(増話)幼き者の願い
2017年8月30日 差込
◇――――
―― 十一年前 ――
2004年、海風が身を引き締める2月下旬。
テレビから流れる男の声と、働く女性の声が響くフロア。廊下から小刻みに聞こえてくる足音は、この建物だからこそである。
キレイとは言い難い白い壁とクリーム色のカーテンに囲まれた部屋で、重々しい表情の大人たちと、笑顔で健気な女の子たち――5歳のレイと涼夏が綾取りをしていた。
メインとなる大きなベッドには、静かに目を閉じ横たわる涼夏の母――美紀。その傍で歯を食いしばる涼夏の父――亮介。そして、反対側で心配そうに見守るのはレイの祖母――御世。入院して二週間ほど。身体が弱く、これで五度目の入院。
美紀は、綺麗な肌をもつ美しい女性。“天使の微笑み”とは彼女のためにある、コトバだ。それに気丈で明朗、かつ誰にでも優しい。隣町にも美紀ファンが多かった。入院している間も、子どもたちの前ではいつも、笑顔で接してきた。
しかし……今日は違った。疲れきった表情。呼吸するにも一苦労のようだ。自身に何かを言い聞かせているようにも、感じる。
子どもたちに笑顔を見せることさえも出来ないほど、最悪な状態だった。彼女は自らの死期を、心身ともに受け入れていた。
妻を見つめる夫の目は、赤い。
医師は既に諦めていた。『今日が峠』だと。
平日だったが、レイと御世も駆けつけていた。
幼女たちはそのことを、知らない。2人はいつも笑顔である。美紀がそれを望んでいたからだ。
彼女は目を開け、ゆったりと子どもたちの声がするほうに顔を動かし。
「涼ちゃん、レイちゃん」
弱き声に、顔を向けた二児。
「「はあーい!」」
同時にサッと動きベッドにペタッと付き、美紀の顔をじっと見つめた。
「2人とも、そろそろ、年長さんね。ちゃんと先生の、言うことを聞いて、お片付けもしっかり、やりましょうね」
振り絞るような声で。そして、深呼吸を一つ。
「それから、ママが帰るまで、涼ちゃんは、お父さんの、お手伝いを、すること。レイちゃんは、おばあちゃんの、お手伝いを、すること。その間に、ママは、元気になりますから……ね」
「ママー、おかたづけもおてつだいもいっぱいするよ。だから、はやくなおしておうちにかえろうね」
母が家に戻れることを信じている、幼き涼夏。
「そうね、ママ、頑張るわ」
やり取りを聞いている亮介は俯き、小刻みに両肩を震わせ、目から涙が溢れないよう必死に堪えていた。
「りょうちゃんのパパ、どうしたの? 泣いてるの? 」
気づいたのは、小さなレイだった。パパは、ただただ唇を噛み締めている。
「りょうちゃんのパパもさびしいんだよね。りょうちゃんのママがはやくゲンキになるように、おいのりしてあげるね」
レイなりの心遣い。小さな右手で亮介の指を、小さな左手で美紀の指を握った。目を閉じ、愛らしくお祈りをする。
「りょうちゃんのママ、はーやくゲンキにな〜ぁれ!」
「うんうん、そうだね、そうだね」
その優しさに応えようと、必死に言葉にする涼夏のパパ。目を充血させたまま、努力ばりの笑顔を見せた。
「レイちゃんは、本当に、優しいよね。ありがとう」
美紀も今見せられる最高の笑顔を、作った。
ただ、幼女の祖母だけは渋い表情。不思議なものを見ているように。
「レイ……まさか……」
ボソッと声が漏れた。この瞬間から、疑念を持ち始めた御世がいた。後日、幼馴染みに相談することに。『孫が祈る瞬間、涼夏の父母の指を握っていた小さな手から一瞬、ほのかな発光が見えた』ことについて、だ。
夕刻、一旦家に帰ることになった。病室で見守ることを老女は望んだが、普段と違う行動によって幼児2人に不安を与えないため。……病人の願いだった。
「何かあったら、すぐにご連絡くださいな」
亮介は声に出さず「はい」と唇を動かした。
「じゃぁね、りょうちゃん、またあしたねぇ、バイバ〜イ!」
「レイちゃん、バイバ〜イ!」
築四十年を超える古家に帰宅後、風呂に入り、そして夕食の準備。レイは唄を歌いながら、居間で絵描きをしていた。
夕食後、昔話しを聞かせながら孫を寝かしつけ。夜中でも病院へ飛んで行けるよう、知人のタクシー運転手に電話で依頼した。枕元に服を準備し、布団へ潜り込んだ。
オレンジ色豆電球の薄暗い部屋で、孫の隣で寝ようとするのだが、寝付けないようだ。身体を起こし静かに襖を開け、居間の照明を点けた。さらに隣部屋の仏壇の前に正座し、写真を手に取る。30歳前後のショートカットの女性――彼女の娘だ。
その静かな眼差しは、寝室の孫に向けられた。その不安な表情は、千堂美紀のことよりも、孫のことを案じているようだ。何かを思い出していたのかもしれない。
昼間の、あの光、を……。
後日、不安をぶつけた。
『あの光……いいや、私も歳をとった、錯覚かもしれん。レイにあるはずがない……そんなはずは……もし、そうだとしても、5歳じゃ、まだ早過ぎる。……錯覚であると願いたい……たった一人の孫までも失いたくないんじゃぁ……』
翌朝、ゆっくりと目を覚ます御世。
「大丈夫だったのかのぉ〜」
亮介からの連絡はなかった。まだ寝ている可愛い孫の寝顔を見ながら、温かい布団から、冷え冷えする空間へと移動した。
鍋の味噌汁の香りがふんわりと漂い、卵とベーコンを焼く音のする台所に、別の方向から響く明るい声。
「おばあちゃん、おはよう」
既に暖まっている居間に、元気よく飛び込んでくるパジャマ姿の、孫。
「あぁ、おはよっ。お顔洗って、パパとママに挨拶して来なぁ」
「うん」
いつものように2人きりの、温かい朝食。慣れないお箸を使い、無言で食べていたレイだが、思い出したかのように口を開く。
「おばあちゃん、ユメにね、りょうちゃんのママがでてきた。『ただいま』ってかえってきたの。りょうちゃんもパパもうれしそうだった。……でね、りょうちゃんのママがね、『ありがとう』ってだっこしてくれたの。ママって、いいね」
箸を止めた。視線を隣部屋の仏壇にある写真に向けた。レイは両親のことを憶えていない。あの事件さえも……。
自分に両親がいないことを幼心でもシッカリと、受止めているようだ。そのように御世も感じていた、強い孫だと。
涼夏の両親に仲良く、そして我が子のように接してもらったお陰もある、かもしれない。だからこそ千堂家には心から感謝していた。
今日は土曜日。保育園を休み、昼前から涼夏の母のいる病院へ。
海岸線沿いを走るバスに揺られながら20分ほど。寒さはあるものの風もなく、遠いところで照らす太陽の暖かさを肌に感じるひとときである。
病院に着いた2人は看護師に挨拶しながら、美紀の病室へ。
「あっ、レイちゃん」
嬉しそうに近寄ってくる涼夏。亮介に挨拶をする御世。
ベッドには美紀がいる。ただ、昨日と明らかに表情が違う。柔らかく、天使のような微笑みが、彼女の元へ帰還した。
「りょうちゃんのママ、こんにちは。どう?」
「今日はね、とても気分がいいの。少し元気になったみたい。レイちゃんがお祈りしてくれたからね」
満面の笑みをレイに見せた。
御世は不思議さを想いにのせ、視線を亮介に向けた。
「御世さん、ちょっと」
病室外で話しをしたいようだ。部屋を出るなり、すかさず訊ねた。
「何か、あったのかい?」
「実は昨夜から、状態が突然良くなってきて……。今朝、主治医から――」
『……ん? んんん……越えたようですね。安定しています』
「主治医も驚いています、諦めていましたから。一時期的なことかもしれないので、もう少し様子をみることになっていますが……でも、明らかに良くなっていると私も感じているんです」
「そっかぁそっかぁ、それは良かったよぉ〜」
「不思議なことですが、私たちにとっては心から喜ぶべきキセキが起きたんです!」
彼の歓喜と興奮が、充分に伝わってくる。
「昨日、レイちゃんに祈ってもらったお陰かなぁ〜」
少年のような笑顔を見せる亮介。喜ぶ彼に微笑む御世。そして2人の視線は、涼夏と美紀と話している、朗らかなレイへ。
昨日とは全く違う、3人の楽しそうな笑い声が病室を、明るくしていた。
心から喜ばしいことであるが、密かな疑念が確信へ傾いていることを、御世は感ずる日となった。
梅のつぼみの割れ目から白色が滲み始めるように、少しずつ、確実に……。
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