蠢く闇
「あ、奏。おはよー」
教室で机に教科書を突っ込んでいると、不意に声を掛けられた。顔を上げれば、同じクラスの天里が目の前にいる。
「いつもは遅刻気味なのに珍し――はわ⁉」
間髪入れず抱き着かれた天里が、奇妙な叫びを発する。
「うぅ、天里ちゃん……ようやく普通の人に会えた」
「ど、どうした? なんか奏、変だぞ?」
周囲の訝しげな視線に顔を赤くする天里。即座に引き剥がされてしまったが、そのまま奏はぐったりと机に突っ伏す。
「……何かあったのか? 普通の人ってどういうことだよ」
奏が朝に弱いのは天里も知っていたが、普段はここまでではない。だから、彼女は本気で心配しているのだ。
「実は――ううん、やっぱ何でもないや」
「はぁ?」
期待を裏切られたような表情を浮かべる彼女に、奏はば慌ててたばたと腕を振る。
「い、いや……実行委員の仕事がちょっと大変でね! 昨日の夜頑張ったから、その反動かなぁーなんて!」
――絶対に、ここで知ったことを他の者には他言しないこと。
それが、昨日の夜に奏が約束させられたことだった。
「いや、意味分かんねーんだけど……」
徹夜の反動で抱き着いてしまった、などという破綻した論理を誰が信じるというのか。
それでも、少し怪しむような様子を残しながらも、彼女はそれ以上の追求を諦めてくれたらしい。
「……まぁ、いいか。でも仕事大変だったら私とか、渚にも言ってくれよ? 少しは手伝うからさ」
「う、うん。ありがとね」
「っつうか――海原ァ! お前も実行委員だろうが、奏にばっか仕事任せてんなよ!」
ボーカルを務める天里の声は、まだ人の少ない教室によく通る。その標的になった海原少年は、最前列の席から二人へと視線を向けた。
その糸のような細目はどこか眠たげで、「海原」というよりも、静かな湖面を連想させた。
「……僕、なんかした?」
「むしろ何もしてねーから怒ってんだっての!」
「わ、分かった。耳にくるから、そう怒鳴らないでよ」
席から立ち上がり、少年は奏が座る席までやってくる。そのまま奏と目線を合わせるように、中腰にしゃがみ込んだ。
「えっと……ゴメン、奏さん。確か今のところやらなくちゃいけない仕事はないと思ってたんだけど……僕、聞き漏らしてたかな」
「え、ううん、仕事は無いよ! いや、無いわけじゃないっていうか、なんて言うか……」
奏を不審そうに見る二人分の視線が、余計に彼女の思考をパニックに陥らせる。
「と、とにかく! 海原君は悪くないから!」
煙が出るんじゃないかというレベルまで脳を酷使したが、結局力技になった。「どっちだよ」という天里の視線がぐさぐさと刺さってくる。
「そっか……でも、もし何かあったら言って。僕も実行委員だし、部活も入ってないから時間はあるから」
「けっ……ガリ勉め」
「ちょっ、天里ちゃん!」
慌てて天里を小声でたしなめる。
しかしその声が聞こえなかったのか、特に彼女に言い返す様子もなく海原は自分の席へと戻っていった。どうやら彼を傷つけなかったことに、奏は胸を撫で下ろす。
すると、「あ、そうだ」と天里が何かを思い出したように、手を打ち合わせる仕草を見せた。
「昨日言ってた曲の話なんだけどさ……どうせやるなら、自分たちで作ったものの方がいいんじゃないかな」
「そうかもしれないけど……」
天里の提案は、確かにもっともらしいことではある。作詞作曲までも自分たちで手掛けられればそれ以上はないだろう。ただ学祭当日まで残すところ二か月もない。奏は作詞も作曲もやった試しはないが、練習する時間も考えれば、その期間が短すぎることだけは分かる。
しかし、天里が恥ずかしそうに呟いた一言で、それを言葉に出す必要はなくなった。
「実は……少し前からやりたいと思ってたんだ」
何を、と尋ねると、当然のように「作詞と作曲」と返ってきた。
■
その日の授業は、いつもよりは退屈ではなかった。
窓際の席の奏は、眠気に襲われると外の景色を眺める。校庭の中央にそびえる大きな桜の木が、奏は好きだった。
当たり前だが、その木に花が付いていたのは約半年前。今は裸同然となった梢が寂しそうに立っているだけだ。
それでも、まだ死んでいない。次の花を咲かせるために、生命力を蓄えているだけだ。
例に洩れず、今日も現代文のつまらぬ説明を聞き流していると、校門の外、古びた電柱の影に、黒い影が見え隠れしているのが見えた。
それは、寒風にさらされながら、ちらちらと彼女のいる教室を窺う鋼牙の姿。
――しばらくの間、私の部下を護衛として貸そう。
昨夜市長が言った言葉が、頭の中で再生される。あの吸血鬼が再び襲ってこないとも限らから、ということだったが、まさかここまで露骨にされるとは思っていなかった。
ちなみに、十字架やらニンニクやらが吸血鬼に効くというのは嘘らしい。だから奏は自衛する手段を持たない。
教師が黒板に主人公の心情とやらを書き記しているのを写し、再び鋼牙がいた方に目をやる。
「……あ」
彼の前に、制服姿の警官が二人。どうやら職務質問をされているらしい。某少年探偵の敵のような黒ずくめがうろうろしていれば、当然警察も怪しむだろう。
鋼牙は何やら慌てた様子で叫び、懐から手帳を出して示した後――連れて行かれた。
「うわぁ……」
何やってるんですか、と奏が声にせず呟く。それが、運の尽きだった
「――おい八城、聞いてたかぁ?」
「ひゃい!?」
教科書を読んでいた中年の教師の声に、奏は奇声を上げる。冷たい視線を感じ、ぎしぎしと音をたてるかのようなぎこちない動きで、彼女は教壇の方を見た。
視線の先、一見温厚そうな顔つきの男と目があった。口元は笑うかのように緩んでいるが、目は笑っていない。
「今のところ、続きから読んでもらってもいいか」
「……えーと」
何気なく天里の方を窺う。助けを請うたつもりだったが、先ほど抱き付いたことへの意趣返しか、静かに合掌された。
――この薄情者ッ!
周囲の視線が自分に集まるのを感じ、それがまた彼女の焦りを悪化させる。そんな中、奏は他の者とは違った存在を見つけた。
彼女と同じ机の列、その一番前。誰にも注目されることなく、頬杖を突いた海原が前を向いたままノートの切れ端をひらひらと振っている。そこに大きめの文字で書かれた数字に従い、奏は次の段落の冒頭までを読み上げた。
「……む、なんだ聞いていたのか」
ちぃ、と残念そうに指を鳴らす教師の言葉に、周囲から、「おぉ」という感嘆のどよめきが起こった。
とりあえず恥をかかずに済んだことに胸を撫で下ろし、奏は恩人の方を窺う。
案の定、まるで何事もなかったかのように、彼は黙々と黒板に書き殴られた文字を写していた。
■
その日の夜、夕飯を食べ終えた奏は二階の自室で机に向かっていた。奏が通う九十九高校はそこそこの進学校であるため、毎日の課題はお約束だ。もしなかったとしても、予習復習をせねばすぐに周囲に置いていかれる。
携帯電話に着信があったのは、数学の応用問題に苦戦していた時だった。
「――おう、俺だ」
「……着信欄見れば分かりますって」
相手は鋼牙だった。昨夜、何かあったら、ということで彼と連絡先を交換したのだ。一応霧﨑の連絡先も教えてもらったが、恐れ多くて使うことはないだろうと思われる。
「それで、今どこですか? 取り調べが終わって、牢屋とかですか?」
「見てたのかよ……いや、問題ねぇ。解放してもらって、今はお前の家の近くだ。ま、警察にもちょいとコネがあってな」
「常習犯とかではなく?」
「お前、絶対蓮花から悪影響受けてるぞ」
奏は机に広げられた数学の問題集を一瞥し、今日はもう諦めることに決めた。どうせこれ以上悩んでも分からないだろうし、そういう時は翌日に天里や渚に教えてもらえばいい。天里はともかく、渚はかなり上の大学を狙っているため頼りになる。
「……少し、お話してもいいですか」
冊子を閉じると奏はベッドまで移動して腰掛けた。
「鋼牙さんって、その……人狼、なんですよね?」
「おう、まぁな」
何でもないことのように答える彼の声には、むしろそれを誇るような気配さえある。
「じゃあ、その……お父さんとお母さんも?」
聞いていいのかどうか迷ったが、奏は思い切ってその問いを口にした。
昨夜、確かに霧﨑や鋼牙から人に紛れて暮らす存在について教えてもらった。ただし、それはあくまで必要最小限の情報だけ。
闇に住む者達全てが、人間に害を与える存在ではないこと。
霧﨑と鋼牙達が、人を襲う存在を追って動いていること。
奏が、そのうちのターゲットの一人に狙われているかもしれないということ。
話を聞いている内、奏は目の前にいる二人は信じてもよいと思った。彼らの時折見せる優しさに、嘘が隠れているとは思えなかったから。
あえて必要以上のことを教えないのも、その気遣いの一つなのだろう。
そんな優しさを、ただの純粋な好奇心が踏みにじることになるとは思わなかったのだ。
次に鋼牙が言葉を発するまで、少し間があった。
「……いや、親父やお袋――妹もいたけど、三人とも普通の人間だった。先祖返りってのか? 親父の家系の、何代か前の爺さんまでは、人狼だったらしいけどな」
「じゃあ――」
「捨てられたよ」
奏の言葉を、鋼牙が遮った。
「俺が普通の人間じゃないって分かったら……多分、気味悪かったんだろうな。俺が年取って、変身できることに気付いて三人に見せたんだ。あの時は子どもだったし、ただ自慢したかった。どうなるかなんて、あまり深く考えてなかったんだ」
自嘲するような乾いた笑いが、やけにはっきりと聞こえる。彼自身、自分でも歯止めが利かなくなってしまったらしい。
「ありゃあ酷かった。特に妹なんて、いつも俺についてまわってたのにな。お袋の後ろに隠れて、すげぇ怖がってさ……今でも忘れられねぇ。それで、気が付いたら家飛び出してて――あ、じゃあ捨てられたってわけじゃねぇわ」
ようやく、そこで鋼牙の声が途切れた。
ただ、奏は告げられた過去に何も言えずにいた。嫌な記憶を思い出させたであろうことを謝罪するべきだとは分かっているのだが、想像を絶する過去の重みが、彼女の出掛かった言葉を押さえていた。
「……満足したか?」
そんな状況を知ってか知らずか、鋼牙の声が端末から流れる。いつもの声よりも、やや硬かった。
「ごめん、なさい……」今更になっても、結局言えたのはそれだけだ。
「いや、知りたいと思うのは悪いことじゃねぇさ。話したのは俺だし……でもまぁ、あんまり他のやつには聞くな。蓮花もあれでいて、結構重いもん背負ってる」
伝わるはずもないのに、奏は首を小さく動かす。ぐすっ、と鼻が鳴った。
「はは……ガラじゃねぇや、説教なんてよ」
慌てたのか、「あ、そうだ」と鋼牙の調子が明るいものに変わる。
「元々の目的忘れるとこだった。見た感じあの野郎の気配はねぇから、安心していいぞ」
「……それ、だけのために?」
ただそれだけを言うために電話したということに、奏は少し驚いた。
「あぁ? 大事なことだろ、それ聞かないでお前ちゃんと寝れんのかよ」
「うっ……それは」
言われてみればそうだ。昨日寝たのは空が白み始めたころ、加えて部屋に蓮花と鋼牙が居てくれたが、今は自室に一人。不安がないと言えば嘘になる。
「ほらみろ」鋼牙のからかうような声。
「え……じゃあ鋼牙さん、今日はずっとそこにいるんですか!?」
「そりゃあ、吸血鬼が活動的になるのって夜中だしな、仕方ねぇだろ。ま、明日は他のやつが交代するし、そしたら寝るさ」
「でも……」
奏は口ごもる。外を見れば、秋特有の身を切るような風が、庭の木々を揺らしている。
「心配すんなっての。それより、お前こそ昨日から碌に寝てねぇんだろ。さっさと寝た方がいいんじゃねぇのか?」
「……そうですね。じゃあ、そうします」
加えて、鋼牙が通話を終了する前に、「ありがとうございました」と続けた。
「安心しろ、お前には指一本触れさせねぇよ」
恥ずかしそうに告げられたその言葉に頬を綻ばせ、奏は通話終了を切る。もう一度だけ、「ありがとうございます」と呟いた。
■
「――ぶえっくし!」
寒空の下、鋼牙は身を縮めるようにして二の腕を摩る。彼の視線の先には、赤い屋根の一軒家。そこの二階が奏の部屋だ。先ほどまでカーテン越しに見えていた明かりも、今は見えない。就寝したのだろう。
「さぁて、どうすっかな」
誰に言うでもなく呟かれた言葉。
実は、先ほど奏に告げた「怪しい人物はいなかった」という言葉。正確には、少し違う。
鋼牙が彼女に電話を掛ける少し前、鋼牙は不審な気配を感じ取っていた。しかし、それはしばらくするとどこかへと消えた。
鋼牙の気配を察したのか、または日を改める理由があったのか。どちらにせよ、彼女が狙われていることは確かだった。
「ちっ……馬鹿じゃあねぇってか」
面倒だな、と零し、鋼牙は再び夜風に身を震わせる。相手の実力が分からない以上、下手に動くこともできない。さらに、部下からは最近統率のとれた動きをする一団があるという報告も聞いている。
「……こりゃあ、かなり厄介なことにあいつを巻き込んじまったかもしれねぇな」
僅かながらも生まれつつある焦りと罪悪感。
そこから生まれ出た言葉は、唐突に吹いた秋風に紛れ、消えていった。




