金色の瞳
「――はっ⁉」
柔らかい。それが、彼女が最初に思ったことだ。
少なくとも冷たいコンクリートの地面ではない。もっと弾力があって、温かなものの上に、奏はいた。
がばっと上体を起こすと、胸の辺りまでかけられていた毛布が落ちる。
「……どこ?」
また見知らぬ場所。もう夢なのではないかと疑いたくなるレベルの唐突さだ。しかし、今度は高層ビルの屋上などから比べれば、まだ現実味を帯びた空間だった。
そこは、正方形の大きな部屋。電灯が消されているため薄暗いが、周囲が見えないほどではない。
部屋の中央で、彼女はソファの上に横になっていた。そのしっかりした作りからして、来客用の、かなり高級な品だろうことが分かる。
見渡せば、新雪を思わせる真っ白な壁。それとは対照的に、床には高級そうな黒い絨毯が敷かれている。落ち着いた雰囲気に自分がどうにもそぐわない気がして、思わず背筋が伸びる。
しかし、誰もない。
奏がもぞもぞとソファで動く音以外は、全くの無音。
「んー……夢かなぁ」
そうだ、夢だ。思考を放棄し、彼女はそう決めつけた。屋上での出来事も、今いる部屋も、すべてが八城 奏という人間の脳が作り上げた空想の世界。妄想という名のフィクション。
「だいたい、吸血鬼なんているわけないじゃん。あー、頭の悪い夢見たなー」
しかもコンプレックスの一つである胸を馬鹿にされ続けるという、かなりの悪夢。もしかしたら自分の胸は、深層意識では緊急案件としてピックアップされているのかもしれないな、とくだらない考えも浮かんでくる。
「ま、夢ならいずれ覚めるでしょ」
そう考えて、奏はずりおちた毛布を再び引き上る。そのまま夢の中でさえ二度寝を決め込む怠惰ぶりを発揮しようとするが――しかし、それは叶わなかった。
「……いや、寝すぎだろ」
「はにゃあ⁉」
唐突に降ってきた声に、思わず頓狂な声を上げる奏。
見れば、ソファの背もたれから知らぬ男の呆れ顔が覗いている。正確には、見たことはあるが名は知らない、というべきか。
それは、夢に出てきたあの黒服ピアスの男だった。
「大丈夫か。頭痛とか、体のどこか痛むとか、あと脳に異常は――あぁ、元からか」
心配しているのか、馬鹿にしているのか分からない言葉を吐く男。いや、後半は明らかに悪口だった。
状況は理解できずとも、流石に言われっぱなしは癪に障る。
「……まだ、あなたの出番あるんですか?」
「おい、お前のヘンテコな夢のキャストに勝手に俺を組み込むな。大体、夢なんかじゃねぇぞ」
「は、はぁ……」
夢の中の人物に、これは夢ではないと言われても説得力がない。そんな考えが表情に現れていたのか、何の前振りもなく男の手刀が彼女の頭上に落とされた。
「痛いっ――あれ?」
痛みが、ある。
「おら、現実だろうが――おい、こいつ起きたぜ」
腕をソファの背もたれに乗せたまま、その男は誰かに声を掛ける。彼の視線は窓側にある執務用の大きなデスクに向けられていた。
「え……」
いつの間にか、そこには女性の影があった。黒光りする椅子の背もたれに身体を預け、まるでさきほどからも変わらずそこにいたかのよう、いたって自然に存在していた。
濡れたような光沢をもつ黒髪に、色白な細面。スーツの下からでさえ窺える、緩やかな曲線を描くしなやかな肢体。まるで絵画の中から生まれ出たかのような、そんな印象を抱かせる存在。
見間違えるはずがない。ここまでの完璧な美貌を誇る者など、そうそういるはずがないのだから。
霧﨑 蓮花――商店街のテレビに映し出されていた人物が、そこにいた。奏達のやり取りには一切興味を示さず、ただ黙々と小難しそうな資料に目を通している。
紙が一枚、音もたてずに捲られた。
「おい蓮花、聞いてんのかよ?」
「む……あぁ、すまない。お前の声は少々聞き苦しくてな。意識的に聞かないようにしていた」
「意識的にってことはフツ―に無視してるだけじゃねぇか!」
「ようこそ、お嬢さん。急にこんなところに連れてきてすまなかった」
男の抗議は、さも当然のように無視された。
「市長さん、ですよね? 何でこんなところに……?」
「ん……いや、何でと言われてもな。市長室に市長がいてはおかしいか?」
彼女は読んでいた資料をデスクに置いた。あの野心を秘めた瞳が、真っ直ぐに奏へと向けられる。
「それより、他に聞きたいことがあるんじゃないか? 最も疑問に思うことを聞いてみろ」
「……えーと」
奏は自分の後方、入り口側の部屋の隅を指さす。
「あの人、あれでいいんですか?」
そこには、先ほどの男がいじけたように背を丸めて座っていた。その周辺にはどんよりとした空気が漂っている。
「ふむ……それは本当に、最優先で聞かねばならないことかな? もしそうなら君が質問できる貴重な回数を消費した上で事細かに私が説明を――」
「すいません質問変えていいですか」
背後に漂う瘴気がさらに濃くなった気がしたが、奏は構わないことにした。
「じゃあ……さっきの、夢じゃないっていうのは本当ですか?」
今度は期待通りの問いだったのか、霧﨑の口元が僅かに吊り上がる。
「信じたくはないかもしれないが――その答えはイエスだ」
「ありえない!」
半ば反射的に、奏は叫んでいた。
「だって、吸血鬼ですよ⁉ そんなの小説とか映画とか、架空の存在じゃ――」
「では何故、そこでごみと一緒に転がっている男が、君の目の前にいるのかな? これすらも夢だと?」
返された問いかけに、奏は俯いて口を閉ざすしかなかった。当然だ、これが夢ではないことを、既に彼女は知っている。
男の金の瞳も、市長の艶やかな声も、全てが正真正銘の現実だ。
「……すまない、少々意地悪だったかな」
ふっと洩らされた苦笑を聞いて、奏は顔を上げた。すると、頬杖をついた霧﨑が微笑を浮かべている。先ほどの挑戦的な表情は消え、代わってそこにあるのは優しげな笑み。
「ちゃんと説明はさせてもらうよ。こちらとしても、巻き込んでしまった責任はあるからね……でもその前に、しなければいけないことがあるだろう?」
そう言って、彼女は壁に掛けてある時計を指さした。短針が九と十の間で止まっているのを見て、「あ」と奏は声を漏らした。
「親御さんに電話した方がいい。多分今頃、心配していると思うぞ?」
■
「――もしもし、奏⁉」
呼び出しが鳴ってすぐに受話器が取られ、母の声が飛び込んできた。話さずとも、その声の調子からかなりの心配を掛けていたことが察せられる。
「うん……そう」
相手が奏だと分かると、受話器の向こうで安堵したような吐息が聞こえた。
「大丈夫? 夕飯の時間になっても帰ってこないから、すごく心配して」
「うん……ごめんなさい」
聞けば、ちょうど警察に捜索届を出そうと考えていたのだという。
「今どこにいるの? 迎えに行くわ」
「あ……実は、友達の家で実行委員の仕事をやってるの。ほら、学祭の」
咄嗟に天里の顔が浮かぶ。とりあえず、彼女の家にいることにしよう。まさか市長と一緒にいるなどと言えるはずもない。
「だから、今日は帰らないつもりだったの。電話しようと思ってたんだけど、その、いろいろとあって……ごめんね、心配かけて」
「……いいわよ、もう。お父さんにもそう伝えておくから、今度からはちゃんと連絡しなさいよ?」
「うん、分かった」
その言葉を最後に通話を切り、スマートフォンを先ほど霧﨑から返してもらった学生鞄に突っ込む。吸血鬼に襲われたときに落としたそれを、後で回収してくれたそうだ。
「……お前なぁ」
突然の声に振り返ると、目の前には半目で呆れる黒服が立っていた。あの金色の瞳は、薄暗い室内でも不思議な光を湛えているように見える。
「な、何ですか」
「……あんまり家族に迷惑かけるんじゃねぇぞ?」
「う……分かってますよ。それだけ言うために来たんですか」
「大事なことだろうが」
男の後に続くようにして、奏は先ほど自分が寝ていたソファへと戻った。霧﨑の方を見れば、にやにやと面白がるような笑みを浮かべている。
「市長を友達呼ばわりとは、いい度胸じゃないか」
「も、もちろん嘘ですよ?」
ふかふかと沈むソファの上に、何故か申し訳ない気がしてちょこんと腰かける。その隣に、体を放るようにして男が座る。危うく、奏の小さな体は跳ね上がりそうになった。
「――さて、何となく分かっているようだが、単刀直入に言わせてもらう。君を襲ったのは正真正銘、本物の吸血鬼だ」
霧﨑の言葉に、奏はただ頷く。もう疑うのはやめることにしていた。
「でも、何で私は生きているんですか? 私、ビルから落ちましたよね」
「決まってんだろ。俺が助けたんだよ」
男が自慢げに、椅子の上で胸を張る。
「……それは、嘘くさいです」
「何で吸血鬼は信じて、俺のことは信じねぇんだよ⁉」
差別だと喚く男から、奏は霧﨑へと視線で尋ねる。すると、彼女は苦笑しながらも頷いた。
「それも本当だ。この煩い男が君の死を防いだ」
「えー」
奏での記憶が正しければ、彼女が落ちた時、男も屋上にいた。そこからどうやって彼女を助けたというのか。普通に考えればありえない。
「ついでに言えば、その鞄拾ってきてやったのも俺だからな」
「……変なことしてませんよね」
「お前の体操着なんぞに興味あるか」
「何で中身知ってるんですか!?」
「……続きを、いいかな?」
霧﨑の空咳で、奏と男のやり取りは中断させられる。それでも二人はしばらく半目で睨みあっていた。
「……我々は、秘密裏にああいった連中を追っているんだ。この九十九市の犯罪発生率が高いことは知っているな?」
その言葉に、ある種の嫌な予感が脳裏をよぎった。「まさか」と反発する気持ちが強いが、徐々に、自分の中でそれが委縮していくのが分かる。
ここで、常識は通用しない。先ほど知ったばかりだ。
「……あんなのが、他にもいるってことですか?」
「はは、まさか――もっとひどい奴等ばかりさ」
奏ではその言葉が脅しだと思ったが、霧﨑の表情がそうでないと教えていた。
「そんなのが、どうして今まで見つからずに……」
「見た目は人間とほとんど変わりないからな。巧妙に、社会に溶け込んで暮らしているんだ」
「じゃあ、それを警察に言いましょうよ!」
それが事実なら、放っておいていいはずがない。事実、あの吸血鬼によって少なくとも二人、犠牲者が出ているのだ。国家機関が力になってくれるのなら、捕まえるのは容易いだろう。
だが、霧﨑は悲しそうに首を振る。
「説明などしても、信じてくれんさ。頭がおかしくなったと思われるのがオチだ」
「そんな……でも!」
「聞け――そうしないのには、もう一つ理由がある。もし警察に伝えれば、人間は彼らを根絶やしにしようとするだろう」
「それは……そうでしょうけど」
確かに、人が彼らに対してどういった行動をとるかは想像に難くない。しかし、だからといってこのまま霧﨑達だけで解決できる問題とも思えなかった。
「闇に生きる者達の中にも、悪意がない者だっている。むしろ、そっちの方が多いくらいだ。だから、人間には任せたくない」
「……何で、そんなことが分かるんですか」
奏の言葉に、霧﨑は少し戸惑ったような表情を見せた。突かれてほしくないところを突かれた、そんな感じだ。
「それは――」
「俺達も、そっち側の人間だからな」
今まで黙っていた男に、奏と霧﨑の視線が向く。片方は困惑、もう片方は驚愕が込められていた。
「鋼牙! お前……」
「仕方ねぇだろ。本当のこと言わねぇと、多分信じてくれねぇ。鞄の中身も、俺達の正体も、隠し事は無しだ」
「……今、何気に見たって認めましたよね?」
「いいか、これから起こることをよく見ておけ」
奏のじとっとした視線から逃げるように、鋼牙と呼ばれた男はソファの背もたれを飛び越える。そのまま部屋の中央へと着地した。距離にして三メートル。
「……確かに、すごいジャンプ力だとは思いますけど」
それがどうした――奏がそう言おうとした、その時。
――びきっ。
乾いた音が、部屋に響いた。それに合わせるように、鋼牙の身体が、縮むように前に傾く。
「……え?」
奏の見ている中、男の背がぼこりと膨らんだ。スーツの背が裂け、続いて襟の辺りもどんどん裂けていく。その隙間から覗くのは、黒と茶の混ざったような、明らかに人間のそれではない体毛。
ばきり、ばきりと何かが壊れる音が部屋に響く。
それは、もしかすると奏の中の常識が壊れていく音かもしれなかった。
気が付けば、男の姿はどこにもなかった。
代わりに、そこには黒い人型の異形が佇んでいる。
突き出た鼻に、大きな口から覗く鋭い牙。鋭利な爪に、人間ではありえない骨格を持つ偉丈夫。
「――『人狼』の鋼牙ってんだ。よろしくな、嬢ちゃん」
金色の瞳を持つそれが、口の端を歪める。奏は、それが笑みであることにしばらく気が付くことが出来なかった。




