第2話 処理される者―1
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2015年3月1日、東京世田谷――
「ぅぅ、んん、うわあーーーーぁ!」
上体を反射的に起こし、充血させた両目を大きく開け、悪夢から目覚めた男。冷や汗らしき水滴を額全体に吹き出させ、目下はクマで染め、口から荒い息が小刻みに発せられている。
茶髪ロン毛の三岡晃正、19歳。
「んも〜、どうしたんだよぉ〜」
運動後のように肩呼吸しているソファーに座る彼に投げかける、この部屋の主。隣部屋のベッドで寝ていた20歳の友人は、目を擦りながら、不機嫌な表情をのぞかせている。
「ぅわあっ!」
その友人の存在より、目の前の者に対する焦燥感を、驚声に転じた。
己を黙視しているのは、四つん這いになったショートカットの若い女。口の両端からと鼻から血を流し。
その女を払い除けるように、己に掛けてあった毛布を勢いよく、蹴飛ばす。床に置いてあったハーフコートを掴みつつ、ドタバタと振らつきながら、玄関へ。靴を履いた、というより、足を突っ込んだまま安アパートの薄い扉を、開けた。が、そこには部屋にいるはずの女が立っている。ピンクのセンターは胸から腹にかけて小豆色に、染まっていた。
恐怖が絶頂に達しのだろうか、声も出ず。強ばった表情をしながら、壁に背をつけた状態で避けるように、横歩き。
眼球のみで三岡の目を追う、彼女は何を伝えたいのか。
「くっ、来るなああぁ〜!」
もはや叫びにも、なっていない。19歳の青年は、足腰が弱っているが如くアパートの通路をジグザグで、逃げていった。
「んだよ、あいつ……泊めたお礼も無しかよ。……友だち、やめようかなぁ〜」
部屋の主は、そんな元友人を放っておくことを選び、再び布団に潜り込む。
息を切らしながらシートに座る、三岡がいる。両肘を腿につき前屈みで頭を垂れ、呼吸を整えようとしているのが、分かる。昼前ということもあり、ベンチシートは空席だらけ。その車両には高齢の夫婦や主婦など、数人程度だった。
次の停車駅で乗車してくる人たち、の靴音。それは続いた。
何かを感じたのだろうか。青年は俯いた状態で目を開けたものの、床から視線を外さない。次第に床に映る人影が増え、満員電車のような多数の足が視野に入る。それも全て女性らしき、足と靴のオンパレード。
冷房で落ち着いたはずの発汗作用が、再作動。顔顎から床に一滴、二滴。生唾を飲み込み、抱いた嫌な予感を確認するかのように、恐る恐る視線を上げた。
正面には、あの女が着ていた血染めのセーターの人物。目を合わせる高さまで視線を上げず、横にズラす。だが、周囲にいる他の女性らしき人たちも、お洒落着ではない。服が裂けた者、中には破れた服から下着が見える者、朱殷色に濡れている者、血まみれの裸体の者までも。
急に名前を呼ばれ反応的に立ち上がるが如く、喫驚の表情で直立。身長177センチほどの彼は満員車両にいることを、理解出来た、ようだ。さらに、全員が女性であることも。
舞台の主人公のように、視線の集中砲火を浴びているターゲットにされている青年。瞬きを忘れてしまったかように大きく目を開け、ゆっくり首を廻し、隅々まで見渡している。
女性全員の顔の一部から流血、またはアザがある。ある者は眼球がなく、ある者は切れた腕を持っており、ある者は死んでいる赤ん坊を抱いている。
逃げられないと思ったのか、崩れるように腰を戻した。知らぬ間に己の両隣に座り、睨みつけている重傷の女性たちと、目があった。
その車両を隙間なく占領した血まみれの女たちは、完全に男を包囲していたのだ。
体を震わせ、止めどなく両目から流るる涙を見せる、青年。床にスペースがないと思ったのだろうか、シート上で靴のまま土下座した。
「ご、ごめん、ごめんなさい。許して。もう、許して! あっ、あんな、あんなこと、すっ、するつもりなかったんどぅわ。本とっ、本当にごめんなさい!」
シートから落ちるのではないかと思う程に頭を下げたまま、ひたすら謝り続けた。もちろん、彼女たちから発せられるセリフは、ない。
そんな若造の可笑しな独り言と奇妙な行動に、不穏な眼差しを向ける客たち。車両の端席へと、移動していた。
精神的に狂ったと思われているその青年は、恐怖心と緊張感があったのだろう。女性たちが乗り込んでから四つ後の駅手前で、微々に反応。次駅に到着する前のアナウンスが流れた、からだ。
停車した途端、床に四つん這いになり、女性たちの足下を這い、扉へと向かう。閉まる寸前で車両から脱出した。すぐに立ち上がり、振り返ることなく、出口へと疾走する。必死に逃げることだけが、彼に与えられた優先課題だと言える。改札口で切符も出さず、逃走した。
「きみぃ〜、待ちなさ〜い!」
男の叫ぶ声。駅建物を出て、高架並列の路地を逃げる青年は、腰以上を捻り首以上で、後方を確認。建物から出ていた制服姿の駅員が諦めて、駅構内へと戻るのが見えた。が、瞬時に男の表情が強ばる。駅員が見えなくなると同時に、その出口からゾロゾロと湧き出て、走り追ってくる女性たち。
逃げる方向に首を戻し、逃げて逃げて、逃げまくった。
人混みの商店街、公園のトイレ、パチンコ店、病院などにも逃げ込み隠れるが、必ず見つかってしまう。幻覚の女性たちに。
「どうして?」
「なぜ?」
「私が何をしたの?」
「許さない!」
「お前も死ね!」
姿なくとも聞こえてくる女の声々が、幻聴として現れ始めていた。
街中で恐怖を露にし「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝りながら、逃げ回る三岡の姿は、多くの市民たちに目撃されることとなった。
まだ寒さの残る3月。
着ていたハーフコートはどこかで脱ぎ去り、長袖Tシャツが汗でビッショリ。多摩川河川敷の歩道をフラフラになりながら、躓き転けながら、宛てもなく、駆け走る。
胸内で蠢くものを感じたのだろうか。突然、心臓辺りを右手で抑え、逃げる足を緩めた。経験したことのある者、あるいは見たことのある者なら知っているかもしれない。彼の歪めた顔から、胸に激痛が襲っていることを。
呼吸も出来ない程に苦しみだし、河川敷の草むらへ倒れ込んだ。焼けるような胸の熱さに堪えるように、俯せで身体を丸めていた。が、痛みが和らいだのだろうか、寸刻して仰向けに寝転ぶ。
だが、彼の開く両目に空は見えていない。ショートカットの血化粧したあの女が微笑み、三岡を、覗き込んでいたからだ。
活力のない目を開けたまま息絶えた、19歳少年の最期である。
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