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色即是空

作者: てつお

まえがき

 仏教において究極の目的とは何か? それは悟りを開くことです。では悟りとは何か? 老師の謎かけのような言葉をヒントに推理してみて下さい。

第一章 入門


 仕事が終わり、帰り支度をしていると「望月、飲みに行かないか?」と一年先輩の岡田が誘ってきた。特に予定もなかったので、「いいっすね! 行きましょう!」と返事をした。会社から十分ほど歩いた所にある居酒屋に二人は入った。

 二人の前に瓶ビールとコップ二つが運ばれて来た。お互いにビールを注ぎ合うと「お疲れっす! 乾杯!」と二人は言って乾杯してからビールを飲んだ。

「仕事後のビールは旨いっすね!」コップのビールを一気に飲み干して望月が言った。

「ビールを旨く飲むために仕事をしてるようなもんだからな」と岡田は答えた。二人はスマートフォンの普及により急拡大したネット通販の物流倉庫で商品の出荷の仕事をしていた。夏場はかなり汗をかくので仕事が終わった後のビールが格別に旨く感じるのだった。

 その後、しばらく他愛もない会話が続いていた。そして会話が一瞬途切れた時に「何か悩みでもあるんじゃないのか?」と岡田が聞いた。

「実は、…………」

「何だよ。まだ飲み足りないみたいだな。もっと飲めよ」と言って岡田がコップにビールを注いだ。

望月はそれほど酒が強いわけではなかったので、かなり酔いが回ってきた。

「実は、就職して三ヶ月経って、だいぶ仕事には慣れてきたけど、本当にこの仕事で良かったのか? とか、他に進むべき道があったのではないか? とかいろいろ悩んでいるんだよ」

「何だそんな事か。俺もそういう時期あったな。そんな時に瞑想道場に通いだしたんだよ。そしたら何かそんな悩みは自然と無くなってしまったな。どうだ一緒に瞑想道場に通わないか?」

「えっ、瞑想なんかした事ないし」

「皆最初は初心者だよ。だまされたと思って一回来て見ろよ」

「そんなに言うなら試しに行ってみるか」



 望月は自宅に帰ると今日飲みに行った時に岡田先輩から誘われた瞑想道場に通う事について考えていた。望月は無神論者であり、瞑想のような宗教的なものには近づきたくないと思っていたからである。先輩からの誘いを無下に断るわけにもいかないと思い、つい行くと言ってしまったが、本当はあまり乗り気ではなかったのだ。「一応一回だけ行ってみて自分には合わなかったと謝ろうか……」と望月はひとり言をつぶやいた。



 数日後、望月は塀に囲まれた古民家風のわりと大きな家の前に来ていた。門に木製の看板があり、毛筆で「瞑想道場 一如庵」と書いてあった。インターフォンを押すと返答があり、還暦を少し過ぎたくらいの男性が出て来た。一見してただ者ではないと思わせる雰囲気をまとっていた。

「はじめまして、昨日電話した望月です。よろしくお願いします」

「はじめまして、当瞑想道場を運営している三島です。どうぞ中にお入り下さい」と言って案内した。

 門の中に入ると枝ぶりのいい松の木などの植栽が見事な庭があった。庭石が効果的に配置されていて、小さな池もあり、池のほとりにはししおどしがあり、「カコーン」と音が響いた。地面は苔で覆われていて、歩く所だけ丸く平たい御影石が点々と続いている。それほど広くはないが、とても風情のある庭だ。

 三島の後に付いて歩いていると、あまりにも美しい歩き方に見えた事にに驚いた。普通に歩いているだけなのに何故かまわりと調和しているように感じられて、それがとても美しく感じられて不思議に思った。

 庵は茅葺屋根の木造の古民家だ。昔ばなしに出てきそうな雰囲気である。望月が玄関を入り、廊下を歩いていると囲炉裏のある部屋があり、懐かしさを感じさせる。更に奥に歩いて行くと、ビリヤード台が置いてある部屋があった。こんな純和風の家に不似合いな気がしたが、自宅兼道場なのでこういう事もあるんだなと思った。

 和室に案内された望月は座布団に座って待っていた。しばらくして三島がお茶をお盆に載せて持って来た。床の間には墨蹟の掛け軸が掛けてあり、「色即是空」と書いてある。

「マンション暮らしだったので、こういう床の間のある和室にあこがれます。その掛け軸の『色即是空』ってどういう意味ですか?」と望月は尋ねた。

「この意味が本当に解るのは悟りが開けた時だ。今は説明しても解らんだろう。ところで、どのような動機でこの道場に来られたのか?」

「本当にこの仕事で良かったのか? とか、他に進むべき道があったのではないか? とかいろいろ悩んでいるという話を岡田先輩にしたところ、この道場で瞑想する事を勧められました」

「瞑想とは心のクリーニングだ。悩みなんぞすぐに消えていくであろう。ストレスにもとても効果があって、それは脳波を検査する事によって科学的にも証明されておる。長年瞑想を続けると心が驚くほど成長して、ストレスや悩みなどが根本的に起こらない境地にまで至ることが出来るのだよ。瞑想の究極の目的は三昧さんまいという非常に集中力の高まった状態になり、真理を実際に体験し、悟りを開く事である。しかし、仕事や家庭のある一般の方はそういうことはひとまずおいておいて、心のクリーニングやストレスの解消法として瞑想を始めるのも良いでしょう。体が汚れたら風呂で洗うように、心の汚れは瞑想で綺麗にしてやることができるのだ」と三島は言うと更に瞑想についての説明を続けた。「瞑想にはいろいろ種類があり、呼吸・呪文などに集中して雑念を掃います。呪文とは例えば、インドではマントラと呼ばれる呪文が使われており、マントラはとてもたくさんあるが、よく唱えられているマントラを一つ例にあげると『オーム ナーマ シバーヤ』、こんな感じの呪文がマントラだ。日本では『南無阿弥陀仏』や『南無妙法蓮華経』という念仏や題目がよく用いられておるが、これも呪文に集中する瞑想の一種なのだ」

「念仏を唱えると極楽浄土に往生できると聞きましたが?」

「あれは方便といって、念仏を極めて念仏三昧になり悟りが開けることを説明してもなかなか解ってもらえなかったから方便として、念仏を唱えると阿弥陀様が救って下さって極楽往生できると言ったのだ。本当は念仏を唱える瞑想によって三昧の境地に至り、悟りが開け、生きているうちに極楽に行けるのだ」

「へー、念仏なんて迷信だと思っていたけど、本当は深い意味があるんだ」

「そうだよ。あの有名な空海(弘法大師)は『ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリ キャマリ ボリ ソワカ』という真言を唱えて悟りを開いたそうだ」

「その真言はどういう意味なのですか?」

「呪文に集中する瞑想は雑念や妄想・思考を無くすためにするのだから、意味を考えたら瞑想にならないのだよ。意味は考えずに、ただ有難い呪文だと思って唱えるものなのだよ」

「へー、そうなんだ」

「また、ヨガのように体を動かす瞑想や歩く瞑想・座る瞑想などいろいろな瞑想があるのだよ」

「ヨガは美容体操だと思っていたら瞑想だったのか」

「確かに美容体操的な教室も多いと聞くが、本来は悟りを目指す本物の瞑想なのだよ。体を動かすヨガはヨガのほんの一部であって、多くのヨガは座ってする瞑想なのだ。そして今日の多くの瞑想の源流はヨガなのだ」

「へー! そうだったのか」

「スポーツ選手が行うイメージトレーニングも瞑想の一種と言えるだろう」

「瞑想をすると、スポーツも上達するのか!」

「まあ、そういう事だ。それと、アメリカのグーグルという会社では社員教育プログラムにマインドフルネスという瞑想を取り入れているそうだ」

「グーグルってあのアンドロイドや検索エンジンをやってるグーグルですか?」

「そう、そのグーグルだ」

「マインドフルネスってどんな瞑想なんですか?」

「禅とヴィパッサナー瞑想を元にして、宗教的な要素を除いた瞑想だ。グーグルが瞑想を始めたことで、今世界中が瞑想に注目しているのだよ」

「へー、そうなんだ。瞑想ってすごいもんなんですね」

「そのとおり。特にストレス対策には効果的なのだ」と三島は答えると更に続けた。「瞑想で大事な事は、今している事に集中し、妄想したり雑念を起こしたりしない事だ。これからは日常生活でもなるべく今している事に集中し、妄想したり雑念を起こしたりしない事をお薦めする」

「雑念は多いと思うけど、妄想はあんまりしないな」

「本当にそうか? 例えば過去の事を想ったり未来の事を考えたりするだろう? それも妄想なのだ。本当は今しかないのだ。今、今、今、の連続なのだ」

「過去や未来が妄想とは驚いたな。よく考えてみると確かに今以外の時は在りえないですね」

「それではさっそく瞑想を始めよう」と言って二人は瞑想室に移動する。

「今日教える瞑想は主に東南アジアの仏教徒が行っているヴィパッサナー瞑想です。パーリ語でヴィとは『ありのままに・明瞭に・客観的に』、パッサナーとは『観察する・観る・心の目で見る』という意味なのだ。つまり、ヴィパッサナー瞑想は『今』という瞬間に完全に注意を集中する瞑想であり、自分自身を客観的によく観るのです。心地よいことでも不快なことでも、ありのままの体験を価値判断しないで、ただ気づくだけ。それを『ただ観る』あるいは『気づき』と言います。そして、この『ただ観る』ということが瞑想をする上で最も大事なことなので良く覚えておくように」と三島は言うと次の説明に移った。

「ただし、本物のヴィパッサナー瞑想は非常に高度な瞑想なので、とても初心者にできるものではないのだ。そこで初心者でもできる在家者用に開発された簡易版のヴィパッサナー瞑想から始めます。次にヴィパッサナー瞑想実践法の三原則について説明する。1、スローモーション。できるだけ詳細な動きを観察する為にゆっくりと動きます。2、ラベリング。体の動きや心の中で起こった事を出来るだけ詳しく、しかも途切れる事なく実況生中継するように言葉で確認します。3、感覚の変化を感じる。できるだけ詳細に感覚の変化を感じ取り、ラベリングと感覚をリンクさせることが大事です。どうして感覚とリンクさせなければならないかというと、今までは主観的に感じていた私という存在を客観的に観察する為なのです。つまり、今まで当たり前に自分だと思っていた私という存在を徹底的に観察して正体を見極めるということなのです」

「自分の正体ってどういうことですか?」

「自分の正体を見極めることを悟りを開くというのです」と三島は答えると更に続けた。「歩く瞑想と立つ瞑想と座る瞑想があるが、まずは歩く瞑想から始めます」と言うと三島は実際にやって見せながら説明を続けた。「まず背筋を伸ばして、手を後ろで組みます。左足から歩くならば、左足に神経を集中させ、『左足』と心の中でラベリング(言葉で確認)し、同じく『上げます』とラベリングしながら左足を上げ、『運びます』とラベリングしながら左足を運び、『降ろします』とラベリングしながら左足を降ろす。次に、右足に神経を集中させて『右足』と確認し、『上げます』とラベリングしながら右足を上げ、『運びます』とラベリングしながら右足を運び、『降ろします』とラベリングしながら右足を降ろす。このようにラベリングを絶やすことなく歩くことを続けるのです。では望月君やってみて下さい」

 望月は三島が今した通りにやってみた。瞑想という未体験の事を始めるわけだから少し不安そうな様子だったが、わりとうまくやっていた。

「三島先生、さっきから気になっていたのですが、先生の歩く姿はどうしてそんなに美しいのですか?」

「歩く姿勢を常に心の目で観ているからだよ」

「心の目で観るとそんなに美しく歩けるのか! その歩き方を是非習得したいです」

「ヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想を真剣に続けていれば自然に身につくであろう。コツはこの一歩にまるで人生がかかっているかのごとく真剣に行うことだ」

「はい、がんばります!」

「最初にヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想をするのは、初心者には座る瞑想よりも入り易いという事もあるが、価値判断をしないで、ただ観るという事が瞑想修行ではとても大事な事だからだ。雑念を掃って、今この瞬間に集中し、ただ観るという事に常に留意してもらいたい。瞑想中だけでなく、一日中をそういう心構えで過ごして頂きたい」と三島は最後に締めくくった。



 望月は家に帰ってから今日習ったヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想を早速復習した。「左足」「上げます」「運びます」「降ろします」とラベリングしながら足の感覚に集中して、ゆっくりと歩く。雑念を掃って、今この瞬間に集中し、客観的にただ観るとういう事に徹するのだ。

 望月は真剣に歩く瞑想に取組んだ。今日会った三島の雰囲気がただ者ではないと感じられ、不思議なくらいやる気が出てきたのである。また、悟りに興味を持った事もやる気の源となっていた。



  翌日会社に出勤すると岡田が話しかけてきた。「昨日行くって言ってたよな?」

「うん、行って来た。ヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想をしてきたよ。一日ではそれぼど特別な効果があるようには感じなかったけど、きっと継続する事で徐々に効果があるんだろうね」

「そりゃあるよ! 悩みなんかなくなったって前に言っただろ?」

「そうだった。それと、なんかすごい雰囲気の先生だね」

「そうだろ、老師のあの雰囲気はただ者ではないなって直感で分かるよな」

「老師?」

「ああ、皆が三島先生のことを老師って呼んでるから俺もそう呼んでるんだ」と岡田は言って更に続けた。「なんでも若い頃から東南アジアで修行して、日本に帰って来てからもお寺で十年以上修行したって話だ。悟りの境地に至った者だけに与えられる印可も受けているそうだ」

「印可?」

「間違いなく悟りの境地に達したという証明書みたいなもんだ」

「へー、そんなのがあるんだ。悟りって今まで考えてみた事もなかったけど、なんか興味がでてきたな。でも、命がけの修行が必要だって言ってたからそんなに簡単じゃないんだろうな。悟りってなんだろう? 岡田さんは知ってる?」

「俺もよく解らないけれど、コペルニクス的転回、つまり太陽が動いていると思ってたら本当は地球が動いてたくらいの驚くべき真理を体験することらしいんだ」

「えっ、そんなにすごいことなのか?」

「聞いた話によると、とにかく常識が全くひっくり返ってしまうようなすごい真理があるらしいんだ。そして、その真理を悟ることが死の問題を解決する唯一の方法らしいぞ」

「それって、死んでも魂は不滅とか、そういうことなのか?」

「いや、そんな非科学的な事は言わないんだ。以前、老師に輪廻転生について質問すると『今生こんじょうにさえ存在しない者がどうして来世に存在できると言うのだ?』とおっしゃって俺が答えられないでいるとそのまま行ってしまわれたんだが、今生とは今俺達が現に生きているこの人生の事なんだが『今生にさえ存在しない者』という意味は結局いまだによく解らないが、輪廻転生については否定されたという事は解ったんだ。つまり死後の世界は無いってことだよ。死後の世界については浄土宗などで方便として語られたことはあったけど、それはあくまで当時の時代背景を考慮して信者を獲得するために用いられた方便であって本気でそう考えていたわけではないんだ」

「そういえば、老師もそんなようなことをおっしゃってたよ」

「そうだろ。また、他の宗教のように何かを信じろとは言わないんだ。仏教は一般的には宗教だということになっているが、俺は宗教というよりは修行体系だと思った方が仏教の本質により合っているように思うんだ。何故なら、信じろとは言わずに実際に体験して確認しろと言っているからなんだ。見性体験と言って、真理を体験して悟りを開く事を重視するんだ。生きているうちに悟りを開くと死の問題も解決できるらしいんだが、どう解決出来るのかは俺もまだよく解らないんだ」

「いったいどんな体験なんだろう? 霊魂が見えるとかそういうオカルト的な体験なのかな?」

「違うよ! 俺も体験したことないからよく解らないけど、霊魂とかオカルトのような非科学的な要素は一切ないらしいんだ。どういうことかと言うと、俺達はまわりの世界を見るときはありのままに見ていると思っているだろうが、実はありのままに観てはいなくて、『ありのままの世界』に価値判断や思考のヴェールをかぶせて見ているんだ。つまり『思いの世界』にいるんだ。でも多くの人は『思いの世界』にいる事に気づいていないんだ。だから瞑想して価値判断や思考を停止して、『思いの世界』から抜け出して『ありのままの世界』を観る事で、真理が観えて悟りが開けるらしいんだ」と岡田は言うと更に続けた。「江戸時代の良寛和尚は『死ぬときは死ぬのがよろしくそうろう』と言ったんだ。つまり、死に直面しても、すがすがしい気持ちでいられるような境地に至ることができるらしいんだ」

「へー、そんなふうになれたらいいなー」

「あっ、そろそろ仕事が始まるから行かないと」



第二章 修行


 仕事が終わると望月は「一如庵」に向かった。昨日習ったばかりのヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想をしながら歩いて行くのだ。室内でするときはスローモーションであるが、道路でする場合は普通のスピードで歩く。歩きながら「左」「右」「左」「右」と心の中でラベリングするのである。

 玄関を入ると老師が出て来たので、質問した。「老師、悟りとはどのようなことなのでしょうか?」

「悟りとは本来の自分に気付く事だ。つまり、本来は仏であるにもかかわらず、自分を誤って人間だと思い込んでおるから目を覚まさせてやるのだ」と老師は答えた。

「…………」あまりにも想定外というより驚くべき回答に思考が空白状態となり、望月はそれ以上質問する事ができなかった。



 自宅に帰ると望月は今日の老師とのやりとりを振り返っていた。今日、老師が言った事が全く理解できないでいた。そもそも仏とは何かさえ解っていないのであるから、解るはずがなかったのである。そこに気付いた望月は明日は仏とは何かを質問してみようと思った。



 翌日、望月が「一如庵」に着くと老師は廊下の拭き掃除をされていた。昨日から気になって仕方がなかったので、すぐに聞いた。「老師、仏とは何ですか?」

「廊下だ」

「ええっ? 廊下? ……」あまりに予想外の返答に思考がまたもや空白状態となり返事が出来なかった。仏が廊下とは全く訳が解らなかった。しかし、冗談を言っている様子ではなかった。直接言わずに暗にほのめかすという日本人に特有な言いまわしの可能性とか他にいろいろな可能性を考えてみた。しかし、全く解らなかった。

 瞑想が終わり、歩いて帰る途中も仏が廊下だという事について考えていたが、全く解らなかった。しばらく考えてから、こんな考え事をしていてはいけなかったんだと気付き、ここからはヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想をしながら家に帰った。



 数日後、「一如庵」に着くと老師は玄関前の庭で植木の手入れをされていた。望月は仏とは何か考え続けていたが全く解らず、気になって仕方がなかったのですぐに聞いた。「老師、仏が廊下とはどういうことか考えてみましたが、さっぱり解りませんでした。もっと解り易く教えて頂けないでしょうか?」

「仏とは松の木だよ」

「ええっ? 今度は松の木? 全く訳が解りません……」またもや全くの想定外の答えにとまどうが、しばらくすると、ヒントを与えるから後は自分で考えろという事なのだろうと望月は思った。



 望月は家に帰ってからヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想をしていた。「左足」「上げます」「運びます」「降ろします」とやっていると、ふと気付いた。老師は廊下を掃除している時は仏は廊下だと言い、植木の手入れをしている時は松の木だと言った。これは今望月がしているヴィパッサナー瞑想と似ていると思ったのだ。つまり今している事が仏なのだろうかと思ったのである。しかし、今はよく解らないが、瞑想道場に通っていれば、いずれ解る時が来るような気がした。



 望月が「一如庵」に通いだしてから一ヶ月が経ち、次の段階に進む。「今日からヴィパッサナー瞑想の座る瞑想を行います。今までやっていた歩く瞑想はもうやらなくてよい訳ではありません。道を歩く時は必ず歩く瞑想で歩いて頂きたい」と老師は言って、次に瞑想の説明に移った。「『坐ります』『足を組みます』などと動作をラベリングしながら、結跏趺坐けっかふざという形で二つ折の座布団の上に座ります。手は法界定印ほっかいじょういんという形にします。当道場では座る瞑想をするときは全てこの座り方で行います」

挿絵(By みてみん)

 老師は更に説明を続けた。「『背筋を伸ばします』と、ラベリングを入れながら背中をまっすぐにします。『目を閉じます』と目を閉じます。『吸います、吐きます』とラベリングしながら深呼吸を三回します。次に『待ちます』と、自分の中に生じてくるものを待ちます。それから、『痛み』『しびれ』など、気になるからだの感覚を、ラベリングし続けます。『雑念』『妄想』『眠気』『苛立ち』などの心の感覚も、ラベリングします。どれかひとつのことに集中する必要はありません。ありのままの状態をラベリングします。そして、最後は『終わります』としっかり確認してから終わります」

 説明が終わると、望月は座る瞑想を始めた。「待ちます」と心の中で唱えて心に生じるものを待っていると、不思議とあまり雑念が湧かずクリアな状態が長続きする。しかし、始めはうまくいくが、しばらくすると集中力が散漫になり、雑念が生じる。始めのうちは「雑念」とラベリングしていたが、次第に雑念に取り込まれてラベリングをするのを忘れてしまった。体を動かす歩く瞑想よりも集中力を維持するのが難しいと感じた。

「あ痛たた……」瞑想が終わって望月が足を崩すと、足に痛みが襲ってきた。

「足が痛いか?」

「はい。とても痛いです。こんなに痛いとは。瞑想が続けられるかな?」

「痛いのは始めのうちだけだ。そのうちに慣れるから心配しなくてよいぞ」



 ヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想と座る瞑想にかなり慣れてきた望月は朝起きたらすぐにヴィパッサナー瞑想を実践していた。歯磨きする時は歯ブラシを「取ります」「濡らします」「(歯磨き剤を)付けます」「磨きます」というようにラベリングをするのだ。完璧にするのは難しいが、できるだけ全ての行動をラベリングをするのだ。ポイントは決して価値判断をせずに、ただ観る事に徹する事と、ラベリングが単なる掛け声にならないように感覚に注意を向けてラベリングと感覚をリンクさせる事だ。

 職場で仕事中もできるだけラベリングするようにした。ずっとし続けるのは難しかったが、なるべくやるようにした。ラベリングする事で間違いがないか再確認できるので仕事の精度は上がった。更に雑念が減った効果なのか仕事がかなり早くなり、より多くの仕事をこなせるようになった。仕事をする事で生じるストレスも随分減り、生き甲斐を感じられるようになっていた。瞑想を仕事に応用することでこれほどの効果があるのかと驚きの連続であった。




 今日は「一如庵」に行く日ではなかったので、望月は仕事が終わると岡田と居酒屋で飲んでいた。

「仏とは何かと老師に質問したら最初は廊下という回答で、全く訳解らんから、二回目に同じ質問をすると、今度は松の木だって言うんだ、どういう事だろう?」と望月は質問した。

「仏とは本来の自己であると前に聞いたように思うが、どういう事なのか解らないんだ。多分、簡単に教えたのでは身に成らないから、ヒントなのか一例を示されているのか解らないけど、そういう答え方をされているのだろうな」

「廊下や松の木なんかどうやっても仏に繋がりそうにないよな」

「そうだな」と岡田は相槌をうつと、更に続けた。「いきなりそんなに老師に質問しまくっているんだ。かなりはまってるみたいだな」

「そうなんだ。俺、はまりやすくて学生の時もビリヤードにはまってたし。悟りとはどういう事なのか気になってしょうがないんだ」

「俺も悟りがどういう事なのか知りたいが、頭で考えてもだめらしいぞ。瞑想修行をものすごく頑張っていると悟りの境地に至るらしいぞ」

「そうか、やっぱり地道に頑張るしかないんだね」



 数日後、仕事が終わってから望月は「一如庵」に来ていた。いつもと様子が違う望月に気付いた老師は「今日は何かあったのか?」と尋ねた。

「実は、職場でささいな事で言い争いになり、相手の言葉に怒りが収まらないのです」と答えた。

「ばかもの! 何の為にヴィパッサナー瞑想をしたのだ。怒りの感情を感じたらすぐに『怒り』とラベリングすれば感情はその力を失うのだ。そんな事で悟りに近づけると思っておるのか! 一度でダメな場合は『怒り』『怒り』『怒り』と何回かラベリングして意識の光で照らしてやる事で感情に取り込まれずに済むのだ」

「…………」思いもよらない老師の言葉に望月は咄嗟に言葉を返す事ができなかった。

「もっと修行が進むと感情が起こる瞬間を捕らえることができるようになる。そうなったらもう感情に巻き込まれることもなくなるであろう」

「怒りの感情が生じる瞬間を捕らえるなんてそんな事ができるのですか?」

「常に客観的な視点から自分を観ることが定着すれば可能だ」

「早くそうなれるように精進致します」

 瞑想が終わり望月は帰路についていた。今日はヴィパッサナー瞑想を実生活に活かす方法を知り、すごい事を教わったような気がしていた。そして、怒られたのに不思議とうれしかった。人生の師に出会えた喜びだろうか。

 


 望月が入会してから三ヶ月が経ち、今日から新しい瞑想を習うことになった。禅宗で行われている数息観すうそくかんという瞑想だ。

「まず結跏趺坐けっかふざで座ります。次に合掌してから法界定印ほっかいじょういんを組みます。目は半眼にする。半眼とは目線を前方1メートルの床に落とすと前から見ると半眼に見えるのである。そして自然な呼吸を心の中で数え始めます。他所の指導者は腹式呼吸をしろとかゆっくりと呼吸しろと指導するようであるが、わしの経験上、自然な普通の呼吸を数えるのが一番効果的なのだ。初めは普通の速度で呼吸し自然にゆっくりとした呼吸になるから自然にまかせるのが一番良いのだ。そして、修練の程度に応じて百まで数える場合を『前期』、十まで数える場合を『後期』と区別しておる。まず今回は『前期』のみ説明しよう。最初の入る息を『イー』、そして最初の出る息を『チ』と数えます。つまり最初の一呼吸で『イーチ』だ。次の呼吸が『ニーイ』であり、その次が『サーン』となる。そして十一番目は入る息が『ジュー』で出る息が『イチ』となる。最後に百は入る息が『ヒヤァー』で、出る息が『ク』となり、そのまま再び『イーチ』に帰るのだ」と老師は説明すると更に続けた。「そして数息観には三つの条件があり、一.勘定を問違えないこと、二.雑念を交えないこと、三.以上二条件に反したら一から数え直すこと。これは何でもない条件のようだが、実際に実施してみると、容易でないことに気付くはずだ。特に二番目の『雑念を交えない』とは、数をかぞえること以外のことを考えないことであるが、これが難しいのだ。すぐにいろいろな雑念が湧いてくるのだ。初めはあまり厳格に適用するといつまでも百までいけなくて、いやになる恐れがあるので、少しくらいは大目にみてもよい。では実際にやってみよ」

 望月は老師の説明通りに数息観を始めた。始めはうまくいくが、しばらくすると集中力が散漫になり、雑念が生じる。集中力を維持するのは結構難しいと感じる。

線香一本が燃え尽きる約四十五分間が経ち、座禅が終わると「集中するのは難しいだろう?」と老師が言った。

「はい、始めはうまくいっていたのですが、途中から集中が途切れて雑念だらけでした」

「雑念が起こったら『雑念』とラベリングをしてただ観ればよい。意識の光で照らしてやると雑念に取り込まれる事は無くなるのだ。そして更に修行が進むと、次は雑念に気付いているている自分をただ観るのだ」

「『雑念に気付いているている自分をただ観る』って難しそうだな」

「簡単ではないが、これができるようになり、更に一日中その状態を維持できるようになると本来の自己に出会える日は近いぞ」

「それって見性体験ができるってことですか?」

「そのとおり」と老師は答えると更に続けた。「これからは一日も欠かさずに必ず毎日数息観を三十分以上するように。できれば四十五分できると更によいが。つまり、数息観を基本の瞑想として、他の瞑想は休日などの時間のある時に数息観をした上に更にする場合にすればよい。最後に、座禅が終わったからといって気を抜いてはいかんぞ。せっかく整った心を乱さないように気を付けるのだぞ」

「はい、ヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想をして帰ります。それでは失礼します」



 翌日、望月は仕事が終わって、職場の休憩室にやって来ると岡田が先に来ていた。

「昨日は初めて数息観をやったよ」と望月は言った。

「おっ、ついに座禅に入ったか」

「でも数息観はただ息を数えるだけなんで、シンプル過ぎて退屈なんだよな。もっと興味がそそられて集中し易い瞑想がやりたいな」

「解ってないなあ。座禅はそのシンプルさが大事なんだよ。人生には興味をそそられる事ばかりじゃなくて、シンプルで退屈な事もあるだろう? どんなに退屈な事にでも全力で集中できる能力をつけることが大事なんだよ」

「へー、そうなんだ。だから老師は数息観を基本の瞑想として必ず毎日するようにって言ったんだね」



 自宅に帰り着いた望月は仏つまり本来の自己について考えていた。普通の意識の下に自分では気づいていない潜在意識があると以前聞いたことがあったので、本来の自己とは潜在意識のことだろうかと考えていたのだ。いくら考えても解らないからこの問題はまた今度「一如庵」に行ったときに老師に質問することにして、今日は数息観を三十分してから寝ることにした。



 数日後、仕事が終わってから「一如庵」に行こうと会社から外に出ると急に雨が降ってきた。うっとおしい天気だと望月は思った。しかし、その直後、ただ観るになっていないと気付いて、ここからはヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想に集中して雑念を起こさないように歩いた。

 望月は「一如庵」に着き、老師に会うと気になっていた事を質問した。

「老師、本来の自己とは潜在意識のことですか?」と望月が質問した。

「違う」と老師は答えると更に続けた。「雑念を止めようと思ってもなかなか止まってくれんだろう?」

「はい」

「雑念は潜在意識から湧き上がってくるから、意識の力ではなかなか止まってくれないのだよ。つまり潜在意識とは欲望・思い込み・記憶・感情・思念といったにせ自我エゴを作り出す為の材料のたまり場なのだよ。そのようなものが本来の自己であるはずがないのだ」

「へー、そうだったんだ」

「だから、エゴを作り出す材料を貯めないように瞑想をして心を掃除してやらないといけないのだよ」

「はい、精進致します」と望月は言うと瞑想室に移動した。

 しばらくして、瞑想室で座禅が始まった。望月はしばらく座禅をしていると仕事の疲れが出たのか眠気に襲われた。こういう時は合掌すると警策けいさくという平たい棒で肩から背中あたりを打ってもらえるのだ。望月は係りの者(助警)が近くに来たので、合掌した。「パーン、パーン」「パーン、パーン」と音が鳴った。左右を二度づつ打たれるのだ。派手な音の割にはそれ程痛くはないが、眠気は吹っ飛んで、また気持ちよく座禅を続けられる。約四十五分間が経ち、座禅が終わると心のもやもやがクリアになり、すがすがしい気分で家路につく。帰り道はもちろんヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想で帰るのだ。



 望月が「一如庵」で座禅をしていると助警が望月の背中に警策を立てて当てた。背筋が曲がっているから姿勢を正せということだ。望月が姿勢を正すと助警はアドバイスした。「背筋を伸ばそうと頭で考えてはいけない。頭が天井から吊るされているとイメージすると自然と背筋が伸びます」

 座禅が終わって、望月は「一如庵」から自宅へと帰路についていた。いつものように歩く瞑想をしながら帰るのであるが、今日習った頭を天井から吊しているイメージを歩く姿勢に応用しながら歩く瞑想をしているのだ。老師の美しい歩行姿勢に強い憧れの気持ちをいだいているからである。



 今日は休みなので望月は昼間から「一如庵」で座禅をしていた。そして、座禅が終わった後、老師が「今日はこれから温泉に行かないか?」と言い出した。五人が行きたいと言い、計六人で行くことになった。車で一時間ほど走ると景色はすっかり山の景色となり、温泉旅館が、見えてきた。老舗旅館といった感じで、古さのなかにも風情を感じさせる佇まいだ。この旅館では宿泊客でなくても一人千円で温泉に入浴する事ができるのだ。服を脱ぐとまず露天風呂に入った。とても広い露天風呂だ。植栽の木が効果的に植えられていて、地面は苔に覆われている。とても風情がある。温泉の色は薄く水色を帯びた乳白色で周りの緑色ととても良く合っている。すばらしい雰囲気だ。

「老師、ここの温泉めちゃめちゃ雰囲気いいっすね!」と望月が言った。

「そうだろ。わしもお気に入りの温泉なんだ。雰囲気だけじゃないぞ。源泉掛け流しで、湯量も豊富なんだ。ほのかな硫黄の匂いと白い湯の花が温泉気分を盛り上げてくれるだろう。湯の肌触りを感じてみよ。少しツルツルする感じがするだろう? 本物の温泉にはこのように個性があるものなのだ。ここからが瞑想の勉強なのだが、『ただ観る』というと視覚だけのように思うかもしれないが、そうではなくて、聴覚・嗅覚・味覚・触覚についても『ただ観る』にならないといけないのだ。例えばこの温泉で植栽の緑や温泉のわずかに水色を帯びた乳白色を見て、ほのかな硫黄臭を嗅いで、高いところから豪快に落ちてくる源泉の湯音を聞き、温泉らしくやさしいツルツルする肌触りを感じて、ぬるめの温泉がゆっくりと体をあたためる感覚を感じて、さらに湯の揺らめきが体に伝わってくる感覚などをしっかりと感じるのだ。そして余計な雑念がない事、これが本当の温泉三昧というものなのだ」

「ただ温泉の特徴を感じればよいのですか?」と望月は質問した。

「ただ感じればよい。しかし、このただという事がなかなか難しいのだ。例えば、源泉が高いところから落ちて来て『ドバドバ』と湯音を立てているが、これを源泉の湯音を私が聞いていると普通は認識するのだが、その認識は思慮分別なのだ。本当は『ドバドバ』は湯音ではなくただの『ドバドバ』であり、聞いている私さえいないのだ。ただ観るというのは『ドバドバ』と聞いたら聞いたままにしておき、思慮分別につなげないという事だ。つまりただ『ドバドバ』だけがあるという事だ。そして、余計な思念の生じる隙を与えないほど全身全霊を傾けて感じる事が大事なのだ」

「聞いている私はいないのですか?」と望月は質問した。

「私がいるという思いが生じる隙もないほど全身全霊で感じるということだ」と老師は答えた。

 しばらく皆で温泉三昧を楽しんだ後、内風呂に移動した。内風呂は昔の湯治場のような雰囲気で、とても趣がある。露天風呂の温泉は白濁の湯であったが、内風呂の湯は無色透明であった。

「あれ、こっちのお湯は透明だ。温泉の種類が違うのかな?」と望月が言った。

「同じだよ。同じ源泉なのだが、温泉の入れ方によって個性が違ってくるのだよ。露天風呂では高い所から源泉落として入れていただろう? そうする事で空気により多く触れさせて白く濁らせているのだよ。内風呂では浴槽の中からそっと源泉を入れているだろう? そうする事で空気に触れさせないようにして、できるだけ新鮮なお湯にしているのだよ。つまり、新鮮な為まだ濁る前だから透明なのだ」と老師は説明して、更に続けた。「早く入ってみろ、驚くから」そう言われたので望月は浴槽に入ってみた。

「あっ! 泡だらけになった!」と驚いて望月が言った。

「そうだろう。ここのお湯は新鮮だから泡が体にいっぱい付くんだよ」

「露天風呂では付かなかったのに不思議ですね」と望月は言って、更に続けた。「体に泡が付くせいか露天風呂よりも肌がツルツルする感じが強い気がするな」

「おっ、なかなかいいところに気が付いたな。泡付きがあると擬似的なツルツル感が生まれるのだよ。こうして五感に集中して、できるだけ詳細な温泉の特徴を感じ取るのも修行のうちなのだよ。良い事も悪い事も価値判断をしないで、全て味わい尽くす。これがただ観るという事だよ」と老師は言って、更に続けた。「では、またしばらく温泉三昧といくか」

 帰り道の車の中で望月が言った。「温泉に入って瞑想の修行ができるとは思いもしませんでした」

「朝起きてから、夜寝るまでの間の全ての行為が修行となるように心がけなければいけないのだよ」と老師は言った。 



 入会してから五ヶ月が経ち、望月は数息観にも慣れてきて雑念もかなり減ってきていた。

 「一如庵」での座禅が始まる前、老師が望月に話しかけた。「前期の数息観はなかりできるようになったようなので、今日から後期の数息観に入る。普通は後期に入るにはもっと期間が必要なのだが、望月君の修行する姿勢が真剣そのものなので、このような異例の早さが実現したのだ」

「はい、ありがとうございます」

「では始めるぞ。後期の数息観では一から十まで数えたらまた一に戻るのだ。そして一切の雑念を起こしてはいけない。ほんの少しでも雑念が起こった場合はまた一に戻るのだ。後期ではこのルールを厳格に適用する。そして一から十までを五回連続達成できる事を目標とするように」と老師は言った。

 一回目の座禅瞑想が終わった。望月は長時間の瞑想ができるようになったので、この後もう一度数息観を行う。数息観を二回行う場合は、二回の数息観の間に経行きんひんという歩く瞑想を行う。足のしびれをとる為と眠気を覚ますために行うのだ。老師が経行の説明を始めた。「手を胸に当て顎を引いて二メートル位先を見ながら、静かに歩むのです。右廻りで廻ります。最初の一歩は左足からと決め、そして左足を運ぶ時はいつも吸う息、右足を運ぶ時は吐く息と決めておきます。足の動きに合わせて『念々正念歩々如是』と呪文を唱えます。呪文の意味を考えるとエゴ(自我意識)が働いて良くないので、無意味な呪文だと思って下さい」

「考える事もいけないのですか?」と望月は質問した。

「思考も雑念や妄想と同じようなものであり、できるだけ無くしてゆかなければならないのだ」と老師は答えてから、説明に戻った。「『念々』と左足を出し『正念』と右足を出し、次ぎに『歩々』と左足を出し『如是』と右足を出し、これを繰り返す。見本を見せるから付いて来い」と老師は言うと経行を始めた。望月は老師の真似をしながら後を付いて行く。

 経行が終わってから、望月は二回目の数息観をしていると不思議な体験をした。

「老師、ふわりと宙に浮いたような不思議な体験をしました」と望月は数息観が終わってから言った。

「瞑想をしているとそのような体験はよくある事だ。とらわれずにただ観るのだ」



 数日後、思考や雑念をなくせと前回言われたが、思考は大事な事だと思っていた望月はいまいち納得できないでいたので、老師に質問した。「どうして思考や雑念を徹底的に無くさないといけないのですか?」

「思考や雑念は本当の自分ではないからだ。思考や雑念はエゴという偽の自分から生じており、エゴを本当の自分だと思い込んで人生を乗っ取られているようなものなのだよ。そして、思考や雑念を消すと本来の自己が現れてくるのだよ」

「えっ! 思考や雑念は本当の自分ではなかったのか! これは驚いたな」

「マトリックスという映画を見たことがあるか?」

「はい、あります。あの映画はけっこう楽しめたのでシリーズの全作品を見ました」

「一作目で主人公が人工知能にカプセルで培養されてコンピュータで作った夢を見せられている姿を見てどう思った?」

「映画での一幕なので特別どうこう思いませんでしたが、もし現実であれば耐え難い事だと思います」

「あれは迷いの姿を表現したものなのだ。悟りを開いた人以外は皆あの状態なのだ。つまり、エゴを本当の自分だと思い込んで夢を見ているのだよ」

「えっ、という事は私もあの状態なのですか?」

「そうだよ。だから修行して本来の自己を取り戻すのだよ」

「急にはとても信じられないな」



 入会してから半年が経ち、次の段階に進む時期だと判断した老師は言った。「数息観に慣れてきたようだから、次の段階である、息を数えずに息そのものに集中する随息観を行う。随息観をしている時、なにか目標を決め、こう深呼吸をして、また吐いて、などと心で、はからいながら集中をやっているのでは、それはエゴが働いてしまっている状態であり、ただ観るになっておらん。息なら息をただ観るだけ、つまり随息観なら息を吸うとき、吸うていると観、吐いている時は、息を吐いているのを観るだけ、息と一体になる、これに集中するのが、随息観だ。最初のうちは吸うている、吐いている、という意識があるのは仕方ない。しかし、修練を続けると状態が深くなり、息と一体になってくるものだ。自分を入れずにただ観るというのは、対象と一体になるということだ。こういう状態が主客未分(主が自分で、客が息)という状態だ。別の言い方で三昧とも言うのだ。エゴが落ちていることにより実現されるのだ。最終的にはこういう状態を目指すのだが、目標を意識するとエゴが働くので注意が必要だ」

 望月はさっそく随息観を始めた。瞑想を始めて半年が経ち、だいぶ禅定力がついていたのでとても集中して行えた。もちろん三昧にはまだまだほど遠いのであるが。



 仕事が終わった後、望月と岡田は二人で居酒屋で飲んでいた。

「岡田先輩のおかげで会社を辞めずに済みました。ありがとうございました。『一如庵』に通ったおかげで、悩みは自分で作り出していたという事が解った。つまり考えなくてもいい事をくよくよ考えるのがいけなかったんだ。辞めたい気持ちはエゴから出たものだという事も解り、そんな気持ちに負けなくて本当に良かったと思っています」

「止めてくれよ。俺はただ誘っただけなんだから」と岡田は言うとコップのビールを飲んで、更に続けた。「近頃は縁というものを大切にしない人が増えたように思うけど、縁を大切にしないといけないと仏教は教えているんだ。縁を大切にするという事はあるがままの現実を受け入れる悟りの心だと教えられた。あるがままの現実というのは唯一絶対のものなのだよ。あの時にああしておけばとかよく考えがちだけれど、それは全て妄想なんだ。そしてエゴはここよりあっちの方が良さそうだとか誘惑するんだ。エゴに負けて縁をないがしろにすれば、迷いの心を深める事になるから気を付けないとね」

「迷いの心を深めるというと盗みとか悪い事をしたりすると、やっぱり迷いの心が深まるのかな?」

「そうだよ、エゴから生じた欲望に負けて、エゴに突き動かされて行動すると、結果的にエゴが強められて、迷いが深まるんだよ」

「修行と反対の方向に行かないように気を付けないといけないんだな」

「そうだな、お互いに気を付けて行動しないとな。この教えがもっと広まれば世界から犯罪がなくなるかもしれないのにな」

「そうなるように俺達も微力ながら貢献したいな」

「でもお釈迦様がこの教えを説かれてから二千五百年も経ったというのに、この教えを本当に理解している人はごくわずかしかいないのが現状なんだよ」

「何とかならないものなのかな……」



 望月は歩く瞑想をしながら「一如庵」に向かっていた。「一如庵」は元旦だけ休みで、一月二日から年始めの座禅会が始まるので、望月はさっそく今日から参加するために道場に向かっていたのだ。道中の家々の軒先のお正月飾りが正月らしさを感じさせてくれる。

「一如庵」に着くと老師が庭掃除をしていた。

「老師、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します」

「あけましておめでとう。今年も気合を入れていこう!」

 皆が集まると老師が挨拶をした。「あけましておめでとうございます。今日は座禅の前に近くの神社に初詣に行きます。今年の抱負を誓うことで今年一年を有意義な修行にしましょう!」

「仏教の道場なのに神社に行くんですか?」と望月が質問した。

「仏教だ神道だと分別する心がいかんのだ」と老師は答えた。

 歩いて二十分ほどで神社に着いた。沿道は露店がずらりと並び、多くの参拝者で賑わっていた。少し歩くと大きな朱色の鳥居が見えてきた。一礼して鳥居をくぐると、手水場ちょうずばで手と口を水で清めてから皆お参りした。望月も軽く一礼してから賽銭箱に賽銭を入れて鈴を鳴らすと、二礼二拍手一礼して今年の抱負を誓った。

「どんなことを誓ったんだ?」と岡田が聞いてきた。

「今年こそ、今この瞬間を生きることを徹底しますって誓ったよ」

「そうではない」と横で聞いていた老師が言った。そして更に老師は続けた。「今この瞬間を生きると言うと生きている私がいることになる。これでは無我の境地を目指す禅の目標とは言えないのだ。正しくは今この瞬間が生きているのだ。目標とするなら今この瞬間に成りきるとするがよい」

「…………」望月は意味が解らず言葉に詰まった。



 入会してから七ヶ月が経ち、もうすっかり真冬である。望月が家から外に出ると雪がちらついている。今日は仕事が休みなので、「一如庵」に一時間早く行って掃除をするのだ。掃除も大事な修行の内なのである。この道場では本人の自主性を重んじて作努さむ(掃除の事)の時間を決めていないのだ。各自が都合の良い時にやって来て掃除をするのである。

 望月は廊下を雑巾がけをしていた。廊下は暖房が入っていないのでとても寒い。

「寒いか?」と望月の様子を見ていた老師が声を掛けた。

「はい、とても寒いです。どうして暖房を入れないのですか?」と望月は聞いた。

「それでは修行にならんからだよ。隣町にある寺では真冬に滝行を行うのだぞ。どうしてか解るか?」

「…………」なんとなく解る気もしたが、とっさに答えられなかった。

「どんな試練にあっても気合で心を動かさない練習だよ」と老師は言うと、木刀を持って来て「気合を入れて掛け声と共に振ってみよ」と言った。

望月は言われたとおり「はー」と掛け声を掛けながら木刀を振った。

「声が小さい! 腹から声を出せ!」

「はああーーーっ!」

「よし! その気合だ!」



 入会してから九ヶ月、街のあちこちで桜が咲き始め、春の穏やかな日差しが心地良い天気だ。

「一如庵」に着くと「今日は新しい瞑想を行うので、裏庭に面した縁側に移動する」と老師が言った。老師について裏庭の縁側に移動すると、玄関前の庭が緑がいっぱいでとても風情のある庭であったのとは対照的に、無機質な岩と大粒の砂だけの庭であるが、まるで京都の禅寺にあるような枯山水風の見事な庭園であった。

「今日はこの庭の縁側で瞑想する」と老師が言った。皆は縁側に結跏趺坐して座った。縁側の一段高くなった部分がちょうど二つ折の座布団のかわりになるのだ。岩と大粒の砂だけで出来た無機質な庭園を一瞬だけ見てから目をつむり、水の流れる様を思い浮かべる瞑想だ。やってみるとこれがなかなか難しく、思うようにイメージを描けないでいた。

「イメージを描けない場合は、また目を一瞬開けて何度でもやってみるように」と老師が言った。

 枯山水風の庭園は見事なものだが、塀の外に電柱が見えているのが玉にきずだと望月は思った。しかし、次の瞬間には雑念に気付き、「雑念」と心の中でラベリングしてから瞑想に戻った。

 瞑想の後は別室に移動して、老師の法話だ。移動した先の部屋には丸い窓と四角い格子の窓があった。

挿絵(By みてみん)

「丸い窓は『悟りの窓』と言い、四角い格子の窓は『迷いの窓』と言う。京都の禅寺の真似をして造ったものだが、少し違う点もあって、京都の寺は『迷いの窓』が障子の窓であるが、『一如庵』ではあえてこれをガラスの格子窓に変えたのだ。どうして『悟りの窓』『迷いの窓』と言うか解るか?」誰も答えないので、老師は説明を続けた。「まわりの世界を認識するのに言語とイメージをもちいるが、通常は言語優位の状態にあるので、物に名前を付ける事で、その物を世界から切り取って、本来全てで一つである世界を、あたかも別々に物が存在する世界だと誤って認識する。これを仏教では分別智と言っておる。つまり四角い格子の『迷いの窓』のように世界を分割して見る認識方法なのだ。一方、イメージ優位の認識は世界を分割せずに認識する。つまり丸い『悟りの窓』のように世界を一つと見る認識方法なのだ。これを無分別智と言う。言語による認識を減らして、イメージによる認識の比率を上げる事で、悟りに近づけるのだ。実際に実践する場合は窓を見て窓だと言語的にとらえるのではなくて、窓の形や色をイメージ的に認識するということだ」

 瞑想会が終わり、望月は歩く瞑想をしながら自宅に向かっていた。周りを見るとき普通は道路や建物と言語的に認識しながら見るが、先程の老師の教えの通りに、言語に頼らずに形や色をイメージ的に観ながら歩く瞑想をしていた。


   


 仕事が終わった後、望月と岡田は二人で居酒屋で飲んでいた。

「迷いと悟りというのは小説の一人称視点と三人称視点に似ていると思うんだ。岡田さんはどう思う?」と望月は尋ねた。

「えっ、どういう意味だ?」

「一人称視点というのは主人公の視点でストーリーを書く事で、主人公の主観以外は書いてはいけないんだ。これが迷いの状態。次に、三人称視点というのは小説には登場しない第三者の視点で客観的にストーリーを書く事なんだ。これが悟りに近いような気がするんだが、どう思う?」

「よく解らないけど、ヴィパッサナー瞑想は客観的に観る瞑想だから、いい線いってるのかもな。『私はダメな人間だ』と思うのと『私はダメな人間だという思考が湧いている』と観るのでは深刻さがまるでちがうよな。俺もこれからは仏様の視点で観るようにするよ」と言うと岡田はコップのビールを飲み干して「ビールもう一本追加」と店員に言った。

「ところで、前に言ってた見性体験ってどんな体験なんだろな? あれからずっとめっちゃ気になってるんだよな」と望月が言った。

「いや、あれは実際に体験してみるしかないと思うぞ」

「悟りが開けるような真理の体験って、いったいどんな体験なのか全く解らないけど、気になってしょうがないんだよな。早く体験したいな」

「俺ももちろん興味あるけど、体験なんだから考えても解るわけないし、真剣に座禅して早く体験できるように頑張るしかないと思うぜ」と岡田は言うと、腕時計を見て「あっ、もうこんな時間か。そろそろ帰らないとな」と言って、伝票を持って立ち上がった。



 瞑想道場に通いだしてから十ヶ月が経った。望月が「一如庵」に向かって歩く瞑想をしていると、ツツジの花があちこちで美しい花を咲かせている。

 望月は今日は仕事が休みなので、「一如庵」に一時間早く行って廊下の拭き掃除をしている。以前に掃除をしていると老師から気合が足らんと言われたので、気合を入れて雑念を払い、拭き掃除に集中した。

「気合の入った良い動きになってきたな。しかし、丁寧さが足りない。自分の心を拭いているつもりで廊下を拭いてみよ」とそこに通りかかった老師が言った。

 座禅が終わると、望月は岡田に話かけた。

「今日、老師から『自分の心を拭いているつもりで廊下を拭いてみよ』って言われたんだけど、それって単に丁寧に掃除しようとする気持ちが心も綺麗にするという意味なんだろうか?」

「あっ、それ俺も言われた。何か深い意味がありそうだって思ったからある先輩に聞いてみたんだが、『自分で気づく事が大事だ』って言って教えてくれなかったんだ」

「やっぱり、深い意味があるんだ」

「そうみたいなんだが俺も解らないんだ」



 望月が「一如庵」に通いだしてちょうど一年が経った。「一如庵」に向かって歩く瞑想をしていると、七夕たなばたの笹を軒下に飾っている民家があった。望月は子供の頃に七夕をやったなと懐かしく思ったが、直後に「雑念」と心の中でラベリングして歩く瞑想を続けた。

 「一如庵」に着くと老師が「今日は枯山水庭園で瞑想するから縁側に集まれ」と言った。枯山水庭園の縁側に皆が集まったので、老師が話し始めた。「今日は瞑想を始める前に一つ問題を出す。この枯山水庭園には全部で十五個の庭石があるが、他の石の陰に隠れて、どこから見ても全ての石を同時に見る事はできないように配置されている。そこで問題だが見えていない石はるのか無いのか?」

 誰も答えないので老師は「この問題は宿題にするので、後日答えの解った者は見解けんげを述べるように」と言って更に続けた。「では前回行った枯山水庭園の瞑想を始める」

 瞑想が終わると望月は更衣室に移動し、岡田に話かけた「視界に入っていない庭石が在るのか無いのかどう思う?」

「普通に考えると見えていないだけで石は在る。しかし、それではあまりにも普通すぎて、あえて問題にする必要はない。となると、答えは無いだ。でもどうして無いのかさっぱり解らないんだ」

「岡田さんも解らないんだ」



 一週間後、望月が「一如庵」に着いて玄関で靴を脱いで歩き出したところに老師がやって来て、「そこに何と書いてある?」と言って玄関の壁を指し示した。そこには墨で「照顧脚下しょうこきゃっか」と書かれた木の板が懸かっていた。

「すいません」と言って望月は靴を揃えると「照顧脚下、つまり靴を揃えろという事ですね」と答えた。

「照顧脚下には二つの意味があり、一つは今望月君が言ったように履物を揃えろという意味だ。そしてもう一つの意味は悟りや真理というとどこか遠いところを探そうとするが、足元や目の前といったところにこそ真理はあるのだから、自分が何者なのか良く観なさいという意味なのだ」

 望月は枯山水庭園の縁側で瞑想していると、先程老師から言われた「照顧脚下」という言葉を思い出した。目の前に真理があるってことは、今目の前にある十四個の石が真理ってことだよなと思った。

 瞑想が終わると望月は老師に「照顧脚下のとき老師は真理は目の前にあるとおっしゃったので、今目の前に十四個の庭石が在る事が真理です。つまり見えていない十五個目の石は在りません」と言った。

「なるほど。ではどうして本来は十五個在るはずなのにそれは正しくないのだ?」

「それはわかりません」と望月は答えた。

「十五個の庭石があるという真実(だと思っている事)は、今この場で実際には体験していないのだから事実ではないのだ。十五個の庭石があるはずだという思い込みがあるだけなのだ。これからは思い込みに囚われずに観たままが事実だということに留意するように」



 自宅に帰った望月は庭石の問題を考えていた。庭石が全て見えるかどうかなんて、たいして重要だと思えなかったが、わざわざこの問題の為に庭まで造るくらいだから、よほど重要な問題なのだろうと思った。しかし、どうして重要なのかが全く解らなかった。



 翌日、望月は「一如庵」に着くと、さっそく老師に質問した。「昨日の庭石の意味がよく解らなかったのですが、どういう意味があるのでしょうか?」

「ではヒントをやろう。見えていない十五個目の庭石は望月君自身なのだよ」

「ええっ? …………」あまりにも予想外の回答に思考がついていけなかった。



 自宅に帰った望月は今日の老師とのやりとりを思い起こしていた。つまり、見えない十五個目の石は望月自身とはどういう事なのかと考えていたのだ。目の前に事実としてある事以外は思い込みであり、見えない十五個目の石は在るという思い込みがあるだけだという老師の説明から考えられる事は、望月自身も存在しているという思い込みがあるだけで、実際には存在しないという事なのかと考えていた。「そんな事ある訳ないよな……」と望月は独り言をつぶやいた。



 瞑想道場に通いだして一年と一ヶ月が経ち、暑い盛りだ。望月は今日は仕事が休みなので、瞑想道場に一時間早く行って掃除をしようと家を出た。道中は蝉の大合唱を聞きながら、いつものようにヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想で行くのだ。

 望月は廊下を雑巾がけしていた。廊下は冷房が入っていないので、とても暑い。望月の様子を見ていた老師は「暑いか?」と声をかけた。

「気合で暑くない、暑くないと言い聞かせようとしているのですが、やっぱり暑いですね」

「ばかもの! 誰がそんな事をしろと言った。暑い時は暑いと正しく感じれば良いのだ。ちょっとこっちへ来い」と老師に誘導されて個室に移動した。個室に入ると「この掛け軸を見よ」と言って老師は一幅の掛け軸を見せた。それは墨蹟の掛け軸で「正受にして不受」と書かれていた。「『正受』の意味はありのままを正しく認識する事だ。ありのままの現実を拒否したり抵抗したりしてはいけない。何故なら、ありのままを拒否したり抵抗したりするという事は、ありのままでない現実を妄想しているという事なのだ。ヴィパッサナー瞑想でやったようにただ観るのだ。そして、『不受』とは感じたままにして、それ以上、二念三念に展開させないことである。それをそうせずに二念三念へつなげ、思慮分別に発展させるものだから、次から次へと連想がおこり、雑念の黒雲がはびこってしまうのだ。つまり暑ければ暑いとありのままを正しく感じることだ。暑いのに強がって暑くないと言うのは正しくないのだ。暑いからいやだとか二念三念に展開させなければよいのである。この掛け軸をやろう。座右の銘とするがよい」

「そんな立派な物、頂けません」

「遠慮するな。わしが書いたもの故、原価はそれほどかかっておらんのだ」

「ありがとうございます」と望月は言うと低頭して掛け軸を受け取った。



 望月が「一如庵」に通いだして一年二ヶ月が経ち、今は九月だ。

「今日はお月見の日だから月見の瞑想といこう」と老師が言った。皆は老師に誘導されて裏庭に移動した。枯山水風の庭園に面した縁側に皆で座って月見の瞑想をするのだ。

「月を一瞬見てから、目をつむり夜空に月が輝いているのを心のスクリーンに映して観る。次に、胸の中に月を引き入れるとイメージする。そして、胸中の月をどんどん大きくしていく。大きくした月をどんどん小さくしていく。元の夜空に月を返すとイメージする」と老師は瞑想の仕方を説明した。老師の説明通りに皆瞑想をしている。

 月見の瞑想が終わると老師は「この瞑想は真言宗で行われている月輪観がちりんかんという瞑想であり、阿字観という瞑想の練習に行う瞑想だ。本来は掛け軸の月輪を見て行う瞑想であるが、今日はせっかく名月が出ているので月見の瞑想とした」と説明した。



 望月が「一如庵」に通いだして一年三ヶ月が経った。「月輪観ができるようになると次は阿字観だ。阿字観はこのような月輪の中に蓮華と阿字を描いた掛け軸を見て行う瞑想だ」と老師は言うと阿字観用の掛け軸を見せて、更に説明を続けた。「阿字とは梵語の阿という字であり、真言宗では特別な意味を持つ字である。それは『本不生ほんぷしょう』と言って、本来は不生不滅である宇宙の本源を阿字で表しており『阿字本不生』と言うのである。そして、万物の根源は宇宙であるから、阿字は宇宙仏たる大日如来の象徴となる。阿字を観想し、阿字を胸中におさめることは、自身と大日如来との本質的・本源的同一を体感することに他ならない。つまり大宇宙の命と我と一体だということだ」と老師は阿字の説明すると、次に瞑想の仕方の説明に移った。「眼を閉じたまま、深呼吸を3回します。息は口から吐きます。その後は鼻で呼吸をします。心を出入の息に観じて呼吸を調え、心を静める。手は座禅と同じ法界定印にします。眼を少し開いて本尊(阿字観用の掛け軸)を見ます」と老師は言うと阿字観用の掛け軸を指し示した。

挿絵(By みてみん)

老師は更に説明を続けた。「本来不生の自心を表す『阿字』、自心の清浄にして慈しみの心を開いた『蓮華』、自心の円満にして清涼の光を放つ『月輪』、この『阿字・蓮華・月輪』の色・形・徳を感覚的に観ずる。しばらくして静かに眼を閉じて眼前に観ずる。日を重ねて、眼前の阿字本尊がかなり明瞭になるようになれば、そのままゆっくりと胸中に引き入れて、自心の清浄と光明を、全身でしばらく観じてから、元の掛軸本尊へゆっくりと返します」

 老師の説明の通りに皆瞑想している。望月はうまく阿字本尊を心のスクリーンに描けずに苦労しているのか、目を開けたり閉じたりを繰り返していた。



 望月が「一如庵」に通いだして一年四ヶ月が経った。「今日は写経を行います」と老師は言って、更に続けた。「般若心経という短いお経を毛筆で書き写します。上手に書く必要はありません。何故なら、我々は上手・下手や善・悪といった相対的な価値の世界を超える事を目指しているからです」

「どうして相対的な価値の世界を超える必要があるのですか?」と望月が質問した。

「上手・下手や善・悪といった相対的な価値感は人が勝手につくったものであり、妄想なのだよ」と老師は答えた。

「えーっ! 価値感は妄想だったのか!」と望月は驚いた。

「相対的な価値観はそのように感じる人が多いという曖昧な根拠で人が勝手に決めたものだからだ。他にも綺麗・汚い、生・死など皆同様だ」

「え~っ! 生・死も相対的な価値観なのですか?」

「生と死に分けて考えるから生や死があるように感じるのだ。禅を極めるとそういうこともいずれ解るようになる」と言うと老師は写経の説明に戻った。「まず、般若心経を皆で一回唱和します」

摩訶般若まーかーはんにゃー波羅蜜多心経はーらーみーたしんぎょう 観自在菩薩かんじーざいぼさー 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはーらーみーたーじー 照見五蘊皆空しょうけんごーうんかいくう……」

 般若心経の唱和が終わると老師が写経の説明を続けた。「お経の意味を考えるとエゴが働くので、意味は考えずに、ただありがたいお経だと思い、雑念を払い、一画一画をしっかりと心で感じながら書いて下さい」

「要するに写経も瞑想だということですね」と望月が言った。

「そのとおり。では始めて下さい」

 望月は早速、筆を執って書き始めた。しばらく書き進んで、「色即是空」のところにさしかかると、初めて瞑想道場に来た時以来、墨蹟の掛け軸のこの言葉がずっと気になっていた事を思いだした。



 翌日、望月は仕事帰りに岡田と居酒屋で飲んでいた。

「『色即是空』ってどんな意味か知ってるか?」と望月が尋ねた。

「いや、解らない」と岡田は答えた。

「岡田さんでも解らないか」

「それってけっこう難しいような気がするぞ」

「そうかもな。『色即是空』の後に『空即是色』とひっくり返って繰り返すのはどうしてだろう?」

「あっ、それ解るかも。多分、悟りの世界では物質はくうに見えるが、人間の世界ではくうが物質に見えるって事だよ。でもくうがどういう事なのかさっぱり解らないんだよな」と岡田は答えた。



 数日後、望月は本屋に来ていた。「色即是空」の意味が気になり、般若心経の本を買いに来たのだ。一冊の本を買うと自宅に戻り、早速読んでみた。

 本を読んでいて「色即是空」の意味は物質世界は実体ではないと書いてあり、全く理解不能であった。更にもっと読んでいくと、全ての物は因と縁によってたまたま生じたものである。そして、それら全ては孤立して存在するのではなく、相互に依存して存在している為、永遠不滅の実体ではないと説明しているが、納得できないでいた。人はいつか必ず死ぬのだから誰も自らを永遠不滅の実体だとは思っていないからである。命がけで悟りを目指して修行するほどだから、さらに奥にもっと思いもよらない事があるのではないかと望月は思ったのである。

 


 望月はその後、一週間考えたがさっぱり解らないので老師に質問した。「『色即是空』とはどういう意味でしょうか?」

「『空』とは仏教の究極の奥義である。そう簡単に解るものではないぞ」と老師は答えると、更に続けた。「禅宗には『不立文字ふりゅうもんじ 教外別伝きょうげべつでん 直指人心 見性成仏』 という言葉があって仏教の真髄は経典だけでは充分に伝わらないので、師について参禅し、見性体験を通して悟りを開く事が大事だという意味である。例えば旨いラーメン屋があったとして、旨いラーメンの味を言葉でどんなに説明しても解らないのと同じだ。興味や疑問を持つ事はとても良い事である。しかし、頭で考えるのではなく、『くう』を体験しようと工夫してみよ」



 翌日、望月は岡田に「『色即是空』の意味を老師に質問したら、頭で考えるのではなく、『空』を体験しようと工夫するように言われたのだけれど、どうすればいいのかさっぱり解らないんだ」と相談した。

「先輩が似たような課題を出されて、『空』を体験するにはまず無心にならないといけないと言って、呼吸に合わせて『むーー』『』『むーー』『』と吐く息は長く吸う息は短く心で『無』を念じるように座禅していたな。そんな感じでいいんじゃないか」と岡田は答えた。

「ありがとう。そうしてみるよ」



 望月は自宅に帰り、さっそく呼吸に合わせて「無」「無」「無」「無」と心に念じて座禅をしてみた。ひたすら心を空っぽにし、「無」の一念に成り切ろうとした。しばらく座禅していると、ふわりと宙に浮いたような例の感覚になり、このまま無心になり「空」を体験できるかと期待したが、そこから先にいく事はなかった。望月は無心になろうとか「空」を体験しようとか期待した為に無心に成り切れなかったと反省した。



 今日は仕事が休みなので、「一如庵」に1時間早く行って掃除をする。動中の工夫といって、掃除しながら「無心」になりきれるようにするのだ。掃除する時、動作の一挙手一投足に集中して決して雑念を起こさないように努めるが、たまに雑念が起こる事もあった。

 望月が掃除している様子を見ていた老師は「雑念を起こさないのは良い事だが、それだけでは充分とは言えない」と言って、更に続けた。「『私が拭く』の『私が』を消して、つまり無心になって『ただ拭く』事に徹するのだ。最初は『拭く』という意識があるのは仕方のない事であるが、徐々にできるだけ意識しないようにしてゆき、廊下と自分と雑巾が一体となる事、つまり分別しない事が『ただ拭く』と言う事である。そして『ただ拭く』の一念が決して途切れる事なく一貫して相続する事が重要だ。もうヴィパサナー瞑想のラベリングはしなくても、数息観・随息観で養った気合と禅定力で対処できるだろう」

「えっ、もうラベリングはしなくてもいいのですか?」

「ラベリングは初心者が雑念を無くすには良い修行方法である。しかし、上級者が三昧に入るには言葉と思考を停止する必要があるのだ。ラベリングも言葉であるから三昧に入る妨げとなるのだ。これからはラベリングの代わりに呼吸に意識を向けながら、雑念を払い、今やっていることに集中しなさい」

「はい。解りました」と望月は答えると、老師の教えの通りにラベリングなしで呼吸に意識を向けながら雑念を払い、廊下を拭く動作に集中しようとした。しかし、廊下と自分と雑巾が一体となる事はそう簡単にできるわけがなかった。



 一週間後、望月は今日も「一如庵」に一時間早く来て掃除をしていた。廊下を拭くときは必ず左から右に拭くというように掃除の進行をパターン化して、次はどうしようかと頭で考えないようにした。そうしてエゴが働かないようにしているのだ。

 掃除を始めるときだけはどうしても、掃除を始めようと考えてしまうが、しばらくすると掃除しようとか拭こうとか思わずにできるようになってきた。つまり「無心」に近づいてきたのだ。



第三章 五感の世界


 今日は休みなので朝の随息観の後、朝食をとり、食後にコーヒーを飲んでいる。温泉に行った時に教えて頂いたように、コーヒーの色を観て、匂いを嗅ぎ、よく味わいながら雑念を起こさずに飲むのだ。

 コーヒーを飲んだ後にモーツアルトのアルバムを聴いている。歌詞のないクラシックの曲を聴くと脳にアルファー波が現れ、瞑想状態に近いと聞いたからだ。このアルバムにはお気に入りのトルコ行進曲が入っていたから買ったのだ。トルコ行進曲は瞑想に不向きな気もしたが、好きな曲の方が集中しやすいと思い選んだ。望月は雑念を起こさないように曲に集中して聞いている。

 曲が終わって、望月は音の世界に浸ってみるのも良いものだとしみじみ思っていた。すると、音は空気の振動であり、人の感覚器官が音として感じているにすぎない事を思い出した。視覚や嗅覚・味覚・触覚についても同様だろうかと思索し、まわりの世界とは実は感覚器官からの信号に基づいて脳がつくり出した仮想世界ではないのかという仮説を思いついた。



 翌日、望月は「一如庵」に着くと昨日思いついた事を老師に話した。「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感が作り出す世界とは実は感覚器官からの信号に基づいて脳が作り出した仮想世界ではないかと、ふと思ったのですが、いかがでしょうか?」

「ほう、よく気付いたな。まさにその通りだ」と老師は答えると、例え話を持ち出した。「昔、達磨だるま大師が弟子から『心が不安である』と相談を受けた。達磨大師は『安心させてやるから心を出してみろ』と弟子に言った。弟子は『心は出せるものではありません』と答えた。『ほら、安心させてやった』と達磨大師は言った。つまり心と思っていた思考や感情は幻想であり、本来はないものをあるように思っていただけなのだよ。本当の心は望月君の言うように夢のような仮想世界であり、また鏡にも例えられる。本当の心は鏡のようにまわりの世界を映しているのだ。つまり、この世界は心に映し出されたもの、と言うよりこの世界そのものが心なのだよ」

「ええっ! この世界そのものが心! そんなことって……」

「にわかには信じがたいことであるが、これが真理なのだよ」と老師は言うと、更に説明した。「心がまるで実体が在るかのように夢を見せているだけなのだ。つまり望月君も人間として存在していると思っているだろうが、心という鏡に映った世界の中から自分だけを勝手に切り取って人として存在している夢を見ているにすぎないのだ。つまり、夢から覚めた悟りの世界では人ではないし、生きてもいないのだ。生きていないという事は死ぬ事もないという事だ。心の働きで人として生まれたり、存在したり、死んだりするように感じていただけたっだのだ。つまり妄想だ。もう一度言うぞ、本当の心とは今までまわりの世界と思っていたもの全てなのだ。今まで誤って心だと思っていたものは鏡の汚れのようなものなのだ。鏡の汚れは物事をありのままに観る妨げとなるので、瞑想をして心という鏡を綺麗に掃除してやらないといけないのだ」

「皆が当たり前のように自分のことを人だと思っている事が妄想だったとは。あっ、そう言えば前に本来は仏なのに誤って人だと思い込んでいるって聞いたし、マトリックスの話の時にも夢を見せられているって聞いていたけど、よく解ってなかったな。では、この世の全てが心なら、仏も心なのですか?」

「そのとおり。今この瞬間に目の前にある世界全てが心であり仏である。ただし、今この瞬間に目の前にある世界といっても望月君の思っている世界とは違うぞ。自分と他人を区別する以前の世界、あるいは物と空間を区別する以前の全てが一つである世界なのだ」

「この世の全てが心であり夢のような世界だという事は、本当は何も無くて、全ては妄想だったんだ……」

「何も無いわけではないぞ。ただ観ている意識、つまり瞬間瞬間の感覚だけがあるのだ」

「少し解りかけてきました。では、老師が以前に仏とは廊下であるとおっしゃったり、松の木であるとおっしゃったのは、全てが仏である目の前の世界の中から仏の一例を示されていたのですね」

「そのとおり。ようやく解ったか」

「拭き掃除をしている時に『自分の心を拭いているつもりで拭いてみよ』とおっしゃった意味もようやく解りました」

「これからは自分の心を拭いているつもりで丁寧に心を込めて拭くのだぞ」

「はい。それと、枯山水庭園の庭石の問題で、見えていない十五個目の石が私自身であるというのは、私は本当はいなくて、いるという思い込みだけがあるという事なのですね」

「そのとおり。よく解ったな。自分の体があると思っているだろうが、それは自分の体に関する過去の記憶を寄せ集めたり、他人の体を参照したりして作り上げられたイメージなのだ。実際にそのイメージ通りの体が体験される事はないのだよ。試しに今望月君が体験している内容を全て言ってみよ」

「目の前に老師がいて、その後ろに壁があって、壁には墨蹟の掛け軸が掛かっています。私が口を動かして話しています。私の話している声が聞こえます。私が立っている足の感覚が有ります。足の裏で床を感じています」

「口と足の感覚はあるようだが、体全体はどこにあるのだ?」

「さっきの瞬間には体全体は意識していませんでした。たしかに常に体全体を意識なんてしないですね」

「口と足の感覚だけしか無いのにこれを私と言って良いのか?」

「そう言われれば肉体を持った私という存在は妄想だったような気がしてきました」

「だいぶ解ってきたな。もう解ったと思うが、意識していなかったのではなく、体全体は存在していなかったのだよ。体験していないことは無いのと同じなのだ。今この瞬間に実際には口と足の感覚しかないのに、(架空の)体があるという先入観のために自分を肉体のある人間だと誤って思い込んでいるのだ。今この瞬間に実際に意識している体験だけが事実なのだよ」

「でも、私が存在していないなんてまだ信じられないという気持ちが強いです」

「信じられなくて当然だ。だから三昧の境地に至り、見性体験をして確認するのだよ」

「三昧の意味がいまいち良く解ってないので、教えて頂いてもいいですか?」

「三昧には三つの意味がある。以後、三つの事に留意して修行するように。一番目は『正念の一貫相続』正念とは何回も出てきた『ただ観る』という事を別の言葉で表しただけにすぎない。つまり、エゴを働かせない事。価値判断をしない事だ。雑念を払い、今している事に徹底的に集中する事で実現できるのだ。そして、その正念を途切れることなく、一貫して続ける事が大事なのだ。例えば、瞑想時は意識の空白状態になるのではなく、随息観なら呼吸を『ただ観る』ことを決して途切れることなく続けることが大事なのだ。二番目は『心境一如 物我不二』私はまわりの世界から切り離された存在ではなく、世界と一体であるという意味である。自他を区別する事なく、他人には自分の事のように親切にしてやれ。以前会社で言い争いになったと言っておったが、わしから観れば自分の右手と左手が喧嘩しているようなものだ。三番目は『正受にして不受』これは墨蹟の掛け軸をやったから覚えておるだろう。暑い時は暑いと正しく感じて、それ以上、二念三念に展開させない。つまり、雑念や妄想を起こさないという事だ。最後に修行とは気合だ。木刀を振った時の気合を忘れるな」

「はい」と望月は答えると深く低頭して退室した。



 望月が歩く瞑想をしながら「一如庵」に向かっていた。三ヶ月ほど前からラベリングはやめて、呼吸と足の感覚に集中しながら歩くようにしていた。しばらく歩く瞑想をしていると、ふと気付くと自分のまわりに見えている物の存在感が増しているように感じた。見慣れたはずの風景なのに、どういうわけかまるで風景の中のひとつひとつの物が何か特別な物であるかのように心にその存在を強く感じさせるのであった。

 望月は「一如庵」に着くとすぐに老師に質問した。

「老師、見慣れたはずの風景が強い存在感で心に迫ってくるのですが、どうしてでしょうか?」

「瞑想修行が進み、エゴが徐々にくうじられてきたからだよ。今まではエゴという色眼鏡を掛けて見ていたから良く見えていなかったが、色眼鏡の色が徐々に薄くなって来たからよく見えるようになったのだ。修行がもっと進むと驚くほど見え方が変わるぞ」

 瞑想が終わり、帰路についた望月は歩く瞑想をしていた。いつもよりまわりの景色をよく観て、景色の存在感をより感じながら歩いて帰った。道や民家といった見えるものを言語的に理解するのではなく色や形をイメージ的に見るのだ。そして歩みと共に、まるで川の流れのように景色が流れ去っていくのを感じるのだ。瞑想の上達を実感できて晴れやかな心持ちで歩いていたのだ。



 今日は「一如庵」で老師の法話があった。 

「昔、ある禅僧が客人が来たので茶を出した。客人が茶を飲もうと湯呑を手に持ったところ、禅僧がが客人の手をたたいたので茶がこぼれた。客人はは驚いて『何をするんだ』と言った。禅僧は顔色ひとつ変えずにこぼれた茶をさっと拭くと『茶がこぼれたら拭く。我々はこういうあたりまえの事をやっております』と答えた。この話を何とみる? 誰か解る者はいるか?」と老師が言った。

「…………」誰も答えない。

「悟りを開いた者はエゴの欲望に基づいた行動はしなくなり、あたりまえの事・やるべき事・正しい事を行うようになるという事だ。つまりこの例題の場合はエゴが拭きたいから拭いたのではなく、茶がこぼれたのを見た瞬間に、思考を介さずに自然と手が出たのだ。感即動、これが無我の境地に至った者の行動だ」と老師は説明した。



 今日は「一如庵」に行く日ではなかったので、仕事終わりに望月と岡田は居酒屋で飲んでいた。

「公案を頂きたいと老師に願い出たけど、まだ早いと言われてしまったよ」と岡田が言った。

「公案て何だ?」と望月は質問した。

「悟りを開くきっかけとなる問題だよ」

「へー、そんな問題があるんだ」

「でも、かなり修行の進んだ者にしか与えられないんだ」

「早くその問題が頂けるようにお互い修行を頑張らろう!」



 自宅に帰った望月はさっき居酒屋で岡田から聞いた公案の事を考えていた。岡田が公案の事を悟りを開くきっかけとなる問題だと言っていたので、悟りが開ける魔法の問題だと大げさに受け取っていたのだ。公案を頂きたいと老師に願い出てみたかったが、先輩の岡田がまだ早いと言われたのに自分が先に頂いたりすると気まずくならないかなどと考えていた。



 翌日望月は「一如庵」に行くと、どうしても公案の事が気になり老師に質問する。「公案という問題があると聞きましたが、どのようなものでしょうか?」

「公案はまだ早い。修行の進み具合をみて、その時期だと判断したらこちらから公案を授けるから、あせらずに精進して待て」

「はい」と望月は言うとすごすごと退室した。

 座禅が終わり、次は老師の法話だ。

「曹洞宗の開祖である道元禅師が書かれた本の中に、かまどたきぎが燃えて灰になると普通の人は思うが、本当はそうではなくて、薪は薪であり、灰は灰なのだとある。この意味が解る者はいるか?」

「…………」誰も答えない。

「誰も答えないので、宿題とする。後日、答えの解った者は見解けんげを述べるように」



 自宅に帰った望月はさっき「一如庵」で老師の出した質問について考えていた。たきぎが燃えて灰になるのは当たり前の事なのに、どうしてそれが違うのか訳が解らなかった。「身体があるというごく当たり前の事が当たり前じゃないのが悟りの世界だから何でも当たり前じゃないんだな」と望月は独り言を言った。次の瞬間、身体があることが当たり前じゃないと解ったときのように実際に体験した事だけを言葉にして確認してみようと思った。もちろんかまどたきぎも灰もここにはないのだけれど、あると仮定して頭の中でイメージを描いてやってみた。「竈にくべられた薪がある。薪から炎が出ている。灰だけがある」と口にしてみた。イメージの中で体験したことはこれだけなのに、薪が燃えて灰になったと思うのは頭で考えたことだと気づいた。



 翌日、「一如庵」に着くと望月は老師に「昨日の薪の話ですが、実際に体験したことは薪がある事と薪から炎がでている事と灰がある事だけなのに、これらの経験を頭で考えて結びつけるから薪が燃えて灰になったと思い込んでしまうのですね」

「ほー、よく気づいたな。そのとりだ。時間とは思考の中にしか存在しないのだ。薪が前で灰が後と考えること、つまり薪が灰に変化したという思考が、まるで時間があるかのような錯覚を生むのだ。実際にあるのは瞬間瞬間の体験だけなのに、それを頭で考えて結びつけるから思い込みが生じるのだ。このように実際に体験した事と頭で考えた事を、ごちゃ混ぜにせず、はっきりと分けて物事を観ることが大事だ。そして、修行により思考を無くすことでこのような妄想から完全に解放されるのだ」

「薪が灰にならないように、人も死体にはならない、つまり死も思考が作り出した妄想だということですね」

「そのとおり。よく解ったな。道元禅師もそのことを言いたくて、薪と灰の例え話をされたのだよ」




第四章 ゾーン


 数日後、「一如庵」での瞑想が終わった後、老師が「望月君はビリーヤードをやるか?」と尋ねた。

「はい、学生時代はけっこうはまってました」

「そうか。それは楽しみだ」と老師は言うと望月をビリヤード室に誘導した。

「ゲームはナインボールだ。それで良いな」と老師は言った。

「はい」

 老師はビリーヤード台を持っているだけあって、とても上手かった。次々に的球を連続で落としていき、望月にはなかなか順番が回って来ないのだ。

「老師が上手すぎて勝負になりませんよ」と望月は言った。

「では、ビリーヤードが上達するとっておきの瞑想を教えよう」

「えっ、とっておきの瞑想ってそんなものがあるのですか?」と望月が驚いて言った。

「ビリーヤードに限らず、あらゆる競技のトップアスリート達がやっておる瞑想があるのだ。イメージトレーニングと言って成功イメージを何度も何度もイメージする瞑想だ」

「あっ、そういえば何か聞いたことあるな」

「できるだけ詳細に、ありありとイメージすることが大事だ。望月君くらい瞑想体験を積んでおれば大きな効果が期待できるぞ」



 望月は自宅に帰る前に本屋に寄ってスポーツのメンタルトレーニングの本を買った。

 自宅に帰ると望月は今買って来た本を早速読んだ。本に書いてあったルーティン(心の迷いをはらい集中力を高める為に行う決まった一連の動作)に興味を示し、自分もやっとみようと思った。

 望月の考えたルーティンは、ショットする位置から三歩離れた所に立ち、三歩歩さんぽあるいてビリヤード台の前に立つと、三秒間合掌してからキューを構えて五回ウオームアップストローク(ショットの前の準備にキューを前後に振る事)をして、六回目のストロークで手球をショットするというものだ。

 ルーティンが決まると次にイメージトレーニングをしてみた。枯山水庭園の瞑想や阿字観によってイメージする力を養成していたので、ありありと詳細にイメージする事が出来た。まずルーティンを行ってからブレイクショットをし、ショットの度にルーティンを繰り返しながら次々に的球を落とし、手球を次の的球を落とし易い位置にもっていく為に回転をかけるといった具合にイメージするのだ。



 二ヶ月後、望月は老師にビリヤードの再戦を申し込んだ。この二ヶ月間のイメージトレーニングとルーティンの成果を試したかったのだ。

「イメージトレーニングはしっかりとやったのか?」と老師が尋ねた。

「はい、ばっちりです」

「そうか、それは楽しみだ」

 望月はブレイクショットの前にまずルーティンを行った。ルーティン動作が集中力をうまく高めてくれたおかげで、ブレイクショットがイメージトレーニング通りに完璧に決まった。あまりにイメージトレーニングのイメージの通りだったので不思議に感じて気分がのって来た。ショットの度にルーティンを繰り返しながら次々に的球を落とていく。非常に集中力が高まり失敗する気がしない。球を突くキューと自分の体がまるで一体になったように感じた。玉の配置がまるで上から眺めているように良く分かる。初めて1ラック(1ゲーム)突き切りができた。

「ゾーンに入ったようだな」と老師は言った。

「ゾーンって何ですか?」

「トップアスリート達がまれに経験するとても集中力の高まった状態だよ。例えば野球選手の場合ならピッチャーの投げた球が止まって見えたりするらしいぞ」

「トップアスリート達でないと到達できない領域に私なんかが到達できるわけないじゃないですか」

「トップアスリート達と同等レベル以上の真剣さで瞑想修行に取り組んだからだろう」



 翌日、会社に行くと岡田が話しかけてきた。「望月、聞いたぞ! ゾーンに入ったんだって? すごいじゃないか!」

「うん、でもたぶんまぐれだよ」

「まぐれで到達できるようなものじゃないぞ」

「ルーティンが集中力を高めてくれたのが良かったみたいだ。ブレイクショットをしたら、イメージトレーニングと全く同じショットになって、それで不思議な感じがして、なんかスイッチが入ったみたいなんだ」

「デジャブ体験がスイッチになったんだ!」

「うん、そうみたいだ」

「俺もビリヤードを始めてみようかな。今度、教えてくれよ」

「いいね! 今晩にでも行こう」

「よし、決まりだ」



 自宅に帰った望月は職場で仕事をしているところをイメージトレーニングしてみた。伝票に記載された品を棚からピックアップしてダンボールで梱包して伝票を貼り付け、行き先別に仕分けするのだ。仕事の一連の流れがスピーディで効率的に進んでいる様子を出来るだけリアルに何度も何度もイメージした。

 翌日、望月は職場で昨日のイメージトレーニングに近い仕事をしようと集中した。とても集中力が高まっていて、瞬時に伝票を読み取り、無駄のない動きで素早く商品を棚からピックアップして、ダンボールで梱包して伝票を貼り付け、行き先別に仕分けする。とても正確でスムーズな動きだ。とても体が軽い。まるでどう動けばよいのかが事前に解っていて動いているようだ。すばらしい集中力だ。どんどん仕事が片付いてゆく。仕事のストレスも感じなかった。むしろ仕事が悟りへの修行になっているという喜びさえあった。



 望月は今日は仕事が休みなので、自宅の近所を散歩がてら歩く瞑想をしながら歩いていた。ふと空を見上げると青空が広がっているが、一つだけ大きくて真っ白な入道雲があった。望月は雲を見ていると、空にプカプカ浮かんで気持ちいいなと感じた。そこで、今自分がまるで雲になったかのように感じた事に気付いた。エゴがくうじられる度合いがまた少し進んだからこういう見え方になったのだと思った。



 望月が職場で帰り支度をしていると、望月の上司である今井課長が話かけてきた。「望月君、最近の君の活躍ぶりはすばらしいね! まさに一流の仕事ぶりだよ! 入社した頃は続かなさそうだったのに、こんなに変われるものなんだね」

「ありがとうございます。仕事がうまくいきだしたのは瞑想のおかげです。アメリカではグーグルなどのIT企業が中心になってマインドフルネス瞑想という瞑想を取り入れることで大きな効果を上げているそうですよ」

「へー、瞑想か。そういえば最近マインドフルネス瞑想というのはよく聞くな。俺も挑戦してみるかな」



第五章 公案禅


 望月が「一如庵」に通いだして二年が経った頃、老師から個室に呼ばれた。

「望月君も三昧境に入れるようになったようだな」

「はい、おかげ様で」

「いよいよ公案を授ける時が来た。しかし、その前に心しておいてもらいたいのが、本当に真剣にやらないとなかなか公案の解答は認めてもらえないということである。もちろん、今までの修行も真剣に取り組んでいた。しかし、ここからは更に真剣な修行が要求されることになり、一日中正念の状態を維持することが要求されるがその覚悟はあるか?」と老師が言った。

「はい。悟りが開く為ならどんな苦労も積極的にやりたいです」

「その覚悟があるのであれば公案を授けよう」と老師は言うと、更に続けて「両手でかしわ手を打つと音が鳴る。では片手ではどのような音がするのか聞いてこい」と言われた。

「…………」あまりにも驚くべき公案の内容にとっさに返答できなかったので、低頭して無言で退室した。



 自宅に帰ってから望月は公案について考えていた。どう考えても片手の音など聞こえるはずないとしか思えなかった。これはどう考えたらよいのかさっぱり解らなかった。



 翌日、職場で岡田が聞いてきた。「公案を頂いたって?」

「うん」

「どんな内容だ?」

「それは言えないんだ。自分だけで取り組まないといけないんだ」

「そうだよな」と言って更に続けた。「望月は修行する態度が誰よりも真剣そのものだったから上達が早いわけだ」

「そんな事ないよ。公案を頂いても、いきなり行き詰ってるし」

「どうしてそんなに頑張れるんだ?」

「悟りを開いても終わりじゃなくて、更に修行をして悟りを身に付けて人格の完成を目指さないといけない。いったい人はどこまで昇って行けるのか、その『高み』を見極めたいんだ」



 老師から個室に呼ばれた。公案の解答と指導は必ず個室で行われるのである。

「片手の音は聞けたか?」

「いえ。まだです」と望月は恐る恐る答えた。

「どのように取り組んでおるのか?」

「いったいどのように取組めば良いのかいろいろ考えていたのですが、全く解りませんでした」

「ばかもの! 考えるより先に何かやってみるのだ!」と老師は言うと短い警策のような棒で望月をバシッと叩いた。

「申し訳ありません」と望月は言うと低頭して退室した。



 自宅に帰った望月は今日の出来事を思い返していた。棒でしばかれるというひどい目にあった事、公案が通るまでしばかれ続ける可能性が高い事、しばかれるのがいやなら早く公案の解答を認めさせるしかない事などを考えていた。なるほどこれは大変な修行になるわけだと望月は思った。その後、しばらく公案にどう取り組むべきか考えでいたが、やはり全く解らなかったので、解らない事をいつまでも考えていてもしょうがないと思い、一旦考える事を中断して随息観の座禅をすることにした。しばらく座禅をしているとふと閃いた。公案禅は別名看話禅とも呼ばれているので、これがヒントではないかと思いついたのだ。



 数日後、望月は老師からまた個室に呼ばれた。しばらくして望月が個室から退室すると岡田が話しかけてきた。「どうだった?」

「ある取組み方を思いついたから、このようにしていますって言ったら、間違っているとは言われなかったからこのまま続ければ何とかなりそうだよ」

「おっ! やったじゃないか」

「でも、老師から『もっと気合を入れて真剣にやれ!』と言われて棒でしばかれたけどね」

「しばかれたのに嬉そうだな」



 瞑想道場に通いだして三年が経った。つまり望月が公案を頂いてから一年が経っていたが、未だ片手の音は聞けていなかった。公案を頂いてから一年間それまでの人生では経験した事がないほど真剣そのものの修行が続いていたが未だに片手の音が聞けない事で望月の心にふと弱音が生じた。これほど真剣にやってきたのに、まだ片手の音が聞けないのは自分に才能がないからではないだろうかと思ったのである。

 そんな望月の様子を見ていた老師が言った。「集中力がとても高まるとっておきの方法があるが、やってみるか?」

「はい、是非やらせて下さい」

「では五日間の断食のぎょうに入るので、会社に夏季休暇を申請して日程が決まり次第連絡するように。断食をすると非常に集中力が高まり、修行が一気に進む可能性があるぞ。また、長寿遺伝子のスイッチが入って健康にも良いぞ」



 望月は「一如庵」に五日間泊り込みで断食の行に入った。始めは空腹を感じたが、一日経つ頃にはもう空腹は感じなかった。

 断食中、座禅して必死に片手の音を聞いているが、なかなか片手の音が聞けないので、夜も寝ずに頑張った。



 三日後、望月は断食によって生命が危機にさらされる事で尋常ではないほど集中力が高まってくるのを実感した。自分の中にこれ程の力が眠っていた事に驚くと共に、深い喜びを感じていた。



 四日後、夜も寝ない望月が心配になった老師は「限界を超えているようだから少し寝たらどうだ」と声をかけた。

「この五日間で必ず片手の音を聞くと決めたのです。ここで片手の音が聞けなかったらこの先ずっと聞けないと思うので、死んでも寝ません」

「その心意気見事だ。しかし、あまり目的意識を持ち過ぎないほうが良い。目的を意識するという事はエゴが働くということだからだ。ただ座る、ただ片手の音を聞く、という姿勢が大事だ」

 声をかけただけで止めなかった老師の様子を見ていた岡田が言った。「止めなければ本当に死んでしまいますよ」

「あの目はまだ大丈夫だ」と老師が答えた。

「なぜそんなに無茶をさせるのか?」

「極限状態になると偽の自分であるエゴが先に音を上げて、本当の自分が輝きだすからだ」

「私は弱い人間なので公案禅は無理ですね」

「そんな事はない。弱いと思っているのはエゴであって、本当の自分は思っているよりもずっと強いのだよ」



 望月が断食の行を開始してから予定の五日間が経った。しかし、まだ望月は片手の音を聞けていなかった。望月がきっと落ち込んでいると思った岡田は何と言ってなぐさめれば良いのか思案していた。しかし、望月の様子を見るとすさまじいまでの気を発していて、全く止める気などないと理解した。岡田にはその様子は神々しくさえ感じられ、たましいが震える程の感動を覚えた。



 翌日、瞑想室で十人ほどが座禅をしている。望月は明鏡止水のごとく心を研ぎ澄まして片手の音なき音を聞いていた。そんな時、誰かが警策けいさくで左肩を打たれて、「パーン、パーン」と音が鳴り、次に右肩を打たれて「パーン、パーン」と音が鳴った。そして、その瞬間その音が望月の中で爆発したのだ。もちろんその音はそれほど大きな音ではなかったし、まわりにいた他の者達にとっては普通の警策の音であった。しかし、望月にとってはその音は天地をゆるがすほどの爆発音と言ってもいいくらいに大きな衝撃であった。どういうことかと言うと、この時はとても不思議な事が起きていて、望月は音そのものに成っていたのだ。深く禅定に入っていた望月はその音でハッと我に返った。そして、完璧な無心状態になっていて「くう」を体験したのだ。つまり、公案禅三昧の状態がずっと継続し、心の働きが完全に停止した状態で音を聞いたことで、音が自分自身だという真理を実際に体験したのだ。これが望月の見性体験だった。

「老師、片手の音が聞こえました! …………」と言うと望月は言葉を詰まらせ、涙が望月の頬を濡らした。

万感胸に迫り涙したのではなく、エゴや肉体から解放された圧倒的な歓喜の涙であった。しばらくして「不思議です。自分の体とまわりの物の境界が無くなって、全ての物がつながっています。全てが自分のように感じます」と望月は言った。まわりにあるもの全てとの一体感と圧倒的な至福を感じていたのだ。それは、我々を生かして止まない無尽蔵のエネルギーとの一体感であり、本来の面目との出会いである。望月はこれほどまでに明らかなものを、どうしていままで見失っていたのか不思議に思った。そして、望月は更に続けた。「自分の体が無くなって、見えない十五個目の庭石が存在しないという事がはっきりと理解できました」

 望月はまるで自分の体の上を歩いているような不思議な感覚で廊下を歩いて枯山水庭園が見えた時、「あっ!」と声が出た。今まで塀の外の電柱がせっかくの庭園の景観を損なっていると思い込んでいたが、その嫌いだった電柱が美しく見え、愛おしくさえ感じられるのである。今までは見ているようで、何も見えていなかった事が心底理解できた。今まではエゴという色眼鏡を掛けて見ていたから本当の世界が見えていなかったのだ。廊下、枯山水庭園、電柱と見えているものが次々と移り変わっていくのは私が動いているからだと思い込んでいたが、そうでは無くて、老師が初詣に行った時に言ったように、今この瞬間が生きているからだと理解した。つまり瞬間瞬間の感覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)だけがあって、それ以外は何も無いということだ。もちろん私もいないし、今見ている世界の視界の外側の部分も無いということだ。つまり、今目の前にあるこの世界そのものが一つの命であると理解したのだ。そして、この命こそが仏の命であると理解したのだ。

「悟りを開けばそれで終わりではないぞ。悟後の修行で悟りを身に付けていき、自我意識が完全に消滅した状態である大悟徹底に至り、人格の完成を目指さねばならんのだぞ」と老師が言った。



 翌日、望月が「一如庵」に行くと岡田が来ていて、「おい聞いたぞ! 悟りが開けたんだって。おめでとう! 老師も後継者ができたと喜んでおられたぞ。どんな感じだ?」と言った。

「自分が無くなって、世界が光輝いて全てが一つになっているんだ。そしてとめどない喜びが湧き上がってくる。ああ、これが天国なんだって感じ。岡田さんが言ってた死をのがれるという事も解ったよ。世界そのものが本当の自分だったんだよ。人間である事も、生きている事も、死ぬ事も全ては妄想だという事が『くう』を体験して本当に理解できたよ」


あとがき

 最後までお読み頂きまして誠にありがとうございます。

 五日間も寝ずに断食なんて絶対に不可能だ! って思われたことでしょう。しかし、実際に比叡山延暦寺では千日回峰行という修行の中で七百日目から九日間の不眠不休の断食の行が行われており、戦後十四人が達成されたそうです。そして、この小説の主人公である望月は見性体験をするまでに断食をしたりと大変な苦労をしましたが、見性に至る過程には個人差がかなりありまして、人によってはかなり短期間でそれほどの苦労をすることも無く見性体験をされる方もいらっしゃるようです。

 最後にこの小説のテーマである「悟り」について補足説明します。多くの方の認識は、まず世界の中心に私がいて、そして私が物を見たり、私が音を聞いていると思い込んでいると思います。しかし、物を見る体験や音を聞く体験というのは本来は私と対象物というふうに分割して認識するべきではなくて、全てが一つの体験なのです。片手の音というのはそういう体験の分割が生じる前の純粋な体験のことだったのです。そして瞑想によってエゴを無くして、分割が生じる前の純粋な体験をすると全てが本来の自己であったと理解し、悟りが開けるのです。思考が分割するべきではない体験を架空の自己エゴと自己以外に分割していたからです。つまり悟りとは一言で言えば私って実はいなかったんだ、という事です。これを仏教用語で諸法無我と言います。また禅宗では無我の境地とも言います。瞑想して雑念を払い、思考を無くすことで無我の境地は実現します。

 そして悟りの世界には生と死や自己と他人の区別はありません。思慮分別する心が生きているものと生きていないものを区別し、自己と他人を区別するから、あたかもそのような実体があるかのような幻想が生まれるのです。全ては一つなのです。私がいないというのは全体から分離した自己はいないということです。あるのは全体だけです。このように天地と我と一体となった悟り境地のことを「天上天下唯我独尊」と言ったのです。この言葉は俺様が一番偉いといった思い上がった意味ではありません。

 悟りを開くことで全ての苦しみから解放されます。我執がしゅう(私という実体があると思い込み、その思いにとらわれること)があらゆる苦しみの原因だからです。今この瞬間目の前にある全体だけが在り、それ以外は在りません。悩みや苦しみなんか目の前には在りません。つまり悩みや苦しみなんか元々在りはしない妄想だったのです。


座禅会や瞑想会に興味のある方は下記URLをご参照下さい。

http://zen468.blog.fc2.com/blog-entry-32.html

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[良い点] 悟りの技術について,断片的な情報はネットから取れるけど,実際に道場で,スタートから悟りまで,どのような技術をどう組み合わせるかを知ることができた点. [気になる点] ・老師の言葉使いが乱暴…
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