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小麦の短編集

作者: 小麦

 兎には寂しいと死んでしまうという迷信がある。それは真実か否か。私はそんなことを考えながら逃げていた。今の私に頼れる味方はいない。そもそも私の立場を考えてみれば味方などいるはずがないのだ。

「はあっ、はあっ」

 それでも私は息を切らしながら走る。今の私は逃亡者だが、私はただの逃亡者ではない。そしてそれは自らが選んだ道でもある。私にはどうしてもやらなければいけないことがある。私は少し前のことを思い出していた。



 私は犯罪者である。だが、この国に特別に定められた法律のおかげで無罪になる可能性が残されている身の上だった。この国では殺人以外の犯罪者に限り罪状ごとに区分けされ、その中の同じ罪状の者同士で脱獄できる権利を競うゲームへの参加権利を与えられるのだ。この中にはいくつかのルールがあり、例えば初犯に限るだとかそう言ったものが挙げられる。もちろんそのゲームに参加しなくてもよいし、その分刑期は短くなる。だが、参加した場合、刑期が0になるか、その倍の刑期を背負うかの二択となる。このゲームに参加すること、それはすなわち宝くじのようなものと言ってもいいかもしれない。もっとも、現実はそんな夢のあるものではないのは説明の通りである。



 数日前、裁判を終えた私はこのゲームに参加することを選んだ。私の罪状は窃盗罪、泥棒である。息子の病気を治すためにはどうしても薬が必要だったのだが、私にはそれを買うほどのお金の余裕がなかった。結果私は誘惑に負け、その薬を盗んだ。

 近頃の警備対策はそんなに甘いものでもないらしく、私の素性はすぐにばれ、逮捕されてしまった。息子はと言えば、その後も元気に夫と暮らしているらしい。ギャンブルに明け暮れ借金を作るような夫と一緒にいることが息子にとってどれほどマイナスになるのか、考えただけで虫唾が走る。もっとも、罪を犯した私といても息子はいい子には育たなかっただろうからどんぐりの背比べなのかもしれない。



 それでも私は息子に会いたい一心でそのゲームに参加し、見事勝利を収めた。そして数時間前、私は脱獄の権利を行使し、今に至るというわけである。

「タクヤ……」

 私は独りなのかもしれない。頼れるものもなければ脱獄を手助けしてくれる者がいるわけでもないからだ。それでも自分の愛する子供のために、この手で勝利を勝ち取ってきた。

(たとえ私が孤独だったとしても、私は兎にはならない。私は息子を連れてあのダメ親父のところから逃げて二人で暮らすんだ)

 第一、あの男のところにタクヤを置いておいたのでは何をされるか分かったものではない。早くあの子のところに向かわなくては。

「おい、いたぞ!」

(見つかった!?)

 だが、そんな急いた気持ちが焦りからミスを生んだ。私は追っ手に見つかってしまったのである。私は脱獄する権利を得ただけであり、もちろん警察は脱獄した後に追っかけてくる。正当な手順を踏んで脱獄しているというだけで、根本的なところは刑務所からの逃走と何ら変わりはないのだ。

(隠れなきゃ!)

 私は近くの藪の中に身をひそめると、彼らをやり過ごすまで待つことにした。



(行ったみたいね)

 私は警察が消えたのを確認してから、息子のところへと再び向かう。彼のところまであと少しだ。

「ねーパパ。ママはどうしたの?」

 その時、近くでこんな声がした。私はその声の方向をぱっと振り向く。そこにいたのは間違いない、私の愛する息子、タクヤだった。

「タク……」

「前にも言ったけど、ママはな、お空に行っちゃったんだ。その内会えるさ」

 だが、叫ぼうとした私はそこで動きを止めてしまう。どうも様子がおかしい。というのも、タクヤの隣にいるのは明らかに私の知るあのダメ親父ではなく別人だった。

「あの人は……誰なの」

「……驚いたでしょう?」

 後ろを振り向くと、そこに立っていたのは警察官だった。やり過ごしたと思っていた私だったが、どうやら完全に撒けたわけではなかったらしい。そもそも、この警察官はなぜ私に話しかけたのだろう。脱獄犯の私を捕まえるだけなら会話は必要ないはずだ。

「あれは……、あれはいったいどういうことなの?」

 私は呆然としながら目の前の警察官に尋ねる。もはや自分がどうして脱獄しようとしていたのか、それすらも分からなくなる事態だった。

「あの子は、あなたが逮捕されてから父親にDVを受けましてね。運よくご近所の方の通報もあり、その後何度かの訪問の末に保護はできたのですが、彼の心身はすっかり衰弱していましてね。母親の不在、父親からの暴力。これらから彼が回復するのには時間がいくらあっても足りないだろう、そう考えた保健所の方がある方法を彼に試したんです」

「……その方法っていうのは?」

「催眠術です。ご存じないですか? 人の記憶を操作する催眠術」

 私は首を横に振る。そんなものは漫画の中の世界だけのものかと思っていた。

「その催眠術を彼に施した結果、彼の中で母は死に、父はあの男、私の友人ということになったんです。もともとこの国には他の国のような常識ある法律など存在しませんからね」

「そんな! じゃあ、私は何のために……」

「あなたに報告が遅れたことについては非常に申し訳ないと思っています。それと、勘違いしていたようですが、私たちはあなたを捕まえるために捜索していたのではありません」

 そう言って彼は1枚の紙を取り出す。

「あなたは本日をもって釈放されました。三上恵子みかみけいこさん。彼のためとはいえ私たちはあなたの居場所を奪ってしまった。この国にはそのような場合に限り被疑者を釈放できる法律があります。あなたの場合、罪を犯した理由もゲームに参加した理由も息子を救うため、今回の判断にはそこまで時間はかかりませんでした」

 警察官はそう言って一礼する。

「では、あなたの人生に幸あることを祈っています」

 警察官は自分の仕事は終えたとばかりに立ち去っていく。だが、私の中では何の解決にもなっていなかった。

「……何よそれ。私はこれからどうしたらいいのよ。息子にも会いに行けない前科者が一体何を理由に生きていけっていうのよ」

 理不尽だ。こんなの理不尽だ。夢であるなら覚めてくれ! そう叫びそうになる。だが、そんなやり場のない怒りをぶつける場所などあるはずもなく。

「……ロープか」

 ふと私が地面に視線を落とすと、そこにはロープがあった。これなら私の背丈くらいの長さはありそうだ。

「よし」

 私はそのロープをつかむと、そのまま闇に姿を消した。



 次の日、私は死体となって発見された。死因は窒息、首吊り自殺である。やはり寂しい兎は死んでしまうという迷信は本当だったのかもしれない。だが、私はそもそも寂しい兎だったのか。それについてだけは大きく疑問が残る。私は自分の感情があふれるままに首を吊り死んでしまったわけだが、もしかしたら本当は連絡を取れば反応してくれた友人がいたのかもしれないし、このまま生きていたらまた何か別の幸せを見つけることができたのかもしれない。だが、いずれにしても言えることが2つある。1つはもう何も悩まなくていいんだということ。そしてもう1つ、

「いっただっきまーす!」

 私の目の前でおいしそうに食事をしているタクヤ、かわいい私の息子をずっと追い続けることができるということだ。

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