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自己奉仕考

作者: 鯨井庇

 自己奉仕考 

鯨井庇(ひさし)   


 彼にとって、世界は金そのものだった。

 金で買えないものはない。地位も名誉も手に入る。愛にしても、行き着く先は金でしかなく、家庭内の小さな不和も世界規模の紛争も、金があれば大半は解決する。 裏を返せば、人は金が無いから争うに過ぎない。

 世界は金で出来ている。

 どんな難題だろうが、札束で頬を叩いて解決しないものはない。叩けぬ者は野たれ死ぬばかり。人生に勝つには金あるのみ。

 一種の宗教的信仰すら感じられるほど、彼は純粋に金を愛していた。



 彼の信奉は日に日に熱烈に、そして盲目的になった。

 ある時、彼はこんなことに気が付いた。

 今、目の前にコンビニがある。そして、そこで定価でモノを買うとしよう。

この「モノを買う」行為とそれに費やされる金は、遠くのスーパーまで走って定価以下の価格で同じモノを買うこととイコールで結ばれないかと。

つまり、差額分を払うことは、その分の時間・労力を金で買うことに等しいのではないかと。

 労働者にとっては当たり前の事実だが、労働経験もそれに準ずる知識も持たなかった当時の彼にとって、これは驚くべき真理だった。

 金で時間を征服する、タイム・イズ・マネーの精神に乗っ取り、世界を貨幣で再構築し始めた彼を止めるものは何一つ存在しなかった。

 必然的に彼は勉学に励んだ。疲れた時にはターミナル駅を見下ろせるビルに上った。行き交う有象無象の人影を見、将来は今目に映る誰よりも豊かな暮らしをするのだと自分に言い聞かせると、荒み切った心も癒された。

 そして、勉強量が将来得られる札束の枚数に比例するのならば、少しでも時間を無駄にすることは札束をどぶに捨てることに他ならず思え、我慢ならなかった。むしろ、自分以外の誰も、そんなことを口に出さないのが不思議でたまらなかった。

 かような努力を経て、彼は某一流大学へ合格した。その過程で彼の青春は完全に失われていたが、全く気に留める素振りはなかった。後から金で買えばいいとあっさりしたものだった。


 合格発表の翌日、本棚と机だけがぽつんと置かれた殺風景な部屋。机にはおびただしい数の参考書が積み重ねられていて、「焚書処分予定」と記された紙が一番上にテープで留められていた。

 いかにも浪人生然とした部屋の中、彼はモニタ一体型のラップトップパソコンを床に置き、目を見開いてモニタを凝視していた。

 画面には緑色のP2Pソフトのアイコンと、そのウィンドウが表示されている。ダウンロード量を示すバーは七割程度にしか達していなかったが、彼は構わずファイルをダブルクリックし、動画を再生した。

 画面では、制服を着た女の子――どうみても十八歳以上には見えない、せいぜいが高校生と言ったところ――が所在なげにベッドに座っていた。

 撮影者の男がカメラ越しに女の子に話しかける。

「年齢は?」

「・・・・・・十四歳、中2」

 女の子は淡々と、伏し目がちに答えた。



 彼は金を信奉していたが、一方で金で買えないものの存在にも気付いていた。その一つが経験だった。

 彼は、しばしば人生をスタンプラリーに例えた。様々な経験がスタンプに相当し、それをいくつ集められるかが人生の目的だと。

 その点、彼は青春時代という地点で、未取得のスタンプを大量に残していたと言える。

 彼は女性を知らなかった。中高の男子校暮らしで免疫は完全に失われていた。知らないものほど恐ろしく見えるという原則通り、彼にとって女性とは、得体の知れない化物のような存在だった。


 だから、必然だ、と彼は独白する。

 動画をダウンロードする時でさえ罪悪感を感じない訳ではなかったが、今までの自身の抑圧、努力、そして結果を鑑みれば、法の存在は彼にとって何の足枷にもならなかった。

 それでも法が彼を阻むなら、世界そのものを変えてしまえばいいと本気で思っていた。

 それを成し遂げられるほどの力が、特権が、自分には備わるはずだと、そう確信していた。


 男が女の子のスカートを捲った。

 何の抵抗もなく、下着が露わになった。


 こうあけすけにやられたんじゃ、色気も何もあったもんじゃねえな、と彼は唇を片側だけ歪め、笑みを浮かべた。

 もうちょっとエロティシズムにも美学っちゅうもんが、と呟く部屋には彼以外誰もいない。


 世間は昼間だ。


 入学手続きやら何やらで、また明日からは忙しい。今日中にこのシリーズを落とし切ってしまわねば。あと五本はあるのだからな。

彼はまだ見ぬファイル群に思いを馳せる。マウスを握る右手には、汗が滲んでいる。


 男が女の子に話しかける。

 女の子は目を逸らしたまま微動だにしない。

「のえるちゃん、って言うんだよね」

「…………」

「のえるかあ、どんな漢字書くの? 乃ちの乃に長江の江? るは……瑠璃の瑠?」

 女の子が頷いた。

「そうかー、なるほどねえ。

……のえるちゃんの親ってヤンキーなのかな? ケッタイな名前だよねー」

 彼は嘆息した。完全に虚をつかれたという感じで、微かに笑みさえ溢れた。

 自身に経験がある訳ではないにしろ、これから事に及ぶという時にこんな雰囲気で大丈夫な筈がない。

 おれならもっと上手く話せるのにと彼は思う。いくらなんでも、最低限のデリカシーくらいは備えているつもりだ。

 しかし、事に及べるのは自分ではなくあの男であって、男が上手くやりのけたからこそ、自分は今こうしてその様子を見られるのだと、瞬時にもう一人の彼が気付く。すぐさま思考が増幅する。脳内会議が紛糾する。

 自分は決してあのおっさんにはなれず、まだ何事もなしていない一介の半学生半ニートに過ぎないという事実を改めて実感するのに、それほど時間は掛からなかった。

 情けなさ。惨めさ。妬ましさ。  負の感情が心のすき間を埋めていく。

 それでも、金と色欲にまみれた桃色の世界、白昼夢の具現化であるところの理想郷にひとたび己を飛ばしてやれば、何事も無へと帰していった。

 金ほど合理的な尺度はあるまいで。彼は改めて確信する。


 それにしても、所謂キラキラネームってやつかねえ。やっぱりおっさんの言う通り、親がいかんのだろうな。だからこんなモンにほいほいと出て、ネットの海に永遠に消えない恥を刻んでしまうんだ。阿呆だ。阿呆だ。淫売だ。社会の底辺だ。ネット上にはこの手の阿呆が掃いて捨てるほどいる。これが現実だ。何が夢だ。何が理想だ。金が無けりゃどうなるか、これ程分かりやすいものはない。くたばれ、くたばってしまえ……。

 彼が画面を罵倒し冷笑し恨み妬み嫉んでいる間にも、シークバーは時の経過を刻み続けていた。そして、動画はその三分の一を消化しつつあった。


 女の子は男の発言に気分を害した様子はない。ただ無反応を貫いているだけという可能性も否めないが、表面的な変化は一切無かった。

 その後も何やかやと男は女の子に話しかけていたが、軒並み女の子は無視し、精々首を縦か横に振るばかりで、口を利くことは決してなかった。


 遅々として進まない事の経過に飽き果て(曰く「時間の無駄は金の無駄」)、早送りのキーを押そうとした彼だったが、その指は画面が切り替わるぎりぎりのところで、キーの上にとどまった。

 彼は、改めて画面を注視した。

 男が言う。

「今日はのえるちゃん大人しいねー。いつもはもっと反抗的じゃない? この間もそのせいでおじさんのこと怒らせちゃったしさー。お金貰ってる以上、大人を舐めてちゃダメだよね。大分懲りたと思うけど」

「…………」

「でもあの時ののえるちゃん可愛かったよー。半泣きになっちゃって。おじさんSっ気強いから、可愛い子が泣いてるのとか見ると興奮しちゃってね」

「…………」

「彼氏にでも振られたの?」

「…………」

 女の子が頷く。

「図星かあ。傷心中って訳ね……。おじさん元気なのえるちゃんが好きなんだけどな。反抗してくれないと面白くないね」

「…………」

 男がぽんと手を打った。

「そうだ。おじさん、この間株で二百万儲けたんだよ。だから今日は十万アップの十五万あげる! 十五万だよ十五万!」

 彼は目を見開いた。株で二百万? 今日は十五万? すると、普段は一回五万? 

 現実的な金額の登場に彼は驚きを隠せない。背中にひんやりとした感覚が通り過ぎる。

 しかし、次の瞬間には嘲笑を通り越して哄笑していた。

 一五万だあ? 阿呆だ。やはり阿呆だ。

 あはは、あは、と自分でも驚くくらいの大声で彼は笑った。こんなに笑ったのはいつ以来か分からぬ程の大笑いだった。目から涙までこぼして、ひとしきり笑い通した。

 笑いが沈黙へと収束しかかった刹那、ひとすじの心理的な隙が生まれた。すかさず、もう一人の彼が彼の耳元で囁いた。


「何が違う?」と。


 しばしの沈黙のあと、彼は考えを打ち消そうと全力で頭を振ったが、もう遅かった。殺風景な部屋に少しばかりの風が吹いた。

 そして、風が止む頃にはもう、男を馬鹿にしていた自分が自分をあざ笑っていた。

 結局金ではないか。

 そう自分に言い聞かせて、今まで生きてきた。

 しかし、画面に映った男の姿は、小さく卑近で、気を引くための必死さが最高に下品だった。 

 画面には何が映っていたのだろう。

 画面には夢があった。画面に憧れる自分がいた。

 画面は現実なのだろうか。

 今、自分がいるところ、果たしてこれは何だろうか。

 画面と、この世界は同一のものだったのだろうか。

 自分は何を思って、画面を見つめていたのだろうか。

 自問する。

 男は意気揚々として、話を続けた。

「実は儲かったからこのベッドも買ったんだよ! 見てこれクイーンベッドだよ! 

 おじさん一人暮らしなのに、のえるちゃんのために買っちゃったよ」

「…………」

「今度おじさんの友達も呼んじゃっていい? そいつ大金持ちなんだけど、のえるちゃんの話したら是非会いたい会いたいってしつこくってね……。のえるちゃんが着てるような服だったらいくらでも買ってあげるよ、おじさん金持ちだから、なんて言ってたけど……」

 何かが胸元からせり上がってくる予感がした。

 はっきり言って、もううんざりだった。自らの未来を喉元に突きつけられている、そんな感触がした。

 自らの欲望のために法を犯し、少女の尊厳を踏みにじり、挙句金で解決しようとする……。

 自分が追い求めていたのは絢爛に彩られた理想すなわち現実のつるつるとした表面(おもてめん)に過ぎず、決して裏面たる陽の当たらぬ場所を直視することはなかったと、今になって分かった。

 確かに金があれば何でも出来るだろう。ただ、それを実際に行う際の醜悪さ、無様さはどうしたことだろうか。

 自らがあれほど卑しめ侮蔑した画面の中の世界と、将来の自分の姿に、如何ほどの差があろうか。

 おれの夢は、目標は、何だったのだろうか。

 努力は、青春は、未取得のスタンプは。


 画面から目を上げると、モニタ越しに無駄な思考は金の無駄だと叫ぶ自分が立っていた。たちまちその数は増し、部屋一面を覆い尽くした。彼らはその存在を賭けて、自らを彼に訴えかけた。

 けれどもう遅い。彼は自嘲する。

 彼は右手に握ったワイヤレスマウスをその内の一体に投げつけた。が、それは命中することなく、壁にかすかな傷を付け鈍い音を立てただけだった。

 シークバーはすでに動画の三分の二地点を通過していた。画面上に浮かぶ肌色の割合が増している。官能的な声、決して近代法治国家では許されない声も聞こえ始めていた。


 彼はズボンを下ろし、事に及び始めた。

 そしてひとしきり事が終わると、彼は嗚咽し、そのままパソコンを粉々に打ち砕いた。ぷつんと音がして、画面は再び闇に染まった。

モニタの中には、ただ無機質な部品が詰まっていて、それが飛散しただけだった。  

 それを確認した彼は、すっかり黙り切ってしまった自分たちを置いて、部屋を飛び出した。

 彼の行方は、誰も知らない。

  


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