序章
人とは、本能的に闇を恐れる生き物だ。
見えぬ何かに怯え、感じることのできぬ存在に竦みあがる。
しかしただ畏怖を抱き、避けようとするのではない。
同時に、憧れてもいる。
未知への入り口に、人は好奇心を掴まれる。
闇が支配する世界。人が踏み入れてはならぬ場所。
そこには何がいるのか。はたまた、何がいないのか。
少女は、ただ問いかける。
その日、意図せずして足を踏み入れてしまう世界に。
きっかけは、月光に濡れた二本の牙と、猛々しさを秘めた金の瞳だった。
「――ほら奏、置いてくよー」
「え――あ、うん」
我に返り、八城 奏は日の差し込まぬ路地裏から目を背ける。向こうで、朱色に染められた夕映えを背に、二人の少女が手を振っていた。
その眩しさに、思わず目を細めてしまう。
「今行くよ」そう叫んで、彼女はもう一度だけ細い暗がりに視線を戻す。
真っ黒に塗り潰されたその場所で、何かが蠢いているような、そんな気がした。もちろん、それが錯覚に過ぎないことは分かりきっているのだが。
奏は一抹の名残惜しさを感じながらも、友達の元へと走っていった。
■
高校からの下校途中。
商店街の家電屋の前を通った時、奏はふとそこに設置されている大型テレビに目をやる。ちょうど地元の報道番組が始まったところだった。
「――続いてのニュースです。数日前、全身の血液を抜かれた状態で発見された変死体に続いて、新たに今日未明、同じ状態の遺体が発見されました。前回発見された遺体と同じような首元の傷跡から、警察は同一犯による犯行と――」
「うわぁ、まただって。怖いね」
女性キャスターによって淡々と読み上げられる情報。耳にした悲惨な事件に、奏は眉を顰めた。その隣に立つ新宮 渚も、彼女に同意するかのように小さく頷く。
他の市よりも犯罪発生率が群を抜いて高いこの九十九市といえども、ここまで不気味な事件は聞いたことがない。
全身の血を抜き取るなど、どのような手段を用いたのか。想像するだけでもぞっとしてしまう。
しかし二人の後ろでそれを見ていた鹿沼 天里は、あまり関心がなさそうだった。
「ふーん……大変だなー」
「他人事じゃないって。これ、遺体が見つかったところってこの近くだよ?」
「そうだけどさ、何かこう、実感持てないんだよねー。それに血を抜くとかなに、吸血鬼かっての」
そう言って、彼女は肩のあたりの髪を弄り始める。指に巻いては解き、また巻いて解きを繰り返す。その仕草からは、危機感などというものは一切感じられない。
「もう……危ない目にあっても知らないよ?」
彼女の防犯意識を変えることを諦めて、奏は再び大型画面に視線を戻した。
深刻そうに話していた女性キャスターも、いつの間にかにこにことした笑みを浮かべている。どうやら、次の話題に映ったらしい。
「――霧﨑新市長がこれからの市政に向けた抱負や目標について、就任式の場で記者団に語りました。新市長は犯罪発生率の低下を第一に――」
「おっ、噂の美人市長じゃん」
そのニュースになった途端、天里の表情が変わった。そんな彼女の変わり身の早さに半ば呆れながらも、奏は再びニュースに耳を傾ける。
大画面に映し出されたのは、演説台の前でひしめく人々に向けて話す若い女性。天里の言葉通り、前回の市長選挙において圧倒的支持率で当選した人物だ。
そんな彼女に、奏は思わず目を奪われた。
黒いスーツから覗く肌は病的なまでに白く、匠の精巧な工芸作品のような、触れただけでも傷つけてしまいそうな雰囲気が漂っている。
しかしその整った面に浮かべられた笑みは、そんな華奢なイメージとは真逆。
切れ長で、やや吊り上がった目。口元には、どこか挑戦的とも思える笑みが浮かべられている。印象と表情のギャップが、どこか近寄りがたい妖艶さとなって表れていた。
指の動き一つでさえ、異性同性を問わず見る者を魅了するよう。
「はぁ……」
近くで、天里の熱がこもった吐息が聞こえた。どこかのアイドルを追いかけるファンと同じそれだ。
「カッコいいよなー。まさにできる女、って感じでさー」
「……ん。私も、そう思う」
珍しく、あまり自らの意思を表に出さない渚もその大画面に見入っていた。日ごろは眠そうに細められている目に、好奇心が見え隠れしている。
スピーチを聞く人々の目にも同じような色が宿っているだろうことは、想像に難くない。
「霧﨑 蓮花、だっけ。対抗馬のおじさん、悔しそうだったなー」
奏の脳裏に、蓮花市長の当選が決定した時の記憶が再生された。投票結果が分かる前から、彼女は泰然とした態度を崩さなかった。
自分が選ばれないわけがない、そう言っているようだった。
「あんな疲れ切った顔したオッサンに誰も票なんて入れるわけないじゃん。目立ちたかっただけだって、絶対」
「……世の中見た目ってことかー」
奏はそのおじさんに内心で手を合わせた。
そうしているうちに映像が切り替わり、再びキャスターの女性が映し出される。あー、と残念そうな声を上げる三人。
「……んじゃ、帰りますかね」
「そうだねー」
誰からというでもなく、三人は商店街の出口へと歩き始めた。
「あ、そういえばさー」
その時、天里が口を開く。不意に思い出した、という感じだった。
「学祭でやる曲、どうしよっか?」
「あー」
そう言えば、まだ決めていなかったな、と奏は思い返す。
彼女達の通う九十九高校では、現在十一月の学園祭に向けた準備が着々と進められていた。当日はそれぞれのクラスや部活動が、屋台やお化け屋敷を企画、運営することで参加することになる。
奏達が所属する軽音部では、小さなライヴのようなものを企画していた。奏達はこの三人でバンドを編成しており、そこで奏はベースを担当している。
学園祭当日までにはまだ一か月以上あるが、演奏の練習とは別にクラスの出し物の準備も並行して行わなければならないため、時間はあるようでいてあまりないと言える。
今の今まであまり考えていなかったのだが、流石にそろそろ決めないとまずい。
「渚ちゃん、特にやりたい曲とかある?」
何となく聞いてみたのだが、既に渚の目は眠そうに細められていた。本人曰く別に眠いわけではないらしいのだが、こういう時の彼女は基本的に周囲に合わせようとする。
「……二人に、任せる」
予想どおりの返答に、奏は思わず苦笑してしまう。そこで口を開いたのが天里だった。
「じゃあさ、私の方で候補を適当に見繕ってこようか? 奏、実行委員の方の仕事もあるじゃん」
実行委員というのは、文字通り運営に携わる者達のこと。各クラスからそれぞれ男女一名ずつが選ばれるのだが、奏は生徒会の友達からやってくれないかと頼まれてしまっていた。
各クラスや部活動の場所の割り当て、学校外部に向けた案内の作成等、これから忙しくなってくる彼女にとっては天里の申し出は非常にありがたいものだ。
「んー、じゃあお願いしていいかな? 本当なら任せっきりにしちゃ駄目なんだろうけど……」
「いいのいいの、運営がちゃんとしてくれないと、学祭自体が成り立たないから。その代わり、軽音部にはたっぷり時間を確保してくださいよぉ?」
「そ、それは約束しかねるかなぁ……」
悪戯っぽい表情で迫ってくる天里に、奏はしどろもどろに答える。
ライヴを行う音楽サークルは複数あるため、会場として、毎年大きな場所に人気が集中する。当然、誰だってやるならば大勢の人に見てもらいたいと思うのだ。
そうなれば必然的に各部の持ち時間は少なくなってしまう。その割り当ては各部の希望をとった後に実行委員の協議で決められるが、当然そこに贔屓など許されはしない。
もちろん、天里が冗談で言っていることは分かりきっていたが。
そんなことを話しているうちに、三人は商店街を抜ける。ここからは奏と他の二人は別の道だ。
「それじゃあ奏、また明日ね」
「うん、また明日―」
「チャオー」
曲がり角で二つの影が見えなくなるまで、奏は手を振り続けた。
その姿が見えなくなるころには、夕暮れの空は藍色に染まり始めていた。最近は少しずつではあるが、日没が早くなっている気がする。
「……さて、帰りますかねー」
ここから家までは十分ほどだが、人通りが少なく、街灯もあまりない。たまに見かけるのは犬の散歩をするおじいさんくらいのものだ。
物騒な事件も起きていると聞く。なるべく急いで帰ろうと、薄暗い道を踏み出した。
「不用心だな――こんなにも暗いのに、お嬢ちゃん一人とは」
「……んぐッ⁉」
闇の中から伸ばされた手が、奏の口を塞いだ。
冷たい。
ひんやりと湿った布きれが、奏の呼吸を妨げている。
抵抗しようとしたが、何故か、体に力が入らなかった。まるで意志が、体に伝わる前に抜け出ていくよう。
それが布切れに塗布された薬品によるものと分かった時には、既に奏の瞼は閉ざされていた。
■
耳朶を打つ風の音で、奏は目を覚ました。
「ここは……?」
そこは見知らぬ場所だった。視界に映るは大小さまざまな光の点。ややあってから、そこがどこかのビルの屋上らしいことに気付く。その中央に、彼女は倒れていた。
どうしてこんなところにいるのか。
冷えきった上体を起こそうとするも、それすらもできない。手首の辺りに感じる、ざらついた感触。どうやらロープか何かで縛られているらしい。
奏はまだうまく働かない頭で、ここに来るまでの記憶を必死に思い出そうと試みる。
高校を出て、商店街でテレビを見て、天里や渚と別れて――そして。
「おう、よく眠れたかぁ?」
間延びした、若い男の声。そう、記憶が途切れる前に、同じ声を聞いた覚えがある。
背後から聞こえたそれに振り向こうとしたが、結局それは失敗に終わった。まだ薬が残っているせいもあり、体が上手く動かない。せいぜい首が少し動かせる程度だ。
「悪ぃな。暴れられると面倒なんで、縛らせてもらった」
――いや、縛らせてもらった、じゃないだろう。
「……これ普通に犯罪ですけど」
「ははっ、だろうな」
背中越しに言葉を返すと、馬鹿にしたような笑いがそれほど離れていない場所から聞こえる。
流れから考えて、彼女をここまで連れてきたのもこの男だろう。誘拐して拘束。目的は身代金か、それとも――。
「いやぁ、ちょうど起きてくれたんで、手間が省けた」
唐突に、視界の端から男が回り込んできた。
その風貌は、異様そのもの。
一言で言うなら、長身痩躯。まるで枯れ木を思わせる。そんな必要以上の肉がついていない体を、丈の長い灰色のコートがすっぽりと包みこんでいた。
何より特徴的なのは、ぼさぼさの黒髪から覗く、真紅の瞳。まるで血で染め上げたかのようなそれに、奏は感じたことのない薄気味の悪さを覚えた。
軽薄な笑みを浮かべながら、彼女の前に胡坐の姿勢で座り込む男。その時には嘲るような笑みが、神妙な面持ちに変わっていた。
「最初に言っておく。お前の貧相な身体に、興味はない」
「……あ、はぁ」
どう反応べきだろう。怖がるべきか、怒るべきか。
複雑な心持の彼女の耳に、男の次の言葉が届く。
「俺が満たしたいのはソッチじゃなく――食欲なんでね」
「……は?」
幻聴かと疑ったが、彼女のそんな思いは次の瞬間に粉々に砕かれた。
「じゃあ、早速頂くとしようか」
がぱっと開かれた、男の口。
グロテスクなまでに真っ赤な口腔。その中で異様な存在感を占める、剣山のような歯。特に二対の犬歯は異常なまでに発達しており、何でも貫けそうな鋭さを持っていた。
「え――これ、え?」
状況を飲み込めず、間の抜けた声を洩らす奏。浮かんできたのはオカルトやらファンタジーによく出てくる怪物の名。
――吸血鬼。
その単語に、彼女の記憶が反応した。
「もしかしてニュースの……」
血を抜かれた変死体。連続殺人事件。点同士が繋がり、一本の線へと昇華されていく感覚。
「んぁ、ひょっとして俺様、有名なのかぁ? そりゃあ嬉しいねぇ」
男の口から漂う鉄の臭いが、冗談という僅かな希望を薄れさせた。
「まぁ心配すんな。痛みは感じねぇはずだからよ――俺はされたことないから知らんが」
「いやいやそういう問題じゃないです! ちょっ、来ないで!」
縛られてない脚だけを必死に動かして、男から距離を取ろうともがく。それでも、大した抵抗にはならない。すぐに屋上の硬い地面に押さえつけられてしまう。
「それじゃあ、行くぜ?」
「ちょっ、タイム! タイムですッ!」
奏の悲鳴にも構わず、男がゆっくりとその顔を近づけてくる。黄ばんだ不揃いな歯が、その存在を無駄に強調してぬらりと輝いた。
――あぁ、私はここで死ぬのか。
せめて男が言ったように苦しまずに。そんなことを祈り始めた、次の瞬間。
「――見つけたぜ碓氷ィ!」
轟音と共に、吸血鬼とは別の男の声が夜闇を切り裂いた。
高速で吹き飛ばされた何かが二人のすぐ横に叩きつけられ、再び空中を舞う。ひしゃげたそれが屋上入り口のドアだと分かるのに、数秒を要した。
突然の闖入者へ向けられた、二つの視線。その視界に映るは、吸血鬼とは違った不自然さを持った黒スーツの男だった。
黒の短髪に、両耳ピアス。金色の双眸は、まるで月を映し取ったかのような輝きを宿している。感情を露わにしたその表情は、怒り狂う獣を思わせた。
スーツの肩を大きく上下させながら、彼は奏の覆い被さる吸血鬼に指を突きつける。
「ようやく見つけたぞテメェ……観念しろ碓氷! 札付きの変態野郎がッ!」
どうやら碓氷というらしい吸血鬼は体を起こすと、呆れたように肩を竦めた。
「変態とは失敬だな……俺はただ、生きるために必要な栄養を補給してるだけだぞ? まな板少女限定で」
「テメェの貧乳フェチなんざどうだっていいんだよ!」
――二人とも、そろそろやめよ? 私、泣いちゃうよ?
精神的にダメージを受け始めた奏。すると、唐突にその視界が横にスライドした。そのあまりの速度に闇と建物の境界がぼやけ、滲んだ。
気が付けば、吸血鬼の右手一本で吊り上げられていた。後ろ手に縛られた手首を掴まれているため、必然的にその視界は真下に向けられる。
小さな点のようにしか見えぬ人々が、せかせかと地上で歩き回っているのがよく見えた。
「えっと……ここ、何階ですか?」
「さて、三十はあった気がするな」
死ぬ。間違いなく死ぬ。落下すれば、人体などミンチになるだろう。
「嘘ですよね? 冗談ですよね?」
「すぐに分かる――さて、お前。それ以上近づいたら、この手を離すぞ」
つまり、人質ということだ。その言葉に、走り出そうとしていた黒服の動きが止まった。
「お前……絶対ロクな死に方しねぇぞ」
「ハッ、何とでも言え。動くなよぉ?」
そう言って、吸血鬼は屋上の外周を沿うようにして、黒服から遠ざかっていく。そして隣のビルとの距離を確認するかのように、一瞥。
入口に向かって右側の端に辿り着いた時、奏は碓氷の細腕が小さく震えているのに気が付いた。
「……お嬢ちゃん、一つだけいいかな」
「……あの、ちょっと?」
「手が、もう限界でな」
そう言い、引き攣った笑みを彼女に向けてきた。どうやら冗談ではないらしく、額には脂汗らしきものが滲んでいる。
「お前との時間、短かったが、楽しかったぜ……」
「私何もしてませんけども⁉」
「――楽しい空の旅を! アディオス!」
何故スペイン語?
そんなツッコミを入れる間もなく、ぱっと男の手が離れる。黒服が何か叫んだ気がしたが、豪風によってかき消されて聞こえなかった。
――あ、今度こそ死んだ。
奏は確信した。推定百メートル以上の高さからの垂直落下。生きていられるはずもない。
ぶつかる瞬間は痛いのだろうか。それとも、痛みなど感じないほどに瞬間的に死が訪れるのか。そんな益体もない考えが、ぐるぐると彼女の頭の中を廻る。
気が付けば頭が下になり、見れば、ぐんぐんと地上が迫っていた。
――あぁ、お父さん、お母さん、先立つ不孝をお許しください。天里、渚、ごめん。ライヴ、できそうにないや。
数秒後に迫った死を前にして、奏は意識を手放した。
最後の瞬間、何か、柔らかくて暖かいものに包まれたような、そんな錯覚とともに彼女は意識を手放した。