雨と出会い
翌日の朝、登校すべく玄関を飛び出した奏は、この時期には珍しいほどの冷え込みをもって迎えられた。
「うわ、さっむ……」
昨夜鋼牙は大丈夫だっただろうか、と不安がよぎる。
結局奏が寝入るまでの間ずっと風の唸る音が聞こえていた上に、昼間見た彼はあまり厚着をしていなかったように思える。
ただ、それだけで電話を掛けるのも不自然な気がする。心配する立場が逆転してしまうことは、あまり彼が望まないような気もした。
そんな考えもあって、悶々とした気持ちを抱えながら歩いていた時だ。
「あ、お姉さん! ちょっといいですかー?」
奏の後方、それほど離れていない距離から聞こえた、まだあどけなさが残る声。始めのうち、彼女はそれが自分に向けられているものだと気が付かなかった。
「ねぇ、お姉さんってば!」
「……え、私⁉」
先ほどの声が近くなったことで、慌てて振り返る奏。
同じ目線の高さに、見たこともない顔の少女が立っていた。
「さっきから呼んでるのに、無視は酷いんじゃないですか?」
彼女は不満げに呟き、頬をむくれさせる。
一方で、奏はまともな返答もできずにいた。理由は、その少女の容姿。
快活さを感じさせる、ショートカットの黒髪。その間から覗けるくっきりとした眉に、無垢な光を宿した大きな瞳。柔らかそうに膨らんだ頬が、その幼さを象徴しているようにも見える。
それは、初めて霧﨑を目にした時のような驚きに似ていた。彼女が磨かれたダイヤだとすれば、目の前にいる少女はまだ原石といったところ。そう遠くない将来、その少女は同じような美貌を身につける予感さえさせる。
「……ちょっと、聞いてます?」
少女の眉が、訝しそうに眉間に寄るのを見て、奏はようやく我に返った。
「ご、ゴメン。ちょっと考え事……」
適当な言い訳だったが、少女は「まぁいいや」と特に気にしなかったようだった。
「それよりも、お姉さんって九十九高校の生徒ですよね。ほら、その制服」
そう言って、彼女は奏を指さす。紺色のブラウスにスカート、確かにこの辺りでその制服を見かければ、十中八九、そうだと言える。
一方、奏の前の少女は真っ白なコートにズボンといったカジュアルな格好。そこで、奏の頭に一つの推測が浮かび上がる。
「もしかして、あなたは九十九中学校の?」
「そうそう。ちなみに三年生ですよ」
少女は嬉しそうに首を縦に振った。奏自身もその中学校出身で、そこは制服ではなく私服登校を義務づけていたために、もしかしたら、と思ったのだ。
「これから学校見学に行くんですけど、肝心の九十九高校の場所がよく分かんないんですよね。あんまりこっち来ないし」
「あぁ、なるほどねぇ」
確かに、奏もこの時期にそんなことをやった記憶がある。そういえば、と先日教師に校内を案内されている中学生を見たことも思い出した。
「それで、お姉さんに案内してもらおうと思ったんですけど……」と奏の方を窺う少女。
どちらにせよ、向かう先は同じなのだからこれといって問題はない。ここは年上らしいところを見せよう、と奏は笑顔で頷いた。
実は「お姉さん」と呼ばれたことが嬉しかったことも大きく関係していたが。
「でも、事前に場所とか調べておかなかったの? そんなに分かりにくいところにないんだけど」
「あー……実は」
苦笑いを浮かべ、少女は一枚の紙きれをコートのポケットから取り出すと、奏に手渡す。それは、広告の後ろいっぱいを使って描かれた、かなり適当な地図だった。縮尺がでたらめな上に、奏に覚えのない道が何本か追加されている。
これでは迷って当然だろう。
「いやぁ、お兄ちゃんがくれたんですけど……これ無理ゲーですよねー」
「……だねー」
先ほどの笑顔を引きつらせながら、奏はその地図の役目を果たさぬ紙切れを少女に返す。そこで、どうせだからと彼女の名前を聞いてみることにした。
「私は八城 奏。あなたは?」
「ボク? ボクは古宮 小町。いい名前でしょ」
奏は「ボク」という一人称に苦笑しながらも、「そうだね」と頷いておいた。
道中、小町からは今の九十九中学校の話を聞かせてもらった。奏が卒業してから二年しか経っていないが、どうやら知っている教師はあまり残っていないようだった。
「三島先生は去年、隣の中学に行っちゃいましたねー。面白い先生だったのに」
「えー、恩師だったのになぁ」
奏の記憶に、しょうもないジョークを言っては生徒達を苦笑させていた男性教諭の顔が浮かぶ。転勤してしまったことに寂しさを覚えたが、それでも小町からの評価がかなり上場だったので、少し嬉しくもあった。
生徒の考えを尊重し、時に見せる厳しさにも生徒を思う気持ちが感じられた。そんな彼の教師としての在り方が、奏は好きだった。
「まぁ転勤って言ってもそれほど遠い中学校でもないし、会おうと思えば会えると思いますよ」
奏を気遣ってか、そんなことを言う小町。口調は馴れ馴れしいが、不思議と相手に嫌悪感を抱かせない。おそらくその屈託のない笑みがそうさせるのだろう。
「きっと小町ちゃんって、クラスで人気者でしょ」
「まぁねー」
自慢するようでもなく、小町は続ける。
「でも、みんな外面しか見えてないんですよ。本当のボクを見ている人なんて、どこにいるんだか」
「……最近の中学生はすごいこと言うね」
奏は自分の歳を棚に上げ、苦笑する。巷では最近の若者はませていると言われるが、確かにそうかもしれないと思った。やけに大人びているというか、達観している。
「そういえばお姉さん、傘持ってないんだ?」
唐突に会話が切り替わる。少女は自らの背負った鞄から覗く傘の柄を示す。
「……今日いるかな?」
上を向くが、見えるのは雲一つない青空。確かに気温はあまり高くないが、家を出る前に聞いた天気予報ではそのようなことは言っていなかった。
すると、小町の表情が得意そうなものになる。
「降るよ。お兄ちゃんが言ってた」
その自信の前にどう反応してよいか分からず、奏はただ「へぇ」と曖昧に頷いた。
そんな調子で話していると、いつの間にか周囲には九十九高校の制服を着た生徒が目立ち始めた。校舎も見えてきて、ここまで来ればもう案内はいらないと思われる。
「もう大丈夫。お姉さん、ありがとね!」
「ううん、全然。先生のいうことちゃんと聞くんだよー」
「分かってるって」
返事もそこそこに、少女は校門へと駆けて行った。
その背を見送り、雑踏の中、奏は再び空を見上げる。これぞ快晴と言わんばかりに照り輝く太陽に目を細め、「降るわけないよね」と苦笑した。
■
放課後。
商店街に並ぶ適当な店の前、叩きつけるように降り注ぐ雨を前に、奏は呆然と立ち尽くしていた。一時的な雨宿りとして屋根の下に佇む彼女の近くを、数人の男子生徒が「天気予報のバカヤロー」と叫びながら通り過ぎていく。その濡れそぼった背を目で追いながら、奏はショーウィンドウに映った自分の姿を見る。
「うわぁ……」
髪の先から滴る水滴。肌にぴったりと吸着したブラウス。一応カーディガンを着ているので透ける心配はないが、だからといって問題がないわけではない。
どうにか学校から走って来たが、ここで体力の限界が訪れた。仕方なく手近な店先で雨を凌いでいるのが現状だ。傘を買うこともできなくはないが、できれば出費は避けたい。
今日は学祭の実行委員の顔合わせがあり、天里と渚は先に帰ってしまった。そういえば、天里の母親が迎えに来てくれるようなことを言っていた。
最近は、三人で帰る機会がない。というよりも、奏が二人と一緒に帰ることをなるべく避けるようにしていた。理由は、二人を吸血鬼の件で巻き込んでしまわないように、だ。
鋼牙からの話では今のところ例の男が現れる様子はないとのことだったが、まだあれから二日しか経っていない。安全だと思うのは危険だろう。
ただ、これから家までの長い道のりを考えれば、自分も車に乗せて欲しかったという気持ちがないわけでもない。
自らの境遇に溜め息を吐きかけた、その時。
「……あれ、八城さん?」
突然名前を呼ばれ、顔を上げた奏。いつからいたのか、そこには海原の姿があった。確かに同じ実行委員である彼もこれから同じタイミングで帰ることになるのだが、彼の家がこの方向だったとは知らなかった。
奏の視線が、彼の持つ緑色の傘を捉える。
「……傘、持ってきたんだ」
「まぁ、たまたまね」
奏の恨めしそうな視線に気づいたのか、彼の視線が自分の傘、次いで横に立つ奏へと移り、その後気恥ずかしそうに下に逸れた。
「あー、その……もしよかったらなんだけど」
うん、と奏が頷けば、彼の視線は背けられるようにして斜めへと泳ぐ。
一拍の間を置いて、彼が次の言葉を口にしようとしたその時。
「――あ、案内のお姉さんだ」
近くで発せられた声が、それを中断させた。声のした方を見れば、十メートルほど離れた場所で、朝の少女が二人の方を見ている。小町だった。
彼女は奏を見るなり得意げな笑みを浮かべる。朝のやり取りを思い出したのだろう。
「ほら、ボク言ったじゃないですか。降りますよ、って」
「あはは……そうだねぇ」奏は苦笑する。
そこで、小町が何やら思いついた様子を見せた。
「僕の家まで来ます? この傘小さいんで二人は無理ですけど、うちまで来てもらえれば貸しますよ」
「え……いいの?」
「案内してくれたお礼ですよ」
「ありがとう、助かったよー……あ、ちょっと待ってね」
奏は、すっかり蚊帳の外になっていた海原の方に視線を戻す。心なしか、彼の目が普段よりも細められている気がしたが、気のせいだろうと判断する。
「ゴメンゴメン。それで、さっきの話って?」
「……いや、やっぱり何でもない」
じゃあ、とだけ言うと、海原は足早に向こうへ行ってしまった。その憂愁漂う背に、奏は小さく首を傾げる。
「何だったのかな……小町ちゃん分かる?」
「ふふ、お姉さんはボクのもの、とだけ言っておきましょう」
「……はい?」
意味ありげに笑う小町に、奏はやはり小首を傾げたまま腑に落ちないものを抱えていた。
「ただいまー」
そう言って玄関に上がる小町。奏は中へ進んで行く彼女が見えなくなると、「ほぉー」と不思議そうに視線を動かす。
彼女に連れてこられたのは、古いアパートの一室だった。2DKのアパートで、玄関の近くに和室がある。その先はリビングらしい。
「あれ、上がらないんだ?」
ひょこっ、と奥の扉から小町が顔を覗かせる。
「いや、傘だけ借りられればいいよ」
「濡れてるじゃないですか。タオル貸しますし、お茶くらい出させてくださいよ」
奏は遠慮したが、結局戻ってきた小町によって中へと引き入れられた。リビングを通ってその先、彼女の部屋らしい場所に連行される。
そこは、まさに女の子らしい部屋だった。淡いピンク色の壁紙に、水色のカーペット。部屋の脇に置かれたベッドや机には、大小様々な動物のぬいぐるみが置いてある。それも、かなりの数が。
ふと、奏は自分の部屋の殺風景さを思い出した。
「……部屋って、住人の可愛さに比例するのかな」
「何言ってんですか。フツーですよ、フツー。それより、お茶取ってくるんでちょっと待っててくださいね」
そう言うと、彼女は部屋から出て行った。可愛らしい部屋に一人残された奏は、手持無沙汰に部屋の眺めるしかない。
取りあえず、と湿ったカーディガンを脱いで体を拭っていく。十二分に水分を吸収したブラウスはべったりと体にくっついていたが、何もしないよりはマシだろう。
その時、たまたま腕が机の上に置いてあった箱にぶつかった。
「げっ」
幸いカーペットの上に落ちたため音はしなかったが、その拍子に蓋が空いて中身が出てきてしまった。
吐き出された中身はキーホルダーやシール。それをかき集め、箱へと戻そうとする奏。すると、その中に妙なものを発見した。
新聞の切り抜き。幾枚かまとめられたその先頭には、奏もよく知った記事が見える。
それは、例の変死体を報じたものだった。
「何で、こんなもの……」
まさかオカルト趣味じゃあるまいな、と奏が眉根を寄せていると、扉の外で足音が聞こえた。小町が戻ってきたのだろう。
「やばっ」
すぐさま切り抜きをキーホルダーと一緒に箱に戻し、机の上に置く。
「おーい小町、俺はちょっと出かけてくるぞー」
男の声だ。そう言えば、と奏は小町に兄がいたことを思い出した。おそらく、あの玄関近くの和室にいたのだろう。しかし、どこかで聞いたことのある声な気がする。
そんなことを考えていると、急に扉が開いた。
「小町、聞いてんのか? 返事してくれないとお兄ちゃん泣いちゃ――」
顔を覗かせた人物は、そのままの表情で動作を停止した。動揺に、奏もぽかんと口を開けたまま動けずにいた。
「お前、何でここに……っつーか服透けて――へぶしっ⁉」
奏の鞄が、男の顔面にめり込む。教科書がぎっしり詰まったそれを抱えるようにして、大きな音と共に男は倒れ込んだ。
「そ、そっちこそ……何でここにいるんですかぁ⁉」
素早く両腕で胸元を覆い、奏は紅潮した顔で男――鋼牙を睨みつけた。
「い、いや何でって……俺の家に俺が居ちゃ悪いか⁉」
鋼牙の叫びが響くのと、再び上げられた彼の顔に、クマのぬいぐるみが叩きこまれるのは同時だった。




