第58話 闇、持つ女
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2000年12月、神戸――
大阪湾を見渡せる高級マンション。中階層ほどの角部屋3LDKに住む母子家庭。
愛する母と2人で楽しく過ごす三浦耶都希という、当時中学三年生の少女がいた。
只今高校受験のため、家庭教師を招き日々奮闘中。成績は上位に近いレベルで、母も卒業した名門校を目指していた。
「それじゃぁ、耶都希ちゃん、来週の期末試験頑張ってね」
「はい。ありがとうございます」
玄関口で、帰ろうとする家庭教師の女子大生に、笑顔でお礼する耶都希。
「一ノ宮さん、コレ、お口に合うかどうか!? 」
小さめの紙袋を家庭教師に、微笑みながら手渡す、この家の主人。受け取った袋を見ながら、多少の緊張から解放され一気に豊かさを増す、女子。
「うわぁあ〜、ありがとうございます! 先日のお料理も本当に美味しかったです」
手作りの料理が詰められている、透明のタッパーが二つ入っていた。
「そう言っていただけると嬉しいわ」
「耶都希ちゃんが羨ましいです。こんなに美味しい料理を毎日食べられるなんて」
「私もそう思います」
誇らしく、同意した主人の子。少しだけ赤める頬をさらに丸めながら、目を細めた。
「ねぇ、お母さん、来週の土曜、勉強が終わったら、先生に夕飯ご馳走しようよ」
「だーめ! 一ノ宮さんは夕方も家庭教師のお仕事、入ってるのよ」
「来週は大丈夫なんですよね、せーんせい!? 」
「あっ、はい。……実は、先方のご事情で来週は午前中に変更になって……」
「あら、そうなの! それじゃあ、うちで夕飯食べていかない? ご迷惑じゃなければ」
「いえ迷惑だなんて……とても嬉しいお誘いです」
「決定! やったぁー! 」
一番はしゃいでいるのは、耶都希である。そんな娘を見ている母も、心から喜んでいた。
周囲も羨むほど仲が良く、明るい母子家庭であることは、誰もが知っていた。
耶都希が3歳の時、母は離婚。父のことは全く憶えていないが、寂しいと思ったこともなかった。たった一人で手加減なく育ててくれた、大好きな母がいるからだ。さらに、経営者としても成功していた、尊敬する大人の女性でもあった。
離婚後すぐに勤めていた会社を辞め、立ち上げた事業が軌道にのり、成功。五年後には40人程度の社員が働く会社、になっていた。
忙しくても母としての役割に手を抜かず、授業参観や発表会などは欠かさず見に来てくれた。勉強が分からない時は、厳しく教えてくれる先生でもある。
アウトドアライフが趣味の母で、近くの山や海でキャンプ、社員や友人を招きBBQすることも度々。経営が順調になり任せられる仲間が増えると、年に二回、母娘で泊まりでの温泉旅行へ行くようにもなった。
耶都希にとって自慢の母であり、憧れの女性。小学校での作文「私のお母さん」、中学校での作文「私の夢」でも、尊敬の念が溢れるほどに。
そんな母とのこの幸せが続く、と疑わなかったであろう少女の想いは……ある日、途絶える。
12月24日、日曜日――
受験勉強で忙しい毎日だったが、クリスマスイヴの夜だけは、母と楽しむことに。
ショッピング後、イタリアンレストランでディナーを満喫。食後、賑やかな街中から少し離れた海の見える公園を目指し、おしゃべりしながら歩く、母と娘。
イヴの夜ということもあり、自分たちだけの時間と場所のように笑顔満開で歩いている、多くのペア。その集合体の中に、酔った若い男女4人のグループもいた。男は奇声をあげ、女は大袈裟に馬鹿笑いしている。おまけに酔って、フラフラだ。
その4人組とすれ違う、三浦母娘。娘の持つ大きめのショッパーバッグが、女に当たった……というより、ふらついて当たりにきた、ようにも見える。その20歳くらいの金髪ショートヘアの女はバランスを崩し、尻もち。
彼女の彼らしき鼻ピアスの男が、言い掛かりをつけ始めた。娘を守るために母親が言い返す。
それに激情した男は、酒の勢いもあり制御不能。母の髪を引っ張り、仲間の茶髪セミロングヘアの女に、頬を殴らせた。尻もち金髪女は立ち上がり、母の脹ら脛を蹴る始末。
「やめてぇ〜! 誰か、誰か助けてくださーい! 」
娘の叫声は周囲の誰の心にも、響かない。野次馬根性で集まっていた、だけである。
母を助けようと、小柄な娘は茶髪女を両腕で、突き飛ばした。倒れた女は肘をぶつけ、痛がる。激怒した首筋にタトゥーの男。ポケットから光る物を出し、少女に突進。
「このガキぃーーーっ!」
間に入り娘を抱き寄せる、母。
その瞬間、男女たちの言動が止まった。母の胸に顔を埋めている少女は何が起きたのか、見えていない。
通報してくれたのだろう。叫びながら駆けて来る、2人の制服警察官。それとは逆のほうへ走り逃げる4人組の男女。
遠ざかる彼らを見て安堵した耶都希。
「お母さん、逃げていったよ」
その声に反応するように娘を抱く力を抜き、腰を落とした母はそのまま、横向けに倒れてしまった。
「お母さん!? 」
液状のモノが少女の足下に流れてくる。それも限りなく……。
薄オレンジ色の街灯で、その液体が血であることを理解していなかったのだろう。無線で叫ぶ警察官の『出血』『救急車』という単語で、娘の顔色と表情は安堵から哀しみに、激変。
病院搬送。しかし、大好きな母の笑顔を見ることは二度と、なかった。
この事件の日まで充実していた少女の精神的なダメージは、計り知れない。
高校受験……失敗。
親戚に預けられることになったが、手に負えないほどの精神状態。学校も行けず引き蘢もりになり、自傷することも……。親戚での家庭内暴力的行為もあった。結果、三年間で三軒を転々とした。
事件を起こした男女4人の内3人は翌日、交番へ出頭。母を刺した21歳のタトゥー男は二日後、逮捕。後の公判で、男は『……憶えていない』『勝手に体が……』『脅すだけで、刺すつもりはなかった』と殺意を否定。記憶も証言も曖昧のまま。結果、懲役九年。他3名は執行猶予つき二年以内の懲役、となっている。
愛する母を殺めた犯人どもは、なぜか生きている。九年もすれば一般人として再び暮らせるのだ。それすら許さない歪んだ、子ども心。矛盾する世の法を受け入れられずにいた。事件から三年経っても、怨み、苦しみは消えていない。いや、増幅する一方である。
母を殺めた犯人たち、助けようともしなかった野次馬ども、そして親戚たちの不純さ。人間不信の念を募らせる材料が、そこら中に存在。
少女の心が闇へと融け込んでいく条件は、充分ほど揃っていたのである。
世間では進学や就職で騒がしい季節。それに無関係の18歳になった彼女は、母の仇心に身を任せていた。ウェブ上の『加害者連続死亡事件』のワードが切っ掛けで、復讐依頼へと動き始める。だが、そこで出逢ったのは、祖父と実父。この邂逅が、想定外の人生を選ぶことに……。
与えられた使命を生き甲斐に、歩む。が、闇心を抱える彼女は、闇世界へと、引きずられていく――
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