を見ているかのように細められた。
「あれは酷かった。床も壁も、血で真っ赤に染まっててな、吸血鬼の野郎は逃げた後だった。あったのは血を抜かれた二つの死体と――多分、両親が隠したんだろうな。クローゼットの中で、子どもが気を失ってた」
おそらく、それが小町なのだろう。
奏は、彼女――もとい彼がおかれた状況を想像してみた。訳も分からぬうちに狭い空間に閉じ込められ、外から聞こえる両親の悲鳴にただ震える小さな子ども。精神的に限界を迎え、気を失うのは当然と思われた。
気が付けば、奏は歩く足を止めてしまっていた。
「……小町ちゃんに、そんなことが」
一見、普通の中学生に見えた少年。奏がうらやむほどの恵まれた容姿で、クラスでは人気者だという。そんな彼の抱える暗い陰に、奏は全く気が付かなかった。
「それじゃあ、小町ちゃんは吸血鬼が実在するって知ってるんですか?」
「いや、あいつはただの不幸な殺人事件だとしか思ってねぇよ。だから、俺の正体も言ってねぇ……まぁ、そんなとこだ」
これで話は打ち切りだと言わんばかりに、立ち止まったままの奏を置いて先へと進んでいってしまう鋼牙。奏は、彼の瞳に宿った憂愁を見た気がした。
――あぁ、そういうことか。
鋼牙の溺愛と、彼が昨夜話した内容。それが、奏の中で繋がった。
彼は、小町が自分の正体を知ることを恐れている。かつての妹と同じ目が、自分に向けられることを恐れているのだ。きっと小町が闇の生き物たちについて知ったとしても、彼は自分の正体だけは伝えようとしないのだろう。
もしかすると彼が小町を引き取ったのは、その姿が妹と重なったからかもしれない。
「……まぁ、今日のことは許してあげようかな」
ここにはいない少年に向けて、奏は独り言ちる。その言葉を受けて、悪戯っぽく笑う彼の顔が心に浮かんだ。
その時、先を進んでいた鋼牙が彼女の方を振り返る。
「――おら、早く行くぞ。また雨が酷くなっちまう」
「あ、はい……でもそっち、道違います」
「……マジでか」
恍ける鋼牙の表情が、少しだけ幼く映った。微笑み、奏はその大きな手を引いて歩いていく。
気が付けば、先ほどまで降っていた雨は、もう止んでしまっていた。




